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床下人とおこりんぼう

作者: 木里 いつき

わたしたち床下人にとって、地上は「おこりんぼう」が支配する、恐ろしい世界だった。


雷鳴のような声、大地を揺るがす足音。

わたしたちの頭の上にある、大きな大きな世界。


そこは、わたしたちの何十倍も大きな生き物が住んでいる場所だ。


中でも一番の恐怖は、彼らのたった一人の子ども、サイモンだった。

サイモンはいつも大きな声で泣き叫び、不機嫌な唸り声を上げる。


その声は、わたしたちの小さな心臓を直接揺さぶり、静かに暮らす日々を脅かした。

床下人たちは皆、彼を「おこりんぼう」と呼んで恐れた。



「またおこりんぼうが泣いているわ!」


「静かにしなさい!声を聞かれるわよ!」


お母さんやお父さんがヒソヒソと話し、わたしたちは皆、家の影に隠れて身を縮めた。


けれど、わたし、フィンの心は少し違っていたんだ。


わたしは知っていた。

おこりんぼうのサイモンには、たったひとつだけ泣き止む方法があることを。

それは、彼の母が奏でる、「音の箱」の音色だった。


床板の小さな隙間から、わたしは何度も音の箱を見ていた。


それはキラキラとかがやく、不思議ふしぎな形のはこ

それはそれは美し模様が刻んである。


母親がねじを巻くと、箱の中から、聞いたことのないような美しい音が溢れ出す。

その音色を聞くと、サイモンはピタリと泣き止み、満面の笑みを浮かべるのだ。


その時のサイモンは、ちっともおこりんぼうじゃなかった。

私たちのと変わらない、かわいい赤ちゃんだった。


その音色は、わたしたち床下人にとっても、唯一の楽しみだった。

夜になると、音の箱の音を聞くために、わたしも含めた子どもたちはこっそりと床板に耳を寄せる。



「今日の音は、お星様が駆け抜けたみたいだね」

「うん。昨日はお花がとんでるみたいだった」


そんな風に、みんなで楽しんだ。


けれど、ある日、その音色は突然途絶えた。


「あれ?音の箱の音がしないね」

「どうしたんだろう?」


子どもたちは、不思議そうに顔を見合わせた。

次の日も、そのまた次の日も、音は聞こえなかった。


その日から、おこりんぼうの泣き声は、以前にも増して大きくなった。

床下は恐怖に包まれ、誰もがただ身を潜めることしかできなかった。


「お願いだから、おこりんぼう、泣き止んで……」


お母さんの声が聞こえた。お父さんは、心配そうにわたしの頭を撫でてくれた。


「フィン、いま、とても地上は危ない。絶対に行っちゃダメだ」


わたしは黙って頷いたけれど、心の中では決めていた。このままじゃいけない。

この泣き声は、ただのわがままじゃない。


音の箱の音が、おこりんぼうのあかちゃん——サイモンは聞きたいんだ。


床下の平和を取り戻すために。

そして、サイモンを笑顔にするために。

わたしは禁じられた地上へ向かうのだ。



——夜になった。



サイモンの泣き声は、少し静かになっていた。

きっと、疲れて眠ってしまったのだろう。


わたしは、そっと床板の隙間から、上を覗いてみた。


「誰もいないみたい……」


おこりんぼうの母親も父親も、もう寝ているようだった。


「よし!」


わたしは、勇気を出して、地上へ飛び出した。


そこは、わたしたちの世界とは、全く違う場所だった。

テーブルも、イスも、カーテンも、なにもかもが大きくて、わたしにはまるで巨人の国のようだった。


「わあ……」


わたしは、あまりの大きさに、思わず声を出してしまった。


「静かに、フィン。声を聞かれると大変たいへんだ」


わたしは、自分の口を両手で押さえた。


探し物は、すぐに分かった。

サイモンのベビーベッドの横に、それは寂しそうにおかれていた。



………音の箱だ!


わたしは急いで、音の箱のそばまで走っていった。

けれど、そこでわたしは、がっくりと肩を落とした。


音の箱のねじは、わたしの両手を使っても、とても回せないほど硬くなっていた。

そして、音を出すための細い針金のような部分は、おれてしまっていたのだ。


「これじゃ、とても直せないや……」


わたしはうなだれて、音の箱を見つめた。


その時、ベッドから、ちいさな寝息が聞こえた。

おこりんぼうのあかちゃんだ。


わたしは、そっとおこりんぼうのあかちゃん——サイモンの顔を覗いた。

眠っているサイモンの顔は、ちっともおこりんぼうじゃなかった。

まだ幼くて、かわいらしい顔をしていた。


「この子が、いつも泣いているんだ……」


わたしは、サイモンの顔を見て、もう一度、音の箱を直そうと決心した。


「諦めちゃだめだ。きっと、どこかに道具があるはずだ」


わたしは、あたりを見回した。すると、ベビーベッドの足元に、なにかキラキラ光るものを見つけた。


「あれは……」


それは、サイモンのお兄ちゃんが遊んでいた、おもちゃの工具セットだった。


「やった!」


わたしは、工具セットのところまで、一目散に走っていった。

工具セットの中には、わたしがもっているものよりも、もっと丈夫で、もっと使いやすそうな道具が入っていた。


わたしは、音の箱の修理を始めた。


小さなねじを回し、折れた針金をそっと元に戻す。

一つ一つ、丁寧に作業を進めていく。

「あと、もう少し……」


その時、ベッドの中から、小さな(でも、おこりんぼうの声はやっぱり大きくて怖い)声が聞こえた。


「うー……」

サイモンが、目を覚ましたんだ!


わたしは、びっくりして、その場で固まってしまった。

胸の奥がバクバク言うのが聞こえる。

サイモンは、大きな目をぱちくりさせ、わたしの方をじっと見ている。


「うー、うー」


サイモンは、わたしを見て、何か言っているようだった。


「どうしよう……。泣かれると、お母さんたちに見つかってしまう……」


わたしは、震える手で、サイモンをなだめようとした。


「おこりんぼう、泣かないで。ごめんね。わたしが、音の箱を直しているんだ」


わたしの声は、サイモンに届かない。サイモンは、不思議そうに首を傾げ、わたしの手元を見ていた。


なおしてるの?


サイモンは、そう言っているようだった。

わたしは、黙って頷いた。


すると、サイモンは、にこっと笑った。

そして、小さな指を、わたしの手元にそっと伸ばしてきた。


「おてちゅだいしゅゆ?」


わたしは、サイモンの指を見て、驚いた。

サイモンの指は、とても優しく、音の箱に触れていた。


「ありがとう……」


それから、わたしたちは二人で音の箱を直した。

わたしが工具を使い、サイモンは、その小さな指で、わたしの手伝いをしてくれた。


「ねじ、ここ?」


サイモンは、そう言っているようだった。


「うん。そこをおさえてて」


わたしが言うと、サイモンは、本当にねじを抑えてくれた。

そして、とうとう、音の箱は直った。

わたしは、そっと音の箱のねじを巻いた。

キュル、キュル、キュル……。


懐かしい音がした。



そして、箱の中から、美しい音色が溢れ出した。

ポロンポロン、シャラシャラ……。


まるで、お星様が空から降りてきたみたいだ。 


サイモンは、その音色を聞くと、満面の笑みを浮かべ、穏やかな顔で、すーっと眠ってしまった。


その日から、「おこりんぼう」は、フィンにとって「サイモン」という、大切な友達になった。



そして、フィンは時々、音の箱の調子を見るために、サイモンのもとを訪れるようになる。


ある日、フィンが地上へ行くと、サイモンは、もう一人でどこまでも歩くことができていた。


「フィン!」


サイモンは、わたしのことを見つけると、嬉しそうに手を振ってくれた。


「サイモン!」


わたしも、手を振り返した。

わたしたちは、ことばは通わないけれど、心は通いあっている。


地上には、もう「おこりんぼう」はいない。

いるのは、わたしの、大切な友達の、サイモンだけだ。

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