なぜかあの子のことばかり考えている
フウとイナが家に帰ってきたのはすっかり夜になってからのことであった。
「じゃあね。また明日!」
フウはそう言ってイナと別れると自宅の玄関を開けた。
「ただいまー!」
隣の家からフウの大きな声が聞こえてくる。
彼女の家は明かりが付いていて賑やかであった。
一方でイナの家はまだ明かりがついておらず静かである。
彼女の母はまだ仕事から帰ってきていないようであった。
「ただいま」
イナは誰もいない家に帰って一人静かに呟くと家の明かりをつけ、自室に戻って荷物を置いた。
部屋着に着替え、台所に向かうと夕食の準備を始めた。
母が仕事をしている平日はイナが夕食を作っている。
イナが台所で夕食を作っていると、隣の家からフウと彼女の母の声が聞こえてきた。
トラ族の大声は家の壁を容易く貫通し、キツネ族の優れた聴力はその声をかなり拾ってしまう。
声の内容もイナには筒抜けであった。
「走れ走れ!そんなんじゃ追いつかれるぞ!」
「今のボールはカットできたじゃん!」
フウたち親子はテレビでパワーボールの試合中継を見ているようであった。
フウの母は顔を合わせた時と違って口調が荒っぽくなっている。
「どこ見て投げとるんじゃノーコン!ゴールの位置わかってんのか!」
「なんでボール通してんのトラ族なら身体張って止めろ!」
フウ親子がテレビに向けて飛ばしている怒気混じりの野次が筒抜けに聞こえてくる。
彼女たちの応援しているチームの状況が芳しくないのが画面を見ずとも伝わってきた。
(通りでスタジアムに行くわけだ)
イナは一人考えた。
テレビの前であれだけ熱の入ったヤジを飛ばせる人物ならスタジアムに積極的に足を運ぶのも納得であった。
「イナ……イナ?」
イナの背後から声が聞こえてきた。
それに気づいたイナが振り返ると、そこには黒毛のキツネ族の女性の姿があった。
イナの母である。
「ああ、おかえりお母さん」
「手を止めてぼーっとしてたけど何かあったの?」
「ちょっと隣の家の声が気になって」
イナの母は少し前に帰宅しており、イナに声をかけたが彼女はそれに気づいていなかった。
「お隣さん、声が大きいわねぇ」
「仕方ないよ。あの家に住んでるのトラ族だから」
イナは母と二人で食卓を囲みながら話をしていた。
フウ親子の声はどうやらイナの母の耳にも届いているようであった。
夕食を済ませたイナは食器を洗っていたがその最中、イナはふとフウのことを考えていた。
彼女の声、制服の下に隠れていた引き締まった肉体、何かと自分のことを気にかけてくるような振る舞いの数々。
顔を合わせてたった二日しか経っていないのにそれらがイナの脳裏に焼きついて離れない。
『もしかしてウチのこと好きだったりする?』
フウのおちょくるような言葉がイナの心に楔のように刺さっていた。
そんなことはないと口では否定しつつもどこか悶々としていた。
彼女は昔から友達付き合いなどには乏しい。
経験がないわけではないが積極的に関わろうとするのはフウが初めてであった。
キツネ族は恋多き種族とも言われるほど色恋沙汰が多いのだがそれもイナには全くない。
自分の胸の中にある感覚の正体がわからなかったのである。
「ねえお母さん。誰かを好きになるってどんな感じなの?」
イナはふと母に尋ねた。
それを聞いたイナの母はついに娘がそういったことに興味を持ったのかと内心歓喜に満ちる。
「誰かを好きになるとね、その人のことが気になって、その人のことしか考えられなくなって、ずっとその人のそばにいたくていたくてたまらなくなって、一緒にいられないと寂しくて辛くて、でもそれが幸せ。そんな感じかなぁ」
イナの母は自分の経験に基づく恋愛観を語った。
それは今のイナの状態そっくりそのままであった。
「そうなんだ」
「イナもついに好きな子ができたの?」
「別にそんなのじゃないよ。でも、なんか気になって」
イナの母は娘に意中の相手について尋ねた。
イナは違うと主張するが母には娘の言い草がどう見てもそうとしか見えなかった。
「どんな子なの?」
「白毛のトラ族の子。勉強が苦手だけどすごく明るくて声が大きくて運動できて、あと私にすごく話しかけてくるちょっと変わった子」
イナはフウの特徴を母に伝えた。
しかし『フウが女の子であり、しかも隣の家に住んでいる』とまでは言うことはできなかった。
「その子、きっとすごくいい子ね」
「そう……なのかな」
「トラ族なんてみんなの憧れの的でしょ?そんな子が数ある中からあなたを選んでくれたのはすごいことなのよ」
「確かにそうかも……?」
トラ族といえば強さの象徴ともいえる種族である。
そんなトラ族に近づこうとする他種族は後を絶たない。
それは昼間の運動部たちから熱烈な勧誘を受けるフウの姿を思い出せば明らかであった。
引く手数多のトラ族であるフウが自らの意志で自分に近づいてきたのは他者から見ればこの上なく羨ましい事象であったことをイナはようやく自覚することとなった。
「もしかして私、今学校ですごく目立ってる……!?」
イナは震えた。
これまで目立たないようにと積み重ねてきた立ち回りの数々がフウと交流するようになったことで音を立てて崩壊していた事実に気づいていなかった。
「トラ族の子と仲良くしてるってなれば目立ってるでしょうねぇ」
イナの母はクスクスと笑いながら指摘した。
「どうしよう……どうすればいいのかな」
「せっかくなんだから行くところまで行ってみればいいんじゃない?こんな体験できるのは若いうちだけなんだから」
イナが母に助言を求めると、イナの母は娘の背中を押すように発言した。
そしてその一言がイナの中の何かを弾けさせた。
「うん、ちょっと考えてみる」
イナはそう言い残して自室に戻ると携帯を起動してフウにメッセージを送った。
『明日一緒に登校しませんか?』
イナはフウと一緒に学校へ行こうと誘った。
わずか数秒で既読が付き、さらにその数秒後に返信が来た。
『いいよー!』
『では明日の朝八時に家の前で集合しましょう』
イナはフウと約束を取り付けることに成功した。
画面を眺める彼女の顔は嬉しそうであり、尻尾もご機嫌に揺れていたのであった。