頑張ったらご褒美が欲しいですよね
放課後、フウは教室に残って数学の追試を受けていた。
教室には他のクラスの追試対象者も集まっている。
イナは教室を出て図書室でフウを待つことにしていた。
追試の初めから十数分、ペンを走らせる音だけが聞こえる静かな時が流れる。
その様子をフウたちの担任兼数学教諭であるウィズが手元のストップウォッチと生徒たちとを交互に見ながらじっと監督していた。
「そこまで。ペンを置きなさい」
ウィズが解答時間の終わりを告げた。
生徒たちはペンを置き、直後に模範解答が配布される。
「今回も十問中五問以上正解で合格とします。合格者は答案の確認後各自解散、不合格者はそのまま教室に残るように」
ウィズは合格条件を生徒たちに言い渡した。
フウは自分の答えと模範解答とを見比べながら採点を行なった。
「よーし合格だー!」
フウは自分の点数を確認して歓喜の声を上げた。
得点は十点中六点、ギリギリ寄りではあったが確かに合格に足るものであった。
「せんせっ!合格ですよね?」
フウは勢いそのままにウィズに答案を見せた。
ウィズはそれを確認すると静かに首を縦に振った。
「合格です。次回以降は一回での合格を目指しましょう」
「はーい!さよならー!」
答案の確認を終えたフウは荷物をまとめると勢いよく教室を飛び出していった。
行き先はイナの待つ図書室である。
ウィズはフウの後ろ姿を見送ると静かにため息をついた。
『終わったよ!合格!』
『お疲れ様でした。まだ図書室にいるので待ってます』
フウは図書室の前まで迫ると駆け足をやめ、ゆっくりと歩き直した。
図書室の入り口を開き、イナの姿を探す。
先にフウに気づいたイナが席の端から手を振って合図し、それを見たフウはイナと合流を果たした。
「お疲れ様でした。よく頑張りましたね」
イナはフウに労いの言葉をかけた。
それと同時に周囲を見回し、音を伺う。
「せっかく頑張ったんですし、ご褒美が欲しくないですか?」
「くれるの!?」
イナの発言にフウは反射的に声を上げた。
直後に慌てて口を押さえて声を封じる。
直感的に大きな声が出てしまいがちな彼女と静寂が求められる図書室という場所とは相性が悪かった。
「ご、ご褒美ってどんな?」
「フウさん、ちょっと失礼しますよ」
イナは席を立ってフウの右側面に回り込むと背伸びをして顔の高さを合わせ、そのまま彼女の右の頬に小さくキスをした。
あまりに唐突かつ大胆な行動にフウは頭が真っ白になった。
彼女は友人的な距離は非常に近いがセンシティブなことに対しては非常に疎い、もとい初心であった。
「イナっち、今のは……?」
「今はこれぐらいしかできませんから。今日はこのあと用事があるので先に帰りますね」
呆然とするフウの表情を覗き込みながらイナはクスクスと笑う。
そんな彼女の姿を見たものはフウ以外誰もいなかった。
イナは机に積んでいた教科書やノートを片付けるとフウを置いて先に悠々と図書室を去っていった。
フウはイナの唇が触れた右の頬に手を当て、しばらくぼんやりと佇んでいた。
この後、フウはイナの一瞬の行動と自分を弄んでいるかのような仕草が瞼の奥に焼きついて離れなかった。
気分を変えようと一人ジムに足を運び、身体を動かしている最中も目を閉じた瞬間にその光景が克明と蘇る。
そんな彼女の姿は他の常連たちには変な様子に見えていた。
「どうしたのフウちゃん。今日はなんかぼんやりしてるけど」
ワシ族の男がフウに気さくに話しかけてきた。
彼はジムの常連の一人でフウとも仲が良い。
「仲良しの子にキスされて……」
「何ィ!?」
フウはその日あったことをポツリの呟いた。
その瞬間ワシ族の男は表情が真顔になり、少し遅れて声を上げる。
男の声を聞きつけた他の常連たちが次々に集まってきた。
「どうしたどうした」
「フウちゃんがキスされたんだとよ」
「なんだと!?それはどこの誰だ!?」
ジムの常連たちはいきり立って血の気を滾らせた。
彼らは普段からフウのことを娘や妹のように可愛がっている。
そんな彼女が手を出されたと早合点して義憤に駆り立てられていた。
「違うの!ウチは嫌な思いしてないし!それに相手は女の子だから!」
フウは早とちりする男たちを宥めた。
最後の一言を聞いて男たちは上がった肩を落とした。
「なんだ。女の子か」
「で、どんな子なの」
「キツネ族の子。この前ウチと一緒にここに来てた」
「あー、あの黒毛の子ね」
フウはイナのことを常連たちに話した。
イナは一度ここを訪れて利用しているため、常連の中には彼女の顔を覚えているものもいた。
「お前知ってるのか」
「おう。綺麗な顔してて背がちっちゃくて、身体の線が細いけどおっぱいは大きかった」
「サイテー!そんな風に見てたんだ!」
「仕方ないだろ直接話したわけじゃないんだから」
フウが軽蔑の視線を向けると常連は慌てて弁明した。
イナの人格面を見ていない彼は視覚的な情報でしか覚えていなかったのである。
「その子は外だとどんな子なのよ」
「真面目だし律儀でめっちゃ頭いい。ウチにわかりやすく勉強教えてくれるしー、あと……」
「あと?」
「たまになんか色っぽく見える」
フウは自分の視点から見たイナの姿を常連たちに伝えた。
それらの情報から思い浮かべた常連たちのイナ像は自然と一致していく。
「魔性だな」
「間違いない。魔性の女だ」
常連たちは口々に同じことを言った。
キツネ族から先行するイメージもあり、イナのことを魔性だと認識したのである。
ついさっきの出来事も咄嗟の行動であろうと計算づくであろうと躊躇いなく実行できるのはそう言わざるを得なかった。
「フウちゃんも色香に惑わされたか」
「そんなんじゃないんだってばー!」
フウは誤解されていると思い込んで必死に弁明した。
その日、イナは自分の知らないところで魔性の女という認識を植え付けたのであった。