第20話 私も馬鹿ね。
いわゆる明晰夢というやつだろうか…なんだかよく分からないまっさらな空間に私は立っている。
なんの音も聞こえない。
なんの匂いもしない。
この世界の先に辿り着こうとずっと向こうまで走ってみたけれども、いつまで立ってもゴールは見えてこない。
夢だからか、全く息は上がらないし…足の筋肉が動いてるっていう感覚もあまりないんだけれど。
ほら、彼が言ってた……
『素晴らしいだろ?!他のも触ってみるか?!そうだな!大腿四頭筋内側広筋なんて美しいぞ!ほらほらほら…』
何もなかった私の目の前空間に私に太ももを押し付けるマリウスが映し出される。
周りからはほんのり草と水の香りがして、サラサラという水の流れと彼のはつらつな声が耳の奥まで届く。
――こうやってみたら本当に変質者じゃないか。思わずクスッと笑ってしまう。
すると空間の中が突然暗くなり…雨の匂いがした。
『そうだなぁ、正直僕もよく…分からない。けれど、なぜか君を守ってあげたいと思ったんだ…』
少し恥ずかしがったような声がした、左を振り返ると、ゆっくりと緑色が濁っていき、光が消え、重く瞼が閉じていく、マリウスの姿があった。口は会話を交わした時とそのまま少しだけ微笑んでいた。
我に戻って彼が私のせいで死んだことをやっとの思いで整理する。
一瞬どうしようもなく自責の念にかられた。
…しかし私は公爵令嬢。国民が私を庇って死んだことは本当に残念だと思う。けれどもそれをずっと引っ張っていては他の者に示しがつかない。
…それに、私は公爵令嬢!たった一つだけの命が失われたくらいで泣いていては、これから46時中泣かなければならないことになる!
しかも、私は…公爵令嬢。逆に、わ、私が怪我をしない方が断然に利、利益になるわ!
「…馬鹿ね、私。」
自分の言ってることが自分でもあまりに醜いもので、思わずその場で屈み込んでしまった。
足を抱える真っ白で、肘だけほんのりピンク色に染まったまるで陶器のようだとよく褒められる腕には何一つ傷がない。
腕どころか足、胴、顔にも。
『ほら!僕の高密度の筋肉を見てごらん!特にこの腹斜筋、これは体幹の回旋動作を高負荷下でコントロールしてんいるんだ!ランドマイン・ローテーションで腹圧キープしたまま捻ってるから、インナーマッスルもちゃんと活性化されてるんだ!ほら!触ってみるんだ!ほら!ほらほら!」』
次は、右から騒がしい声がした。私に腹を捲り上げて見せつけるマリウス。
腹には町1番の屈強な男らしい、沢山の傷跡が残っている。
これからも…街の人たちを守っていくはずだったのに。街の住民でもない私が奪った。彼を。
ただただ、この空間の中で顔を下に向けて座っていた。
どれだけ時間が過ぎたのかは分からない。ふと、気になったことがあった。
本当に、なぜ、私を助けたんだ?幼いから、女だからと言っても、私は所詮マリウスと出会って30分のただの赤の他人。
一つ、思い当たる節があった。
昔から私の周りには私を好ましい印象に思ってくれる人たちが多かった、そんな人しかいなかった…だからそれが普通だど思っていたし、皆が私を助けてくれて、この世界は本当に優しいものだと思っていた。
けれどふとたまに、違和感を覚えることがあった。
私と一緒にお茶会をしているときはお茶の話が大好きで、いつも手作りのクッキーまで振る舞ってくれていた子が、今まで沢山の下位貴族の子供達にお茶を頭からかけていた。
私がテストで悪い点をとった時は疲れがたまっているのだろう、と心配してくれ、マナーレッスンでも丁寧かつ真摯に教えてくれていた先生は、他の貴族の家での行き過ぎた罵声や鞭打ち指導によって国外追放された。
私が転けると周りにいた使用人達は自分の持っていた一生働いても返せないような皿を放り投げて、こちらまで駆け寄ってきた。
それが当たり前だと信じていたけれど…この世界での私への対応はあまりにも尋常じゃない。もしかして…神の言っていた少女げぇむと何か関わりがあるんだろうか…
であれば、私はその作用によって、人々が私を好きになるようになっている…?
彼らがいつも私に笑顔を向けるのも、私の話を楽しそうに聞いてくれるのも…私を助けてくれるのも。
全て少女げぇむの強制力であって、私自身を見ていないということか。
今までの違和感…最近、周囲の賞賛に『私』が入っていないと感じていたのは、みんなが好きになっているのは『ニフェル・アルグランデ』という登場人物であるから、しかもそこに個人の感情は含まれていない、強制的なもの。
一体なんのためにある強制力なのかは分からないが、この、人々に好かれる性質というのは私の設定であることは確かだと思った。
今まで感じていた違和感は、全てそれで片付けられる。
だが、それならマリウスは本当になんのために死んでいったのか。登場人物としての『ニフェル・アルグランデ』を強制的に自分の命を捨てられてまで助けさせられたのだから。
……これから先も、自分でも何が何だかわからずに、少女げぇむの強制力によって人生を壊されていく者がいるのだろうか…
いっそ、この空間にずっと閉じ込められていたい……
ーーそう思ってもこの世界はそう甘くないらしい。目の前に明るい光を瞼越しに感じる。
不思議な感覚だ。今目を開けているのに瞼越しに光を感じるなんて。
切りたてのメロンに、りんごの皮をすりおろしたような青爽やかな匂い。周りからは使用人達があちこちを歩き回る足音と話声が聞こえる。
目を薄ら開けると、天井にはブーケンビリアの花の刺繍が天蓋一面に施されている。鮮やかなピンク色は、あまり目覚めによろしくない。
「……眩しいわ。」
周りには10人の使用人達が笑顔で立っている。
「おはようございます、ニファ様。お部屋が眩しいようで…すぐにカーテンを閉めさせます…して、お身体のご様子はいかがでしょうか?」
筆頭侍女らしき少し皺の入った使用人が私のベッドの傍で言った。
「……私はどれくらい眠っていた?」
「おおよそ9時間です。」
「そう……」
こういう時ってとっても長い間眠ってしまっていて、起きた頃には三週間経過していたとかいうものだと思うんだけど…そう簡単にあの事から逃れられることはできないか…
「そうね…体調は…そこまで、よくないわ…少し、1人にしてくださる?」
「かしこまりました。明日、トラフィズ侯爵様をこちらにお連れいたします。昨日のことについて、お話があるそうです。」
「えぇ…。わかったわ。」
いつもの私なら必ず話し相手に目を向けて笑顔で会話をしていたが…そんな気力がなくなってしまっていた。
使用人達は筆頭侍女に背中を押されて、名残惜しそうに部屋を出ていった。
最後の1人が一礼をしてドアを閉め、5メートルは離れたことを確認した後、私は私が6人は寝れそうな大きなベッドの上で、両手両足を大きく広げて、目をとじた。
私が、なぜ未来ではあのように憔悴しきっていたのか、わかったかもしれない。今の未来を知った上で行動している、今の私ほど早くはないが、あの私もいずれ、この世界の異常性に勘づいたのだろう。そして、人間不信に陥り、あのザマ、といったところか。あの見るからに不健康そうだった体…ただアシュルス殿下の目移りによる心労だけでは無かったようらしい。
…そういえば、昨日の夜、気絶してしまう瞬間、赤い瞳…アシュルス殿下のような姿が見えた気がしたけれど、
…そんなわけがないわよね…
もしあったとしても、それはおそらく私の強制力によるもの。どっちにしろ全く嬉しくない。
ふとアシュルス殿下のあの優しい心遣いを思い出す。自然と涙がこぼれできて、信じたくはなかったが、ぽつ、と言ってしまった。
「あれも…、まがいものだったのかな…」
枕に顔を埋めた。枕は鼻水と涙でグッシャグシャだ。あまりの情けなさに私は思い切り腕と肩の付け根の少し下の部分をつねった。
つねったところは、真っ赤に腫れて、それからしばらくジンジン痛んだ。




