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第9話 トリノ、音楽隊に入る。

『旅立ちの旋律』

星明りが、街道をぼんやりと照らしていた。


屋敷を抜け出したトリノは、裏庭の使用人用の門を出て、人気のない小道を伝って街の中心部へと歩き続けていた。

靴の裏は擦り切れ、体はまだ高熱の名残でふらふらとしていたが、それでも前へ進む足は止まらなかった。


(今は夜明けまで街に潜んで、それから門が開いたタイミングで外に出る……)


計画は頭の中で、何度も練り直していた。

屋敷の者たちが起き出すのは日の出から一刻後。それまでに、街を離れられれば、足取りを追われる可能性はぐっと減る。


だが、問題は「どうやって街を出るか」だった。


(ただの一人旅じゃ、すぐに足がつく。でも……)


トリノの脳裏に、数日前、買い物に出たとき耳にした街の噂がよみがえった。


――「旅の音楽隊が来てるんだって! 明後日には出発するらしいよ」


音楽隊。各地を転々とし、王都や貴族の館で演奏や舞を披露して生計を立てている旅の芸人たち。


(あの人たちの中に潜り込めれば……)


心が跳ねた。前世での自分は、ごく普通の会社員だったが、カラオケが大好きだった。週末には一人でも通って、何時間も歌い続けた。音感も悪くない。リズム感にも自信がある。


(それに――この世界には、まだ“あの歌たち”は存在していない)


「J-POP」「バラード」「アイドルソング」。

現代日本の音楽は、この世界では誰も知らない、まさに“異世界の芸”だった。


(武器になる。わたしの声も、知識も、全部)


トリノは、夜の街を縫うように進んだ。

旅の音楽隊が逗留しているのは、街外れの「白石亭」という古い宿だ。音楽隊に関わる者しか泊まれないらしく、門は閉ざされていたが、裏口で物音を立てると、ひとりの青年が現れた。


「なんだ? こんな時間に」


その青年――ギターのような弦楽器を背負った長身の男は、不審げにトリノを見下ろした。

けれど、トリノは震える足をぐっと押し止めて、まっすぐ言葉を紡いだ。


「お願いです。わたし、歌を聴いてほしいんです。どうしても……この音楽隊に入れてもらいたいの」


男は眉をひそめたが、トリノの真剣な目を見て、黙って奥へ引っ込んだ。

数分後、中から出てきたのは、赤い帽子をかぶった小柄な女性だった。彼女がこの音楽隊のリーダー、「マリーナ」だという。


「ふぅん。夜中に屋敷を抜け出して、音楽隊に入れてくれって子は、初めてね。……でも、面白そう。さあ、歌ってみなさい」


静かな室内。眠っていた楽団員たちが半眼でこちらを見ている中、トリノは深く息を吸った。

喉の奥にはまだ熱が残っている。声も思うように出ない。


それでも、彼女の心には確かな決意があった。


(歌う。生きるために。わたし自身を、信じて)


前世の記憶から引き出したのは、かつて通っていたカラオケでいつも歌っていたあの一曲。

優しく、切なく、けれど力強く――人生を諦めない心を歌った、女性ボーカルのバラード。


♪――生きて、生きて、生きてゆく

この声が届く場所まで――♪


楽団員たちが、静かに息を呑んだ。

今まで聴いたことのない、異国の旋律。魔法ではないのに、心に直接触れるような歌だった。


やがて、音が止む。


沈黙を破ったのは、リーダー・マリーナだった。


「……あんた、いい声してるね。音感も悪くない。何より、心を揺さぶる力がある。あたしたち、そういう人を待ってたのかも」


マリーナはニッと笑った。


「歓迎するわ、旅の仲間として。……あんたの歌、朝になったら街で披露してみたいね。まー時間がないから難しいかな。楽しみは次の街までお預けだね」


トリノは目を見開いた。体の力が抜けそうになった。


(……よかった)


夜が明け始めるころ、トリノは音楽隊の衣装を借り、屋敷で使っていた名を偽り、「リノ」と名乗ることにした。


街の東門は、音楽隊の通行を許されたときだけ開く。

早朝、市民の目が覚める前、門番に楽団員として名簿に記された「リノ」は、静かに街を後にした。


誰にも追われず、誰にも気づかれず。

絶望の屋敷から、自分の足で抜け出すことができた。


音楽隊の馬車の揺れの中で、トリノ――いや、「リノ」は、空を見上げた。


(わたしは、生きる。わたし自身のために)


まだ未来は霧の中だ。

でも、歌はある。声がある。そして何より、意思がある。


だから――「旅は、ここから始まる」。


そう、少女は強く、心の中で呟いた。

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