第8話 トリノ、前世の記憶を思い出す。
『わたしはもう、壊れてなどいない』
――気がつくと、天井が見えていた。
薄くひびの入った漆喰の模様をぼんやり見つめる。
布団は、ない。冷たい石床の上に転がっていた。召使は誰も来ない。水も、食事も、丸一日与えられていなかった。
体が重い。喉が焼けるように痛い。
高熱が出ているのは、自分でもわかった。
(あ、これ……このまま死ぬな)
ぽつんと、そんな言葉が、心の奥から浮かび上がってくる。
涙も出なかった。ただ、静かに「終わるんだな」と、思った。
――でも、そのときだった。
脳裏に、まったく別の風景が、ふと差し込んできた。
それは、ぎゅうぎゅうに詰まった通勤電車の中。スーツ姿の男たち。広告の中吊り。小さなスマートフォンを握りしめて、吊り革につかまりながら必死に立っている「わたし」。
(……え?)
まるで夢の中をのぞき込んでいるように、次々と映像が浮かぶ。
OLだった自分。名前は――真嶋さつき。三十路を目前にして、営業職として働いていた。
毎朝の満員電車、クライアントとの商談、同僚との居酒屋。
喜びも、怒りも、悔しさも、全部、あの世界の「わたし」のものだ。
(あれ……わたし、こっちが本当だった?)
がらがらの意識の中で、ひとつずつ、記憶のピースがはまっていく。
なるほど、だから時々、ふと違和感があったんだ。
おかしいと思っていた。感情の濃さと、理屈のずれ。
(……ああ、わたしは、“転生”してたんだ)
そう気づいた瞬間――世界の重さが変わった。
「……死にたくない」
かすれた声が、唇から漏れた。
(わたし、こんなことで死ぬなんて……絶対、嫌)
あの満員電車を耐え、理不尽な上司に頭を下げ、営業成績のために休日を削って働いた。
それでも笑っていた。「わたし」には、夢も、希望も、ちゃんとあった。
こんな、歪んだ伯爵家の屋敷で、いじめられて、誰にも知られず朽ち果てるような人生なんて――
(まっぴらだ)
「……行かなきゃ……ここから、出る……」
震える足に力を込める。体がふらついて、柱に手をついた。
(両親がダメなら……母方の祖父母。そうだ、まだ頼れる血縁はある)
たしか、祖父母は隣国の田舎町で領地を持っているはずだ。
母が亡くなったあと、手紙のやり取りも途絶えていたけれど、わたしが「自分で」行けば――きっと話は違ってくる。
(前世で、わたしは働いてた。書類仕事も、スケジュール管理も、人間関係も、こなしてた。大人として、生きてきたんだ。だったら――今の“わたし”も、できるはず)
「トリノ嬢?」
物音に、扉の外から召使の声が聞こえた。
けれど、それは心配からではない。ただの冷笑混じりの呼び声だった。
「もう少しでお亡くなりでしょうか? お姉さまたちは、今夜のドレスの試着に夢中ですのよ」
(……くだらない)
もはや、その声すら、心を傷つける力を持たなかった。
だって、もう「わたし」は、戻ってきたのだ。
“真嶋さつき”としての意志が、この体に宿ったのだから。
トリノは、真夜中、屋敷を抜け出した。
熱にうなされる身体に鞭を打ちながら、食堂からこっそり水を持ち出し、召使の隙を突いて裏口の鍵を開けた。
星がきらめいていた。
これまで一度も、自分で扉を開けたことがなかった。屋敷は檻のようで、外の空気は冷たく、でも自由だった。
(わたしは、逃げる。生きるために)
前世の知識と、大人の判断力。それを武器にして、この世界で生き延びる。
綺麗事じゃない。優しさも、正しさも、今の彼女には不要だった。
必要なのは――「生き抜く覚悟」だけ。
夜の街道を、少女がひとり、よろよろと歩いていく。
ドレスの裾は泥にまみれ、靴は片方脱げかけている。
けれどその目は、燃えるように強かった。
名を、トリノ=ヴァレリア。
この瞬間、ただの令嬢ではなく、「もう一度人生をやり直す者」として、彼女は歩みを始めたのだった。