第7話 ローマン視点 クラリッサ=リドグレイとの未来
『ガラスの婚約』―ローマン視点―
――静寂だった。
トリノに別れを告げたあの庭園を後にし、ローマンは王都の北にあるアルヴィス邸の書斎へ戻っていた。だが、書の一つも読めず、ただ椅子に沈み込む。
(これでよかった……はずだ)
言い聞かせるように繰り返す。だが、胸の奥には針のような違和感が残っていた。優しさを偽るようにして放った言葉の一つひとつが、剣となって自分の内側を切り裂いていた。
トリノがあの場で泣かなかったのが、逆に痛かった。
(彼女は、壊れていた)
婚約という鎖に縋り、家族の冷たい視線にも耐え続けたその少女は――自分という支えを失って、どうなるのだろうか。
だがもう、戻ることはできない。クラリッサが、彼の選んだ「未来」だった。
「……戻ったのね、ローマン」
扉をノックもせず開けてきたのは、クラリッサ=リドグレイ。その姿は、完璧に整ったドレスに身を包み、黒曜石のように澄んだ瞳は一切の揺らぎを見せない。彼女が何者か――ローマンは最初から理解していた。
「言ってきたのね。……妹に」
ローマンは黙って頷いた。その仕草一つで、クラリッサはすべてを察したようだった。ため息も、涙もない。ただ、書斎の机に手を添えて、淡々と。
「彼女は、泣いた?」
「いや……泣かなかった。ただ、黙っていたよ」
「……そう。きっと、彼女なりに受け止めようとしたのね」
クラリッサの声に、感情はなかった。だが、ローマンは知っている。その言葉の裏に、鋭い自己防衛の鎧が隠されていることを。彼女は常に強く、冷静で、傷を見せない。それが、彼女が選んだ生き方だった。
だからこそ、ローマンは惹かれた。
「……後悔はないよ。君と未来を築くための選択だ」
その言葉に、クラリッサは微かに唇を歪めた。微笑にも、皮肉にもとれる、絶妙な表情。
「理性的な決断をした男は、いつか感情に足をすくわれる。そう母に教わったわ」
「それは、君がそうだったから?」
「ええ。だからわたしは、“理”で動く人間を選ぶの。トリノのように、“希望”で物語を編む人は、私にはまぶしすぎる」
トリノの名前が出た瞬間、ローマンの胸に何かが刺さった。
クラリッサは分かっている。妹の弱さも、愚かさも、そして――その強さも。
「君は……彼女を妬んでいたのか?」
「妬んでなんか、いないわ。ただ……不思議だった。あんなにも無力で、何も持たないあの子が、なぜあれほど“信じる”ことができたのか」
クラリッサは椅子に腰掛け、ローマンを見据えた。その瞳は美しかったが、冷たい湖のようだった。深く、触れる者を拒む。
「わたしはね、ローマン。貴方となら“正しい結婚”ができると思ったの。王国の安定も、家の名誉も守れる。そして貴方も、そう考えたでしょう?」
「ああ」
「でも……トリノとの婚約を壊して、わたしと結ばれる。それはただの“論理”では済まないわ。わたしたちは、もう一つの物語を壊したの」
「……それは、彼女の幻想だった。現実を見てほしかったんだ」
ローマンの声には、どこか自嘲が混じっていた。
幻想。そう言い切った自分が、その幻想を守ろうとした瞬間もあった。弱いトリノが、必死に何かを信じていたあの姿を、心のどこかで「綺麗だ」と思ってしまった、その一瞬を。
(俺は、誰も救っていない)
クラリッサの子を宿し、王家の後援も得て、未来は堅固に築かれていくはずだった。だが、心の中にぽっかりと空いた空洞は、何なのだろう。
「ローマン、わたしたちがこれから築くものは、冷静な判断の末に得られた“選択”よ。それを誇りに思うべきだわ」
「……誇り、か」
「もし貴方が――彼女に心を引かれていたのなら、それは今、終わりにして。彼女はもう、ただの過去よ。美しくも、脆く、戻らないもの」
クラリッサの口調には決意があった。彼女なりに、自分の心を守っているのだ。
ローマンは、立ち上がった。
その瞳の奥には、何か決意のようなものが灯っていた。冷静に見えるクラリッサに寄り添うこと。それが、せめてもの“償い”だと信じて。
「わかった。俺は君と生きる」
クラリッサは頷き、何も言わなかった。
二人の間にあったのは、愛情ではなかったかもしれない。だがそこには、確かに“未来”があった。選び取った、誰かの犠牲の上に築かれた未来が。
――ガラスのように、脆く、美しい未来が。