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第6話 ローマン視点から見た婚約破棄

『ガラスの婚約』―ローマン視点―

 白薔薇の咲く庭園は、静かだった。


 春の風が吹き抜け、どこか懐かしい香りが鼻をかすめた。だが、ローマン=アルヴィスの胸の中にあるのは、懐かしさではなく、冷たい重みだった。


(この日が来ることは……わかっていた)


 リドグレイ家の三女、トリノ。彼女との婚約は、幼い頃に結ばれた形式上のものだった。あくまで家同士の取り決めで、実質的な交際もなく、ただ年に数回、顔を合わせるだけの関係。だがその中で、彼女の瞳が時折見せる“信頼”の色に、ローマンは少しだけ、罪悪感を抱いていた。


 彼女は、信じていた。自分を救ってくれる存在だと。


 ――だが、救うには、あまりに彼女は壊れかけていた。


「……ローマンさま、お待たせしました」


 控えめな声。まるで風鈴のように揺れるその響きに、ローマンは微かに眉を動かした。白薔薇のアーチをくぐってきたトリノは、今日も美しく着飾られていた。けれど、その姿はまるで――壊れ物の人形のようだった。


「やあ、トリノ。来てくれてありがとう」


 微笑みながらも、ローマンは彼女の顔を直視できなかった。胸に去来するのは、後ろめたさと、決意。


 ――クラリッサ嬢との件を、話さなければならない。


 リドグレイ家の次姉。トリノとは異なり、貴族社会の最前線に立つ冷静で知的な女性。彼女との関係は、出会ったときからどこか理性的で、理に適っていた。話せば通じる。語れば未来が見える。家のためにも、王国のためにも――クラリッサとの結婚は、最善の選択だった。


「……話って、なんですか?」


 トリノの声が少しだけ震えていた。ローマンは目を伏せた。できる限り、優しく、しかし明確に。


「今日、君に話したいことがある。――大切なことだ」


「……はい」


「僕は……クラリッサ嬢と、結婚することにした」


 その瞬間、空気が止まったようだった。鳥のさえずりも、風の音も、すべてが遠のいてゆく。


「……え?」


 トリノの目が揺れていた。信じたくない、そんな色が浮かんでいた。


「正式に、君との婚約は破棄させてもらいたい」


 彼女は動かなかった。ただ、茫然としたまま。


「クラリッサ嬢は、今、僕の子を身ごもっている」


 ローマンの声が、無機質な石のように落ちた。トリノの顔から血の気が引いていくのが見えた。自分の心臓が痛むのを感じたが、それでも言葉を止めるわけにはいかなかった。


「……わたし……あなたの許嫁なのに……っ」


「君とは形式だけだった。クラリッサ嬢は君の姉だ、君にも理解してもらえると信じている」


「どうして……」


「すまないが、君はあまりにも思い込みが激しい。以前、彼女たちに対して悪く言ったことも……婚約者としてふさわしくないと、正直に思っていた」


 本当は、もっと前から感じていた。


 トリノは、何かに怯えながら、何かを必死に信じようとしていた。その不安定な姿は、ローマンのような貴族の青年にとって、“扱いにくい”存在だった。――助けを求められたあの夜も、彼は応えられなかった。彼女の言葉を、信じる覚悟がなかった。


「……あの夜、わたしがあなたに『助けて』といったとき……信じてくれなかったくせに……」


 トリノの声に、胸が抉られる。


 でも、それでも。戻ることは、もうできない。


「もう終わったことだ。これからのことを考えよう。君には、君の人生がある」


 ローマンは、目を伏せながらそう言った。踏み出すことは、裏切ることでもあると、痛いほど分かっていた。


 ――だが。


(僕は、クラリッサとの未来を選ぶ)


 それが正しいかどうかは、神のみぞ知ること。だが、少なくとも自分の中では、そう決めた。


「それでは。クラリッサ嬢と君の関係もあるし、あまり波風は立てたくない。理解してくれて感謝する」


 立ち上がり、トリノの前を去った。


 振り返ることはしなかった。もし振り返れば、彼女の崩れ落ちる姿を見てしまえば――揺らいでしまうと思ったから。


 風が髪を揺らす。白薔薇の香りが、胸を刺した。


(さよならだ、トリノ)


 彼はもう、“彼女を助ける役”にはなれなかった。

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