前世6話 三嶋圭太君、係長から降格案が検討中
『私のいるべき場所』
ひとりカラオケにすっかりハマっていた。
最初は寂しさの逃げ場所だったその空間は、今では純粋な“自分の楽しみ”に変わっていた。
誰に遠慮することもない。
誰に気を遣うこともない。
思いっきり好きな歌を歌って、少し笑って、少し泣いて、また笑って帰る。
(ああ、こういう時間がわたしには必要だったんだ)
そう思えたのは、たぶん心の痛みが少しずつ癒えてきた証だった。
あれから半年。
季節は巡り、街には春の兆しが見え始めていた。
その日、昼休みに課長から声をかけられた。
「真嶋さん、今、少しいいかな?」
佐伯課長の呼びかけに、少し緊張しながらも会議室へと足を運んだ。
「肩の力抜いて。悪い話じゃないよ」
微笑みながら、彼は一枚の辞令を差し出した。
「今日の午後、人事から正式に発表があるけど……真嶋さん、君を“係長”に任命したい」
一瞬、言葉が出なかった。
「え……?」
「企画部の成績、ここ半年で過去最高だ。君の提出した市場分析資料とプロジェクトスケジュールの立案能力、正直、目を見張ったよ。プレゼンの通し方も的確だったし、クライアントとの関係構築も抜群だった」
佐伯課長の言葉は、どれも実感の伴った温かい評価だった。
(……認められてる)
ただの社交辞令ではない。
ちゃんと、わたしの仕事を見てくれていた。
努力を、実績を、全部“見ていてくれた人”が、ここにいた。
目の奥がじんと熱くなった。
「……ありがとうございます。すごく、嬉しいです」
佐伯課長は、にやりと口元を上げた。
「正直に言うとね。君がうちの部署に来たとき、半分は“拾い上げる”つもりだったんだよ。あの異動の裏事情は、なんとなく察しがついていたからね」
「……ああ、そうでしたか」
「でも、完全に“お釣り”がきたね。君が来てから、この部署の雰囲気も、成果も、ぐっと良くなった。君のおかげだよ。ほんとに」
素直に、嬉しかった。
数字の成果もある。
けれど、何より“わたし”という人間を信頼して任せてもらえること。それが何よりの報酬だった。
「……ま、一方で……」
課長は、少し表情を緩めて、話を続けた。
「君が抜けた“第2営業部”は、どうやらかなり悲惨なようだよ」
「……え?」
その名前を聞いた瞬間、胸が微かにざわめいた。
「三嶋君。売上が半減どころか、80%以上落ちたそうだ」
「……そんなに、ですか」
「今じゃ、部内の空気も最悪でね。部長の鶴の一声で進めた結婚・昇進セットの“あれ”も、結局うまくいってないらしい」
「あまねさん……?」
「そう。産休前に担当していたプロジェクト、クライアントからクレームが出たとかで、部署が火消しに追われてるとか。で、ついには人事の方で“三嶋君、係長から降格案が検討中”という話が上がってるらしい」
一瞬、胸の奥が静かに揺れた。
(……因果応報って、こういうことを言うのかもしれない)
でも、不思議なほど「ざまぁみろ」とは思わなかった。
むしろ、他人事だった。
自分の人生と、彼らの人生は、もう完全に別の道を歩んでいる。
そしてその道に、もう交差点はないのだ。
「でもね、君は“他人の不幸”じゃなく、“自分の努力”でここまで来たんだ。それは、誇っていいことだよ」
課長の言葉が、ストンと心に落ちた。
「……はい。ありがとうございます。そう言ってもらえて、頑張ってきてよかったです」
その日は、ひとりカラオケには行かなかった。
代わりに、少し贅沢なケーキを買って帰った。
部屋で紅茶を入れて、静かにその甘さを味わいながら、半年間の自分を、ゆっくり褒めてやった。
(もう、過去に引きずられるのはやめよう)
わたしは、あのときちゃんと立ち上がった。
逃げずに、自分の足で一歩ずつ進んだ。
誰かに依存しない。
自分で考え、自分で選び、自分の人生を歩く。
そして、今。
その先に、やっと「報われた」瞬間が訪れたのだ。
(……わたしは、幸せになれる)
静かに、そう信じることができた。
明日からは、係長として、また新しい挑戦が始まる。
でも、もう怖くない。
この半年で、ちゃんと自分の価値を知ったから。
もう誰にも踏みにじられない。
そう、強く、心に誓った。




