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婚約破棄されたトリノは、継母や姉たちや使用人からもいじめられているので、前世の記憶を思い出し、家から脱走して旅にでる!  作者: 山田 バルス


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前世3話 笑顔のままで、泣いていた

『笑顔のままで、泣いていた』


 やることが――なくなった。


 夜の9時を過ぎたばかり。

 誕生日の夜だというのに、部屋は暗いまま、ケーキと白ワインだけが無言でテーブルに残されていた。


 スマホを手にしても、LINEは無反応だった。

 彼からのメッセージはもう来ない。通知音ひとつ鳴らない画面が、ますます孤独を際立たせる。


 部屋にいるのが、つらかった。

 壁も、天井も、家具も、すべてが圭太との時間を知っていた。

 それが今は、ひどく無機質で、よそよそしい。


 (……帰ってきても、もういないんだな)


 その事実だけが、部屋の中に深く沈んでいた。


 ふと、バッグの中にカラオケのクーポンがあることを思い出した。

 以前、同僚に誘われて使い損ねたもの。期限は、今日だった。


 「……一人で行っても、別にいいよね」


 つぶやいて、着替えもせず、そのまま外に出た。


 



 「いらっしゃいませー! おひとり様ですね!」


 駅前のカラオケチェーン店は、金曜の夜でにぎわっていた。

 けれど、個室に入ってしまえば、外の喧騒はシャットアウトされる。


 スマホで入室手続きを済ませて、小さな部屋に通される。

 ソファとテーブル、そして液晶画面。

 見慣れた光景のはずなのに、なぜか妙に新鮮だった。


 (そういえば、一人カラオケなんて……何年ぶりだろう)


 圭太と来たこともあった。

 けれど今日は、ひとり。

 ひとりきりで、何も気を使わずに歌えるのだ。


 ドリンクバーから戻り、リモコンで最初の曲を入れた。


 選んだのは、大好きなアイドルグループの明るいポップソング。

 失恋の夜に似つかわしくはない。でも、悲しいバラードを選ぶと、本当に落ちてしまいそうだった。


 曲が始まる。軽快なリズム。スクリーンに映る、笑顔の女の子たち。


 「♪恋してる この胸が はちきれそうなまま〜」


 軽く体を揺らしながら、口ずさむ。

 誰にも見られていない安心感。音程がズレても構わない。

 マイクを握る手が熱を帯びてくる。


 (……楽しいかも)


 思った。

 何も考えず、ただ声を出して、好きな歌を歌う。

 喉から音を出すたび、心の奥にたまっていた何かが、少しずつ外に逃げていく気がした。


 続けて、もっと明るい曲を入れる。

 学生時代にカラオケでよく歌っていた、アニメソング。

 サビで声を張ると、胸がすっとした。

 気づけばリズムに乗って、肩が弾み、マイクを両手で抱えていた。


 ひとつ、またひとつ。

 懐かしい曲、元気な曲、早口のラップに挑戦したりもしてみた。


 (……あはは、うまく言えない……!)


 笑った。

 本当に、自然に、笑っていた。


 「こんな日でも……楽しいことって、あるんだな」


 思わず漏らした言葉に、自分でも驚いた。

 歌っている間だけは、圭太のことも、裏切りも、部署異動も、忘れられていたのだ。


 けれど――


 ある瞬間、不意に、涙がつっとこぼれた。


 頬を伝って、マイクにぽとりと落ちた。


 「……え?」


 歌っている最中だった。

 楽しい曲だった。

 なのに、涙が止まらない。


 頬を拭っても、次の涙が滲んでくる。


 「……どうして?」


 自分でも分からなかった。

 楽しい。気持ちは確かに高揚していた。

 けれど、胸の奥が痛いほど締めつけられていた。


 (……わたし、本当は)


 気づきたくなかった気持ちが、こぼれ出す。


 (……本当は、すごく、悲しいんだ)


 気づかないふりをしていた。

 明るい歌で、笑顔を引っ張り出して、ごまかしていた。

 でも、心は知っていたのだ。

 今日、自分の人生が、ガラガラと音を立てて崩れたことを。


 圭太と笑い合っていた日々。

 一緒に歩いた夜道。

 「さつきの手、ちっちゃいな」と笑ったその声。


 それらが、もう二度と戻ってこないのだという現実。


 「……うそ、でしょ」


 泣きながら、また曲を入れた。

 泣きながら、笑える曲を選んだ。


 「♪幸せってさ 形じゃなくて〜」


 画面の中の明るい女の子が、楽しげに踊っていた。

 それに合わせて、涙を拭いながら、声を出す。


 部屋の中には、音楽と、鼻をすする音が混ざっていた。


 ひとりきりのカラオケボックス。

 そこにあるのは、楽しい音と、悲しい心だった。


 だけど、確かに“救い”はあった。


 泣きながら歌って、歌いながら泣いて――

 少しずつ、ほんの少しずつ、心の芯が温まっていく気がした。


 



 「……2時間です。延長いかがなさいますか?」


 スタッフの声に驚いて、時計を見る。もう23時。


 さつきは軽く首を振った。


 「大丈夫です。……ありがとう」


 部屋を出ると、廊下の向こうから誰かの歌声が聞こえた。

 笑い声も混じっていた。グループ客だろう。

 でも、さつきは、少しだけ強くなったような気がした。


 カラオケの出口を出ると、夜風が頬を冷やした。

 それが、泣き腫らした目にちょうどよかった。


 (……明日から、ちゃんと起きよう)


 ふと、そんな思いが浮かんだ。


 もう、圭太はいない。

 裏切りも、痛みも、現実だ。


 でも――


 楽しい歌を、涙の中で歌った夜が、さつきにひとつの証を与えてくれた。


 「ひとりでも、生きていける」


 そう思えたことが、今夜のいちばんの贈り物だった。







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