第5話 クラリッサから見たトリノとローマンの婚約破棄劇
『ガラスの婚約 ―クラリッサ視点―』
春の風は冷たい。なのに白薔薇は今年も見事に咲き誇っていた。
――綺麗、だけど脆い。
ふと、そんな言葉が浮かぶ。昔、父が言っていた。薔薇は強さの象徴でもあるが、本当の強さは棘の奥にある芯の部分なのだと。
「クラリッサお嬢様、準備が整いました」
侍女の声に、わたしは小さく頷いた。鏡に映る自分の顔――銀の髪を流し、紫の瞳に影ひとつない化粧。完璧。いつだって、そうでなければいけないの。
だって、誰も弱いわたしなんて、求めていないのだから。
◆
わたしは、父の子じゃない。
――リドグレイ伯爵家の“血”は引いていない。
でも、それは関係ない。求められる役割を果たすことが、この家にいるための条件だった。完璧な令嬢。誰にも隙を見せない、冷たい薔薇。
それがわたし、クラリッサ=リドグレイ。
母に言われたのよ。「あの子が使えないぶん、あなたが上手くやるのよ」と。
ミレイア姉さんは最初から何も言わなかった。あの人は美しいだけ。誰にでも笑顔を向けて、綺麗なドレスを着て、優雅に舞う人形だった。けれど、あの“無能な令嬢”――トリノだけは、どこまでも邪魔だった。
できないくせに、夢を見る。愛されたいと願う。誰かを信じて、すがりつく。そんな子が、どうしてローマンの許嫁になれたのか、今でも理解できない。
「……そろそろ、時間ね」
庭園の白薔薇のアーチ。彼はそこに立っていた。赤いマント、整った横顔、あの整いすぎた微笑み。
「クラリッサ……遅かったな」
「ごめんなさい。髪がなかなか決まらなくて」
嘘。こんな日のために、昨日から仕込みは済ませていた。
ローマンは何も言わず、軽く頷く。彼の視線が庭の奥を向いたとき、わたしも見た。やって来る、あの子の姿――トリノ。
(どうして、あなたはそうやって、期待した目で来るの?)
きっと今日も“奇跡”を信じている。報われない願いを、どこまでも手にしようとする。
けれどそれは、わたしのもの。
彼は――ローマンは、わたしの子を、もう宿している。
それは現実。夢ではない。
「……クラリッサ嬢と、結婚することにした」
そう口にした彼の声は、少しだけ震えていた。けれど、しっかりしていた。あの子の目が揺れるのが見えた。崩れていく表情。それを、見届けるのがわたしの役目だった。
「……え?」
愚かな反応。でも仕方ない。信じていたのだろう。わたしじゃなくて、彼を。
「君との婚約は破棄させてもらいたい」
冷たい言葉。だけど、それが正しい。夢はいつか終わるもの。
「クラリッサ嬢は、今、僕の子を身ごもっている」
(……言ったわね、ローマン)
ほんの少しだけ、胸が痛んだ。たぶん、罪悪感。あの夜のことは、誰にも話さなかった。けれど、あの夜、確かに彼はわたしを選んだ。トリノが何を言っても、もう意味はない。
「……あなたの許嫁なのに……っ」
ああ、泣き出しそうな顔。けれど、涙も出ないのね。本当に哀れ。だけど――それでよかった。
あなたは最初から、“許嫁”でしかなかったの。家と家を繋ぐ駒。愛されたことなんて、一度もなかった。
……そうでしょ?
「思い込みが激しい」
ローマンの言葉が、刃のように突き刺さる。
「これは、君のためでもある」
それは優しさではない。ただの切り捨て。でも、それでいい。わたしたちが欲しいのは“未来”であって、“記憶”じゃない。
彼は立ち去る。わたしは黙って見送る。トリノが崩れ落ちても、誰も止めない。助けない。だって――それがこの屋敷の“常識”なのだから。
◆
その夜、寝室で一人、鏡の前に座っていた。
お腹に手を当てる。まだ形もない、小さな命。
(本当に、これでよかったのかしら)
一瞬、よぎる不安。それをかき消すように、扇子を閉じた。母の真似。冷たく、優雅に。
「よかったに決まっているでしょう」
呟いた声は、自分自身を叱るように響いた。
わたしが勝ったのよ。誰よりも、美しく、誰よりも“選ばれた”のだから。
そう――わたしは、この世界で生き残るために、“信じる”ことを捨てたのだから。
――誰も救ってくれない世界で、生きる方法を選んだの。
トリノ。あなたが信じていた“奇跡”は、もう壊れた。
次は、あなたが“現実”を生きる番よ。
たとえそれが、どんなに苦しくても。
(だから、泣かないで)
(あの時のわたしのように――)