第42話 リノが唄う、メイドのアニエスの歌
「お嬢様と過ごす日々」
ヴァルシュタイン公爵家に、新しい“お嬢様”がいらっしゃると聞いたのは、春の終わりのことでした。
私はメイドのアニエス。まだ十七で、働きはじめて三年目。お屋敷の中ではまだ“若手”って呼ばれることが多いけど、リノお嬢様のお世話を任されたときは、本当にうれしくて、でもちょっぴり緊張もしていました。
「今日から、よろしくね。アニエスさん」
そう笑ってくれたお嬢様は、ほんとうに――綺麗な人でした。
でも、ただ綺麗ってだけじゃなくて、目がやわらかくて、声がやさしくて、まるで“音楽そのもの”みたいな方だったんです。
**
お嬢様がこの屋敷に来られてからというもの、公爵様も奥様も、お兄様方も、どこか空気が明るくなって。マリーゼ奥様なんて、お菓子づくりに夢中になって、お嬢様の好きな“ベリーのタルト”を何度も焼いてました。
「アニエスさん、このリボンってどうかな?」
ドレッサーの前で、お嬢様が首をかしげてそう聞くとき、私はいつも思うんです。
(こんなに身分の違う私に、対等に話しかけてくださるなんて)
心からうれしくて、でもちょっと涙が出そうになって、慌ててうなずいたりして。
「とっても、お似合いです……! あっ、でも、今日はお庭でお散歩ですから、もう少し短めのリボンでも……」
「そっか、ありがとう。じゃあ、こっちにするね」
その笑顔が、もう……天使みたいにきらきらしてるんです。本当に。
**
ある日、お嬢様は奥様と一緒に、お菓子作りをするって言って、私も台所に呼んでくれました。
「アニエスさんも、一緒に混ぜて!」
「えっ!? わ、わたし、そんな、手が汚れちゃいますよ!」
「いいのいいの、楽しいから!」
そんなふうに笑って、粉まみれになりながら、一緒にタルトを焼いて。
味は……正直ちょっと焦げてたけど、それでも使用人たちの間で噂になるくらいの“愛されタルト”になりました。
「お嬢様のタルト、また作ってほしいねえ」
「こんな楽しいお嬢様、初めてだわ」
そんな声が、屋敷中に広がっていって、わたしは何だか誇らしかったんです。
だって、そのお嬢様のお世話をしてるのが――わたしだから。
**
リノお嬢様は、毎朝かならず“家族ノート”を開いて、詩のような言葉を書いています。
「今日は、ルードリッヒ兄様が馬の世話を手伝ってくれた。リト兄様はやっぱり口が悪いけど、ちょっと照れ屋さんだと思う」
そんなことまで、丁寧に書き残していて、見ていてほんとに感動しちゃうんです。
「アニエスさんにも、ページをあげようかな」
「えっ!? そんな、わたしなんて……」
「だって、わたしにとって大事な家族だもん。アニエスさんも」
その言葉を聞いたとき、思わず涙がこぼれそうになって、うつむいちゃった。
使用人の私に、そんなふうに言ってくれるなんて。
「……リノお嬢様、わたし、これからもずっと、おそばにおりますね」
そう誓った日でした。
**
でも、楽しい日々の中にも、少しだけ心配なこともあります。
だって、リノお嬢様は“王子様のお嫁さんになる”って決まっているんです。
つまり、いずれはこの屋敷を離れて、王宮に行ってしまう。
「お別れなんて、やだな……」
私がぽつりと呟いたとき、お嬢様は窓の外を見ながら笑いました。
「お別れじゃないよ。これからもきっと、何度でも会える。だって、家族だもん」
その声が、まるで歌のように心にしみて。
私は、また明日もこの人のそばで働きたい、そう思いました。
**
春の風が少しずつ夏の香りを連れてくるころ。
お嬢様はバルコニーで、何か新しい曲を書いていました。
「アニエスさん、ちょっと聞いてもらってもいい?」
そっと歌ってくれたその旋律は――
♪――この手に咲いた、小さな日々
やさしい言葉に守られて
めぐる季節の中、君がいてくれた――♪
それは、たぶん、わたしのために歌ってくれた歌。
胸がいっぱいになって、何も言えなくなって。
「ありがとう……リノお嬢様」
そうつぶやいた声が、風にまぎれてどこかへ溶けていった。
**
リノお嬢様との日々は、まるで夢みたいに、優しくて、あたたかくて。
でも、これは夢なんかじゃない。
今、わたしは確かに――大好きな“家族”のそばにいる。
公爵家の一角で、私は今日も朝の紅茶を用意する。
お嬢様が「おはよう」と笑ってくれるその瞬間を、心から大切にしながら。
きっと、明日も、その先も。
この歌のような日々が、続きますように――。




