第41話 リノが歌う、公爵家の養女生活
「家族の歌、はじまりの調べ」
それは、春の風がやわらかく吹き抜ける日だった。
リノがヴァルシュタイン家に“正式な家族”として迎えられてから、数日が経っていた。
この公爵家――ヴァルシュタイン家は、王の弟であるフィリベルト公爵が治める名門の家。つまり、公爵はレオニスの叔父でもある。そして、音楽と芸術をこよなく愛する家系だった。
赤い屋根の大きな屋敷には、色とりどりの花が咲き誇り、春の光がそのすべてを優しく包み込んでいた。
――「この家に住むのも、家族として生きるのも、まだちょっと信じられないな……」
リノは、花の香りのするバルコニーで、深呼吸をひとつ。すると、屋敷の奥から、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「母上が、またお菓子を作ってるらしいぞ。今度は“娘のために”って」
笑いながら声をかけてきたのは、長男のルードリッヒだった。整った顔立ちに、すらっとした体格。だが見た目に反して、とてもフレンドリーで、リノにもすぐ打ち解けてくれた。
「えっ、私のために……?」
「そう。マリーゼ母上が、今まで男ばっかりで“娘ができたら絶対おそろいのエプロンをつくる”って言ってたからな。さっき生地選びしてたぞ」
思わず、笑みがこぼれる。
「……ふふ、なんだか、ちょっとくすぐったいかも」
ルードリッヒが肩をすくめて笑った。
「まあ、俺も弟のリトバルスキーも、母上の甘やかしには慣れてる。君もすぐ“標的”になるぞ。……いや、もうなってるか」
そこに、ひょっこりと現れたのは、次男のリトバルスキー。ルードリッヒよりやや小柄で、どこか皮肉っぽい笑い方をする、知的な雰囲気の青年だった。
「やれやれ。ようやく男だけの家から卒業かと思えば、次はお姫様だなんてね。母上が浮かれすぎて、さっき父上が若干ひいてたぞ?」
「リト、あまりからかうなって」
「ふふ、でもちょっと楽しそうだった。……わたし、家族ってこういう感じなんだって、思えたから」
ルードリッヒとリトバルスキーは、同時に少し目を丸くして、それから柔らかく微笑んだ。
「それなら、よかったよ」
「“姉さん”って呼ぶ日は来るのかな?」
「リト!」
そんなふたりのやり取りに、リノも自然と笑いがこぼれた。
**
その日の昼下がり、公爵夫妻に呼ばれ、リノは応接室に通された。
フィリベルト=ヴァルシュタイン公爵は、静かにリノを見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「リノ、今日からこの家を“我が家”だと思いなさい。お前のための部屋も用意してある。何も心配はいらぬ」
「ありがとうございます……公爵様」
「父と呼んでよい。――お前は、私の“娘”なのだからな」
リノの胸に、また新しい音が生まれたような気がした。
あたたかく、確かな音――それは、誰かに“必要とされる”という喜びの旋律だった。
「……はい。お父様」
すると、隣にいた夫人――マリーゼが思わず目を潤ませて、リノの手をぎゅっと握った。
「ありがとう、リノ……! やっと、女の子がこの家に来てくれたのね……!」
「お、お母様?」
「これから、ドレスも一緒に選んで、お菓子も一緒に作って、毎朝髪も結ってあげたいわ!」
「ま、待ってください、あの……!」
テンションの高い“母の愛”に、リノはやや押され気味だったが、嫌じゃなかった。むしろ――嬉しくて、どこかくすぐったかった。
**
そして数日後。
王宮から正式な布告が出された。
《リノ=ヴァルシュタイン嬢は、王族の許しを得てヴァルシュタイン公爵家の養女となり、将来、王子レオニス殿下の妃となることが決定した》と。
街はふたたび祝福の声で満ち、リノはもう“ただの歌姫”ではなくなっていた。
それでも、彼女は変わらなかった。
「リノ嬢、今日はどんな歌をお聞かせくださいますか?」
そう屋敷の使用人に尋ねられると、リノは笑って答えた。
「今日は……“家族の歌”を作ってるんです。お母様と、お兄様たちのことを想いながら」
リノの部屋の窓には、春風が吹いていた。
新しい家族。新しい居場所。そして、レオニスという未来。
すべてが、まだ少しだけ不安で、でも確かに輝いていた。
「ねえ、レオ。わたし、本当に……あなたのところにお嫁に行ってもいいのかな?」
ある日の夕暮れ、バルコニーでそんなふうに尋ねた。
隣にいたレオニスは、そっとリノの手を握った。
「もちろん。君がこの家に来てくれて、僕は本当に嬉しい。君となら、きっとどんな未来でも乗り越えられる」
「……ありがとう
やわらかな光の中で、リノはゆっくりとうなずいた。
孤独だった少女は、家族を得て、愛を知り、そして未来へと歩み出す。
こうして、リノの新しい生活は――静かに、でも確かに、始まっていった。
希望の旋律を胸に抱いて。




