第4話 トリノ、婚約破棄される
『ガラスの婚約』
春の終わりを告げる風が、庭園の白薔薇を揺らしていた。
その日、トリノはまた月に一度の“飾られる日”を迎えていた。
美しく編み込まれた髪、胸元に淡く咲く花飾り、薄紅のドレス。
鏡の中の彼女は、まるで人形のように整っている。けれど、その表情には生気がない。
心はもう、何度も砕けていた。
けれど、ローマンと会うたびに、それでもどこかで「願い」は消えていなかった。
(いつか……この仮面のような生活から、救ってくれるのではないか)
そんな淡い希望が、今日もまた、彼女を立たせていた。
「トリノ嬢、庭園へどうぞ。ローマンさまがお待ちですわ」
姉クラリッサが、艶やかな笑みを浮かべて言った。
その声に、どこか含みがあるような気がして、トリノは一瞬だけ胸騒ぎを覚えた。
(いや、きっと気のせい……)
言い聞かせながら、庭園へと歩を進める。白薔薇のアーチの向こう、見慣れた赤いマントが目に入った。
「ローマンさま……」
「やあ、トリノ。来てくれてありがとう」
変わらぬ微笑。けれど、その瞳はどこか冷めていた。何かを悟らせるような、冷たい光が宿っていた。
「……話って、なんですか?」
椅子に腰をかけた二人の間に、短く沈黙が落ちた。ローマンが口を開く。
「今日、君に話したいことがある。――大切なことだ」
「……はい」
「僕は……クラリッサ嬢と、結婚することにした」
一瞬、時が止まったように感じた。
「……え?」
「正式に、君との婚約は破棄させてもらいたい」
風が、静かに白薔薇を揺らした。けれど、トリノの中で揺れたのは、それだけではなかった。
「な……なんで……?」
「クラリッサ嬢は、今、僕の子を身ごもっている」
「…………え?」
トリノはその場に座ったまま、顔から色が失われていくのを感じた。
「……それって、冗談……じゃ……」
「本当のことだ。彼女の腹の中には、すでに新しい命がある。責任を取るのは当然だし、それが僕の義務だと思っている」
「……っ……!」
トリノの手が震えた。胸の奥が、痛みに焼かれるように熱くなった。
「……わたし……あなたの許嫁なのに……っ」
「君とは形式だけだった。クラリッサ嬢は君の姉だ、君にも理解してもらえると信じている」
「どうして……」
「そして……すまないが、君はあまりにも、思い込みが激しい。以前、彼女たちに対して悪く言ったことも、正直に言って婚約者としてふさわしくないと感じていた。これは、君のためでもある」
――君のため。
――思い込み。
(また……わたしの声は、誰にも届かない……)
トリノの視界が滲む。喉がひどく渇くのに、言葉は出てこない。
「……あの夜、わたしがあなたに『助けて』といったとき……信じてくれなかったくせに……」
ローマンは目を伏せ、ため息をついた。
「もう終わったことだ。これからのことを考えよう。君には、君の人生がある」
――じゃあ、わたしのこれまでの苦しみは?
――わたしが一人で耐えてきた日々は?
――誰も見ていなかったの?
トリノは、声を上げて泣くことすらできなかった。
感情があまりにも深く抉られすぎて、泣くことすらできない。
立ち上がる力が出ない。けれど、ローマンはそれを見ても、手を差し伸べることはなかった。
「それでは。クラリッサ嬢と君の関係もあるし、あまり波風は立てたくない。理解してくれて感謝する」
彼はそう言って、足音も軽く立ち去っていった。
トリノは庭に崩れ落ちたまま、白薔薇の棘に腕を引っかけていることにも気づかなかった。
風に吹かれて、髪飾りがほどけ、花びらと一緒に地面に落ちた。
(わたし……なんだったの?)
愛されたことも、信じられたことも、なかった。
笑顔を見せれば“演技”とされ、涙をこぼせば“思い込み”と切り捨てられた。
姉は、すべてを手に入れた。
美しいドレスも、召使たちの尊敬も、そして――婚約者までも。
「……わたしなんて、いらなかったんだ……」
呟いた声は、誰にも届かない。
ただ、花びらだけが優しく、彼女の肩に舞い降りた。
そしてその日――トリノの中で、「信じる心」は静かに壊れた。