第33話 トリノに伸びる魔の手
―灰かぶりを灰に―
邸の一室。陽の入らぬ重たいカーテンに囲まれた、かつての夫人の私室。
アナスタシアは鏡台の前に座っていた。白粉を重ね、紅を引き、顔に仮面のような美しさを塗り重ねていく。だがその目は、もはや伯爵夫人のものではなかった。怒りと怨念が、紫煙のようにその瞳の奥に宿っている。
鏡越しに、部屋の隅に立つクラリッサを見る。
銀髪、紫の瞳、そして冷ややかな横顔。 “塔の薔薇”と呼ばれた美貌は未だ健在だが、かつての自信と誇りはどこにもない。
ローマンに捨てられ、跡取りの座も消えた。周囲の貴族たちの視線は冷たい。表向きは敬意を払っても、その実、笑っているのだ――“偽りの令嬢”として。
「母上……何を、考えておられるのですか」
クラリッサの声は低く、掠れていた。
アナスタシアは、鏡に映る自分に問いかけるように言った。
「――貴族の誇りとは、何だと思う?」
「……血筋と、名誉でしょうか」
「違うわ。力よ。栄光も、家名も、愛も……力でねじ伏せる者だけが、手にするの」
ゆっくりと、アナスタシアは椅子を回転させ、娘と向き合った。唇には美しい笑みが浮かんでいたが、その奥にあるのは氷だった。
「トリノが死ねば、すべてが戻る」
クラリッサの喉が、ごくりと鳴る。
「戻る……?」
「そう。トリノが死ねば、家督は宙に浮く。私が伯爵家を乗っ取ることはもう無理でも、あなたが生き残れば、別の家に嫁ぐ道も開ける。まだ若い。美しさは武器になる」
「でも……父上がいる限り……」
「――その男はもうどうでもいい」
アナスタシアの声音が、刃のように鋭くなった。
「ラウルは婿養子だった。それに、あの男は“責任を取る”だなんて言って、私にすべて押しつけた。身勝手な男よ。見てらっしゃい、リドグレイの名を奪った者が、どんな結末を迎えるか」
クラリッサは黙っていた。だがその指は震えていた。
「……殺す、のですか」
「そうよ。トリノを――“事故”に見せかけて、消す」
アナスタシアは、ひと振りの短剣を机の引き出しから取り出した。細く、鋭く、毒でも塗られそうな刃だった。
「旅芸人など、所詮は流れ者の集まり。衛兵もいない、護衛もない。少し細工をすれば、野盗にでも襲われたことにできる」
「でも……失敗したら……」
「失敗は許されない。だからこそ、あなたにも手を貸してもらうのよ」
「わ、わたしに?」
「ええ。あなたなら、ローマンの動きを読むことができる。王都の貴族の情報もまだ握っているでしょう? 誰がどこに協力的か――誰が金で動くかも」
クラリッサの視線が、短剣に落ちた。
「……本当に……やるのですね、母上」
「今さら何を迷っているの?」
アナスタシアの声音が、少し苛立ったものになる。
「トリノは、あなたから何を奪ったの? 婚約者、家督、名誉……全部よ。あの女が生きている限り、あなたは“影”のまま」
「でも……彼女、何も悪いことはしてない……」
「それが一番腹立たしいのよ!」
アナスタシアが叫んだ。凍てついた室内に、その怒声が響いた。
「何もしていないくせに、何もかもを持っていく。純粋ぶって、聖女ぶって――あんな娘、潰して当然でしょう。私たちが這いつくばって作ってきた世界を、あの“灰かぶり令嬢”が持っていくなんて、許せるの!?」
沈黙。クラリッサは答えなかった。
だが、その目には確かな火が灯っていた。
「……わかりました」
アナスタシアの唇が、ゆっくりと笑みに変わる。
「よく言ったわ、クラリッサ。やはり、あなたは私の娘ね」
「――ただし、成功させるならば、完璧に。もう一度でも失敗したら、私たちは終わりです」
「もちろんよ。協力者も金も手配する。……次の公演先は、辺境の街だそうね?」
「ええ、護衛の目も薄い。そこで……“事故”を」
二人の視線が交差する。
親子の絆ではない。復讐と共犯の契りだった。
仄暗い室内に、ひとすじの陽光が差し込んだ。だが、それすらもどこか冷たく――不吉な色を帯びていた。




