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第32話 ラウルとアナスタシアの終焉

―終焉の宣言―

 午後の陽光が、西の空を茜に染めはじめる頃。


 リドグレイ伯爵邸の応接室には、妙な静けさが満ちていた。かつて貴族の社交の中心だったこの部屋も、今や訪れる者はまばらで、銀食器も埃をかぶって久しい。


 そこにいたのは、ラウル=リドグレイと、アナスタシア夫人。

 夫婦である二人は、今、真向かいに座っていた。


「……で、話って何なの?」


 アナスタシアはいつものように、扇子を軽く叩いて笑っていた。だが、その笑みはどこか引き攣っている。心なしか、化粧も厚い。


 ラウルは、目を伏せたまま静かに口を開いた。


「アナスタシア。今日は……君に、正式に話をしなければならない」


「ふぅん? まさか、あの“灰かぶり令嬢”でも連れ戻してきたって言うんじゃないでしょうね」


「――違う。トリノは、戻らない」


 その言葉に、アナスタシアの手がぴたりと止まる。


「……じゃあ、何よ?」


「私は――君と、離縁したい」


 空気が、凍りついた。


「……もう一度、言って?」


「君と、夫婦としての関係を終えたい。正式な書類はすでに用意している。あとは、君の承諾だけだ」


 アナスタシアは、ゆっくりと扇子を閉じた。その動きだけは優雅だったが、目の奥に走った光は、鋭いものだった。


「ふざけないで……。この私を捨てるって言うの? 伯爵夫人を――私を?」


「捨てるのではない。君は十分に……いや、君なりに、伯爵家の婦人として努めてくれた。だが――」


「“だが”?」


「リドグレイ家は……もう終わる」


 アナスタシアは、乾いた笑いを漏らした。


「……なに、それ? トリノがいなくなったくらいで、家が潰れるとでも?」


「トリノは……リドグレイ伯爵家の“正統な”後継者だった」


「彼女は私の子じゃないわよ? あなたの前妻の娘。それに、魔力もなかった、役立たずの――」


「……アナスタシア」


 ラウルの声が低く、そして重くなった。


「君は知らなかったかもしれない。だが、私は“婿養子”だ。リドグレイの名は私のものではない。私はあくまで“代理”として、この家を預かっていたに過ぎない」


「……は?」


「そして、私の前妻……トリノの母は、先代の伯爵夫人の“直系”だった。彼女の母――つまり、トリノの祖母の血筋だけが伯爵家を継承する正統の家系なのだ」


 アナスタシアは、言葉を失っていた。


「つまり……?」


「リドグレイ家の本来の血筋は、トリノただ一人に繋がっている。もし彼女が戻らなければ――この家は、王家の判断で“取り潰し”となる」


 扇子が手から滑り落ちた。


 パチン、と軽い音がしたが、それが妙に大きく響いた。


「嘘よ……そんな話、聞いたことない……っ」


「君には、話す必要がなかった。トリノがいる限り、問題はなかったからだ。だが……彼女は自らの意思で、伯爵家を継がないと決めた」


「じゃあ……どうするの? この家は?」


「――終わる」


 ラウルの目は、曇りなかった。


「だから私は、責任を取らねばならない。婿として、この家を守れなかった責任を。そして……君に嘘をついていた責任を」


 アナスタシアは、崩れ落ちるように椅子に背を預けた。指には、宝石の指輪がいくつも光っていたが、それらは今や虚飾に過ぎない。


「私は……全部を、失うの?」


「すべてを、とは言わない。君には生家もある。君の美しさと才覚があれば、再出発もできるだろう」


「冗談……。私が“リドグレイ伯爵夫人”じゃなくなったら、誰が私を見てくれるのよ……!」


 その声は、いつもの上品なものではなかった。むしろ、叫びに近かった。


 けれど、ラウルはその言葉に何も答えなかった。ただ、書類を机の上に置いた。


「これが、離縁の正式な文書だ。署名は、明日までにで構わない。……ありがとう、アナスタシア。これまでのすべてに、感謝している」


 ラウルは立ち上がった。


 そして、その背を見送るアナスタシアの瞳に――静かに、涙が浮かんでいた。


「……トリノ。あの娘さえ、いなければ……っ」


 自分の手で自分の首を絞めていたことに、今さらながら気づく。


 しかし、もう遅かった。


 “リドグレイの薔薇”と呼ばれた女は、沈黙の中で、すべてを失っていった。

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