第22話 リノとアンジェの出会い
『旅立ちの旋律 ―再会のパン屋にて―』
王都・リュシオンの東区、朝の喧騒が始まる前。
まだ陽が高く昇る前の静かな通りに、香ばしい香りがふわりと漂っていた。アンジェはパン窯の扉をそっと開け、焼き色を確かめる。
「……うん、いい感じ」
小さなパン屋「ミルの窓辺」は、彼女が一人で切り盛りする店だった。通りに面した窓には手作りの看板。客足が特別多いわけではないが、毎朝立ち寄る常連がいて、昼には近くの子どもたちが焼きたてのパンを分け合って笑ってくれる。そんな日々が、最近のアンジェにとっての“居場所”だった。
だがその朝、彼女の店に現れた客は、少し違っていた。
「すみません、まだ開いてますか?」
振り返ると、そこにいたのは――黒髪の少女。見覚えのある顔。いや、忘れようにも忘れられない声の主だった。
「……あなた、もしかして……!」
アンジェの声が上ずる。
「あのとき、セント・オルソ広場で歌っていた……!」
少女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「うん。あのときの……覚えてくれてたんだ」
「忘れるわけ、ないです……! 本当に、すごかったんですから……!」
緊張のあまり声が裏返った。アンジェは慌てて顔を伏せ、赤くなった頬を隠す。リノはそんな彼女を見て、くすっと笑った。
「……あの、よかったら、ここで少しお話してもいいですか?」
「えっ? あっ、もちろん! 椅子、ありますから! そこのテーブルに!」
パンを並べる手を止め、アンジェは慌てて店の奥に案内する。湯気の立つミルクと、焼きたてのクミンパンを添えて。
「ありがとう。……わたし、リノっていいます」
「わたし、アンジェです。えっと……あの歌、本当に心に残ってて……聞いた日から、毎日パンを焼きながら口ずさんでたんです」
「……そうなんだ。すごく、うれしい」
リノの目が少し潤んだ気がした。静かな沈黙のあと、彼女は少しだけ迷ったように、けれどまっすぐアンジェを見て言った。
「……わたし、実は“リノ”っていう名前、本当の名前じゃないんです」
アンジェは目を瞬かせた。
「え?」
「本当は、トリノ=リドグレイ。北の貴族の家で生まれたけど……魔法が使えなくて、“無能令嬢”って呼ばれて、家族にも見下されてて」
その言葉の重さに、アンジェは息をのんだ。
リドグレイ家――王都の東図書館で名前を見たことがある。確かに、王国でも名高い魔導貴族のひとつ。
「……でも、もうあの名前には戻りたくないの。“リノ”として生きていくって決めたから」
リノは、テーブルの上のパンをそっと撫でるように見つめた。
「音楽隊に入って、少しだけ……歌が“武器”になるって思えるようになった。誰にも認められなかったわたしでも、誰かの心に届くなら……それで、十分だって」
アンジェはその言葉を、胸の奥で何度も反芻した。
自分と似ている。だけど、きっともっと深い痛みを抱えて、それでも前に進んできた人だ。
「……リノさんの歌、わたしの人生を変えました」
今度はアンジェの番だった。
「わたし、ずっと目立つことが怖くて、目立たない味のパンばかり作ってた。でも、あの歌を聞いて、変えたいって思ったんです。わたしも“何か”を残したいって」
リノは驚いたように目を丸くし、やがてふっと微笑んだ。
「……そっか。じゃあ、わたしと一緒だね」
二人はしばらく、焼きたてのパンと温かいミルクを分け合いながら、言葉を交わした。
広場の風。音楽の記憶。小さなパン屋の香り。
どれもが、かけがえのない絆となって、二人を繋いでいた。
昼前、店を出る頃。リノがふと立ち止まり、言った。
「今度、広場でまた歌う予定があるの。よかったら、来てくれる?」
アンジェは迷わず頷いた。
「もちろん! それに……次は、差し入れにスパイスパンを持っていきますね。ちょっと冒険味だけど、評判いいんです」
リノは声を上げて笑った。
「それ、楽しみにしてる!」
そしてリノは通りへと歩き出す。背筋を伸ばし、風を受けて歩くその後ろ姿は、まるで旅人のようだった。
アンジェは、その背中を見送ったあと、そっと自分の胸に手を当てた。
――たぶん、また今日も、いいパンが焼ける。
少女たちの心に灯った小さな灯火が、王都のどこかで、今日も誰かを照らしている。