第2話 トリノ、使用人にもいじめられる。
『灰の令嬢、涙の熱に伏す夜』
寒い――。
身体の芯から震えるような悪寒に、トリノは毛布の中で小さく丸くなった。いや、毛布と呼ぶにはあまりにも頼りない。それは古びた麻布のようなもので、湿っていて冷たく、体温を奪うだけだった。
屋敷の北棟、使われなくなった物置部屋。ここが今の彼女の寝床だった。
「ベッドの空き部屋がある? 冗談じゃないわ、汚れるじゃない」
継母のアナスタシアがそう言ってから、もう何ヶ月もここに押し込まれている。
ほんの数日前までは、まだ耐えられた。けれど今朝から、身体が異様に熱い。喉も痛いし、頭が割れそうだ。
(風邪、かな……)
いや、それどころじゃない。たぶん、高熱が出ている。でも、薬なんて望むだけムダだ。
それは三日前のこと。
「ほら、灰かぶり。床がぬるぬるしてるわよ。きちんと拭きなさい」
召使の女中頭・マルガレーテが鼻をつまみながら言った。
「は、はい……すみません」
トリノは両膝をつき、冷たい石の床を雑巾でこすった。屋敷の廊下は広く、天井が高くて、外気の冷たさがじんじんと足から伝わってくる。
「昨日は暖炉の灰を片付けろって言われたんだろ? こっちの灰がまだ残ってるわよ?」
「ご、ごめんなさい、すぐに――」
ガシャッ!
背中に何かが投げつけられた。振り返ると、金属の食器。誰かがわざと落としたのだ。使用人の青年のひとりが、にやにやと笑っている。
「おっと、手が滑った。拾っといて、“令嬢”?」
「……はい」
彼らは、トリノが“主人の娘”であることを知っている。けれど今は、彼女を「最下層の使用人以下」として扱うことが、屋敷の“空気”になっていた。
「なんで、あの子に掃除させるんだろうな。魔法も使えない、家事も遅い、ただの役立たずだろ」
「ほんとよね。どうせいずれ追い出されるって噂よ。あんたも仕事押し付けときなさいよ?」
「……」
そんな声が聞こえても、トリノは口をつぐんだまま、ただひたすら拭き続けた。手がかじかんで、雑巾を絞るのも難しくなってきた。
その晩から、熱が出た。
「はぁ、はぁ……」
息が苦しい。額に冷たい汗がにじむ。視界がかすんで、立ち上がるのもつらい。
けれど、召使の誰も、心配の言葉をかけてはくれなかった。
「灰かぶりが寝てると助かるなぁ、静かで」
「ていうか、本当に具合悪いの? 芝居じゃない?」
「ま、死んでも困らないでしょ。あんたの部屋、倉庫に戻してもらいたいのよね~」
冷たい言葉が耳に突き刺さる。食事も、水さえも与えられない。頼もうとしても、声が出ない。目が回って、身体を起こすだけで吐き気がした。
(だれか、……)
助けて――と、心の中で叫んでも、それは誰にも届かない。
夜になると、さらに苦しさが増した。
熱にうなされながら、母の面影が浮かんでは消える。
優しく抱きしめてくれた手の温もり。子守唄の声。
すべてが遠い夢みたいだった。
「……おかあ、さま……」
涙がこぼれた。けれどそれは、誰にも見られない。誰にも気づかれない。
トリノはたった一人で、冷たい闇のなかに取り残されていた。
それから、三日目の朝。
身体は限界だった。立ち上がろうとした瞬間、バランスを崩して倒れる。
音に気づいたのか、扉が開いた。
「……まだ寝てんの? あんた、いつまで怠けてんのよ」
ミレイアだった。
「立てないの? 何その顔……ひど。まるで腐りかけのリンゴ」
クラリッサも現れ、鼻をつまむ。
「うわぁ、熱で顔まっ赤じゃない。まさかほんとに病気? まあ、うつされたらたまったもんじゃないわね」
二人は心配するふりもせず、くすくす笑って去っていった。
誰も助けてくれない。声をあげても、届かない。
でも――その時、わずかな魔力の波動を感じた。
(え……?)
部屋の隅、古い棚の影で、何かがふわりと光っている。
それは、母の形見の銀のペンダントだった。熱を帯びるように輝いている。
――「どうか、この子を護って」
確かに、母が昔、そう祈っていた姿を思い出す。
その光が、静かに彼女の身体を包み込む。
ゆっくりと、熱が引いていくような――まるで、小さな癒しの奇跡。
(……お母さま、あなたが……?)
意識が、深く深く沈んでいく。
冷たい世界の片隅で、誰にも知られず、誰にも気づかれず、
灰かぶり令嬢は眠りに落ちた。
けれどその胸には、小さな奇跡の灯が、ともしびのように揺れていた。
――そしてそれは、彼女がまだ“完全に壊れてはいない”証だった。