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第19話 ラウル=リドグレイ伯爵、領地に帰還する


―父の帰還、静かな告知―

 応接室の扉が、重く音を立てて開いた。


 冷たい空気が一瞬、部屋を撫でる。絨毯の上を進むのは、長身の男――リドグレイ伯爵、ラウルその人だった。いや、正確には「伯爵代理」。だが、その名を聞くだけで多くの人間が黙り込む、そんな圧を持つ人物だった。


「……お帰りなさいませ、ラウル様」


 アナスタシアの声は、どこか緊張を帯びていた。ラウルはそれに応えず、まっすぐとテーブルの前に腰を下ろす。


「急ぎ話がある。――トリノのことだ」


 その一言に、応接室の空気がぴたりと凍る。


 クラリッサは睫毛を伏せ、アナスタシアはわずかに眉をひそめた。


「行方は……まだ分かっておりませんわ。もう一月も……」


「――探していなかったな。知っている」


 ラウルの声は静かだったが、その奥に仕込まれた刃は鋭く、容赦がなかった。


 アナスタシアの手に握られていた扇子が、わずかに震える。


「ラウル様、私たちは――」


「言い訳は要らない、アナスタシア。それよりも、これだけは覚えておけ」


 ラウルの視線が、二人の女性をまっすぐ貫いた。


「わたしは、必ずトリノを見つける。――どんな手を使ってでも」


 クラリッサの紫の瞳がわずかに揺れた。


「……それほどまでに、必要なのですか? あの子が」


「必要だ。それ以上でも以下でもない」


 言葉の意味を問おうとしたアナスタシアを、ラウルは一瞥で黙らせる。彼の瞳には、ただひたすらに“焦り”と“決意”が潜んでいた。


「王都から連絡があった。リュシオン近郊に、音楽隊に身を寄せた少女がいるそうだ。名を“リノ”と名乗っている」


「リノ……?」


 クラリッサの声が、ごく小さく響いた。


「使いを出して確認させた。“リノ”は、間違いなくトリノだった。あの子は生きている。そして、今も自分の足で歩こうとしている」


 アナスタシアは息を呑む。


「ま、まさか、本当に……」


 クラリッサは拳を静かに握った。夕暮れの光が、彼女の銀髪を鈍く照らす。


「わたしは、すぐに出る。彼女に会いに行く。直接話すために」


「……何を話すおつもりで?」


 クラリッサが静かに尋ねた。冷たい声だったが、その奥に微かに震えがあった。


「それは、わたしとあの子だけの話だ」


 ラウルの口調は変わらない。けれど、ただの家族の会話でないことは明白だった。


 アナスタシアは立ち上がり、強く言った。


「ラウル様。あなたは本気で、あの子を“戻す”つもりなのですか? あの、無能で、礼儀もなく、魔法も使えない……!」


「黙れ」


 一瞬で、空気が変わった。


 ラウルの声は低く、怒気すら感じさせない冷たさだった。


「そうやって、何年も見下してきたな。あの子の居場所を奪い、誇りを踏みにじってきた。その結果が今だ。逃げられたのは当然のことだろう」


「で、ですが……!」


「クラリッサ。おまえも、聞いておけ」


 ラウルは娘に向き直った。


 クラリッサは、黙ってその視線を受け止めた。


「どんなに過去がどうであれ、わたしにとって“トリノは娘”だ。――それだけは変わらない。いや、これからは変えてはならない」


「……そんなふうに、言ったことなかったじゃないですか」


「言わなかった。間違っていた」


 ラウルの声がかすかに揺れる。


「だが、今さらでもやらなきゃならないことがある。あの子に向き合うこと、そして――」


 そこで言葉が途切れた。


 ラウルはふと、窓の外を見た。


 赤く染まる空。沈みゆく太陽。リドグレイの屋敷に差し込む最後の光は、どこか物悲しかった。


「……すべてが、変わってしまう前に」


 ラウルの独り言のような言葉に、クラリッサはわずかに目を伏せた。


「では……見つからなければ、どうなるのですか?」


 その問いに、ラウルはしばらく黙っていた。


 アナスタシアも、クラリッサも答えを待っていたが、彼はそれを告げなかった。


 ただ、重々しい沈黙だけが、その場を支配した。


 そしてラウルは立ち上がり、背を向ける。


「トリノを見つける。絶対に、だ。それだけを覚えておけ」


 そう言い残し、彼は扉の向こうへと消えていった。


 静まり返った応接室。


 アナスタシアは、手にした扇子を強く握りしめていた。


 クラリッサは窓の外を見つめる。


 赤い夕日が沈んでいく。その先にいるのは、かつて「無能令嬢」と呼ばれた少女。


 けれど今は――誰にも縛られない、自由な音楽を奏でる“リノ”という名の少女。


 運命は、再び彼女に手を伸ばそうとしていた。


 その意味を、まだ誰も知らなかった。


 けれど――それでも、夜は必ず来る。


 そして、灯火はともる。


 それが希望の光か、滅びの兆しか。


 すべては、あの少女が“戻るか否か”にかかっていた。

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