第15話 アナスタシアとクラリッサの共謀
―消えた娘、残る棘―
午后の日差しが、赤い天幕のカーテン越しに差し込んでいた。
リドグレイ伯爵家の応接室。その空間は、まるで閉ざされた劇場のように、静かに重たい空気をまとっていた。
「クラリッサ。少し話があるの」
呼び出されたクラリッサ=リドグレイは、冷たい美貌を崩さず、優雅に一礼してからアナスタシアの前に立った。
紫の瞳、完璧に結われた銀髪。真紅のドレスの裾を翻し、舞台女優のような一歩で近づいてくる。
アナスタシアは、扇子を閉じて手紙を差し出した。
それは王都にいるラウル=リドグレイ伯爵からのものだった。
「父様から、ですか?」
「そう。――“トリノの件で、直接話をするため帰る”とあるわ」
その名が出た瞬間、クラリッサの瞳がわずかに動いた。だが、それだけ。すぐに感情の波は押し殺された。
「そう。では……また、騒がしくなりそうですわね」
「――クラリッサ、あなた。トリノがどこに行ったか、本当に知らないの?」
アナスタシアの声には、苛立ちよりも、ある種の興味が混じっていた。
クラリッサは肩をすくめた。
「ええ。消えたまま、戻ってこない。それだけのことですわ。わざわざ探すほどの価値はありません」
「本気でそう思っているのね?」
「もちろん。あの子がいないだけで、廊下は静かになったし、食卓の空気も澱まない。女中たちも笑うようになりましたわ。いない方が、屋敷は清潔で健やかです」
あまりに冷たい言いように、アナスタシアはふっと笑った。
扇子をゆっくり開き、ひらひらと仰ぎながら、言った。
「……それでも、トリノは、ラウル様の実の娘」
「私たちとは、違いますわね」
クラリッサの口調は淡々としていた。
アナスタシアは一瞬だけ、まぶたを伏せた。
そこには、過去の傷のような感情がかすかに滲んでいた。
――トリノは、ラウルが最初の妻との間に残した子。
亡くなった彼女の面影を残す、栗色の髪と灰色の瞳。
自分には一滴も通っていない血。その存在自体が、時に疎ましく、時に恐ろしく思えた。
だが、ラウルはかつて言ったのだ。
「トリノは、この家の娘。いずれ家督を渡す」
その言葉を、何度思い出しただろう。
アナスタシアは扇子を閉じて、視線をクラリッサに向け直した。
「――クラリッサ。あなたなら、家を継げるわね」
「突然ですわね」
「いいえ、前からそう思っていた。あなたは頭がいい。政略も、立ち居振る舞いも、貴族として完璧。何より……わたくしの“血”が通っている」
クラリッサの瞳が、一瞬細められた。
「……では、今の言葉は。トリノが戻らなくても、構わないと?」
アナスタシアは軽くうなずいた。
「そうね。――正直に言うなら、彼女は“戻ってくる”と思っていたの。外の世界に耐えきれず、泣いて帰ってくると。あの子は臆病だったから」
「ですが、戻らなかった」
「そう。……戻らないまま、ローマンとの婚約は破棄され、王都では妙な噂まで流れ始めている。“伯爵家の令嬢が家出した”“無能な娘が婚約を逃げた”――まったく、耳障りな言葉ばかり」
「ですが、それもすぐに収まります。家督継承を正式にクラリッサへと切り替えた、と発表すれば。ね?」
アナスタシアの瞳がわずかに輝いた。
それは、長年胸に秘めていた“願い”が、いよいよ現実になると悟ったときの、獣じみた光だった。
クラリッサは沈黙したまま、視線を逸らさなかった。
だが、その唇の端は――わずかに上がっていた。
「……ならば、わたくしからもひとつ、申し上げてよろしいですか?」
「なにかしら?」
「――“最初から、そうすればよかった”と思っていますの」
アナスタシアは一瞬目を見開いた。
クラリッサは続ける。
「トリノは、目障りでした。優しげな顔で、惨めに黙っているだけの存在。そのくせ、父様の寵愛は彼女に向いていた。どんなに私が努力しても、“あの子は前妻の形見”という影から逃れられなかった。だから――」
言葉を切り、クラリッサは静かに笑った。
「消えてくれて、せいせいしました」
アナスタシアは、しばらく黙っていた。
だが、やがて微笑んで、立ち上がった。
「……クラリッサ。あなた、本当にわたくしの娘ね」
「それは光栄ですわ。母様」
二人は向かい合い、優雅に微笑み合った。
だが、その空間には愛情の温もりも、血のぬくもりもなかった。
あるのは、冷たい確信と、切り捨てた者への無関心。
トリノという“いない娘”を、完全に過去へと追いやるための、静かな共謀だった。
――これでいい。
――これが、“貴族の家”というものなのだから。
陽は傾き始め、赤い光がクラリッサの頬を照らした。
彼女はその光を無表情に受け止めながら、ふと、遠い空を思った。
――あの子は、今どこにいるのかしら。
だが、その答えに意味はない。
トリノはもう、屋敷の記録からも、未来からも、消えたのだから。