第11話 女中召使のマルガレーテの日常、トリノが消えた日
―マルガレーテの日常―
朝の日差しが、リドグレイ伯爵邸の白い石造りの廊下を照らしていた。
マルガレーテは、ぱたぱたとスリッパを鳴らして、屋敷の中を歩き回っていた。
いつもの時間、いつもの仕事。
でも今日は、どうも調子が狂っていた。
「……あの子、どこ行ったのかしらね」
朝の掃除、洗濯、水汲み、台所の炊き出し準備。使用人の仕事は山ほどある。
そして、そこに“おまけ”で付いていたのが――
「無能令嬢」こと、トリノ=リドグレイだった。
栗色の髪、細くて背の低い身体。どんくさくて、愛想もなくて、何より、魔法が使えない。
魔法貴族の家に生まれておきながら、その時点で「失格」だった。
「まったく、あの子は……どこ行ったのよ」
いつもなら、掃除道具を引きずってこの時間には廊下に出てくるのに。
呼ばなくても、怒鳴らなくても、自分の居場所くらいは理解してた。
だけど、今日は姿がない。
(サボってるのかしら?)
そう思って、マルガレーテはまず、納戸を開けた。
トリノは昔、寒さから逃げてここにこっそり隠れていたことがあった。
でも、いない。
台所の裏も、使用人部屋の陰も、屋敷の裏庭も見た。
――見つからない。
さすがに眉間にしわが寄る。
「まったく、何が“令嬢”よ……あんな役立たず、炊き出し一つ満足にできやしない」
屋敷では誰も、彼女を令嬢として扱っていなかった。
継母のアナスタシア様はもちろん、姉のミレイア様も、クラリッサ様も――冷ややかな目で見ていた。
(でもまあ、いないならいないで、静かで結構)
そう思った瞬間だった。
「――マルガレーテ。トリノを見なかった?」
銀色の髪を結い、紫の瞳をしたクラリッサ=リドグレイが、階段を降りてきた。
相変わらず、冷たい美貌。姿勢も、言葉も、まるで氷の彫刻みたいな完璧さだった。
「いえ……今朝から姿を見かけておりませんが」
「……昨日の夜、何か言ってなかった?」
「とくには……相変わらず黙って、水桶を運んでいたくらいで」
クラリッサはわずかに眉をひそめた。
「着替えもない、荷物も。書き置きも……部屋には何もなかったわ」
「え? それって、まさか――」
マルガレーテの背筋に、冷たいものが走った。
まさか、逃げた? あの灰かぶりが?
「お言葉ですが、あの子に逃げる度胸なんて――」
「度胸なんていらない。あの子は、壊れていたのよ」
クラリッサの言葉に、マルガレーテは言葉を失った。
思い返せば、たしかに……最近のトリノは、何も反応しなくなっていた。
いくら冷たい水をかぶせられても、服を汚されても、笑われても。
まるで、感情が抜け落ちたように、ただ黙って動くだけだった。
(まさか……あのときの目)
思い出す。先日、厨房の床を磨いていたときのこと。
ローマン=アルヴィスが屋敷に訪ねてきて、トリノとすれ違ったそのとき。
ふたりの目が、一瞬だけ交わった。
トリノの目は、ひどく……遠かった。もう、何かを諦めたような、深い夜みたいな目だった。
「まさか……男のところへ逃げたとか?」
「……その可能性もあるわね」
クラリッサが低くつぶやいたその時、背後の廊下から赤いマントが翻る音がした。
「……ローマン様」
ローマン=アルヴィスが立っていた。切れ長の瞳、背筋をまっすぐに伸ばしたその姿は、誰が見ても王都の優等生だ。
「……トリノがいない、と聞いて」
クラリッサと視線が合った。その空気は、どこか張りつめていた。
「ローマン様、なにか……ご存じなのでは?」
「……知らない。けど……予感はしてた。あの子は、あの屋敷でずっと――」
言いかけて、言葉を止めた。
クラリッサも、それを制するように視線をそらした。
マルガレーテは、その場で立ち尽くしていた。
なんだろう、この胸の奥がざわつく感覚は。
(まさか……本当にいなくなった? あの子が?)
いないとわかると、不思議なことに、ぽっかりと“空いた穴”が感じられた。
いつもそこにいたはずの影が、消えてしまったことが――妙に静かで、妙に不安だった。
「……見つけ出しますか? 探し人を」
マルガレーテの問いに、クラリッサはほんの一瞬、ためらってから答えた。
「……必要ないわ。自分の意志で出ていったのなら、それでいい。いずれ“現実”に潰されて戻ってくる。それだけのことよ」
そう言って、クラリッサは踵を返した。
だが、その背中には――どこか、見送るような気配が漂っていた。
ローマンもまた、何も言わずにクラリッサの後を追う。
静かになった廊下に、マルガレーテだけが取り残された。
心の中で、ぽつりとつぶやく。
(……どうして、あんな子に……)
(……あんな子に、気を取られてるのよ、みんな)
そしてその夜、リドグレイ伯爵邸では、誰も知らないうちに一人の令嬢が歴史から姿を消した。
“灰かぶり令嬢”トリノ=リドグレイの物語が、静かに幕を閉じ――そして、旅立ちの第一歩が、始まっていた。