第10話 音楽隊リーダー・マリーナ視点
『旅立ちの旋律』―マリーナ視点―
夜の帳が降りきったころだった。宿屋「白石亭」の裏口で、誰かが戸を叩いた。
音楽隊がこの町に滞在して三日目。明日には荷をまとめて発つという、そんな夜に。こんな時間に誰かが来るなんて、ふつうはない。
最初に気づいたのは、警備係のルークだった。戸口に立っていたのは、一人の少女。長めの栗色の髪、細い体つき、見るからにくたびれた身なり。――そして、熱で火照ったような顔。
ルークから報告を受けて、私は軽く肩をすくめながら寝室から出た。
「まったく……夜中に訪ねてくるなんて、よほどの酔っ払いかと思ったけど」
少女は、はっきりと目を見据えてきた。おどおどした様子もなく、けれど明らかに、なにかを振り切ってここへ来た、そんな目だった。
「お願いです。わたし……歌いたいんです。この音楽隊に入れてください」
その言葉を聞いた瞬間、私はちょっとだけ笑いそうになった。無理だろうって意味じゃない。むしろ、面白い、って思ったのだ。
「……ふぅん。屋敷を抜け出して、音楽隊に入りたいって子は初めてだね。よし、歌ってごらん」
部屋に通し、私たちは静かに彼女を見守った。
ぐるりと円になって、楽団員たちが目をこする。夜中に起こされたんだ、文句のひとつも言いたかろう。でも私はこういう“偶然の出会い”を、結構大切にしてる。
歌の始まりと同時に、その場の空気が変わった。
少女――いや、トリノと名乗ったその子の声は、まるで異国の風のようだった。どこか懐かしく、それでいて、聴いたことのない旋律。耳に残る歌詞。まっすぐな高音。そして、何より――感情が乗っていた。
「生きて、生きて、生きてゆく……」
ああ、そうか。この子は、ほんとうに生きようとしている。過去から逃げるんじゃなく、未来に賭けている。
歌が終わると、宿の中は静まり返った。
誰も拍手をしない。ただ、全員が彼女の歌に呑まれて、何も言えずにいた。沈黙は、最高の賞賛だ。
私は口角を上げて、静かに言った。
「……あんた、いい声してるね。音感も悪くないし、なにより、心が揺れた。そういうの、わたしは好きよ」
隣にいたルークが、ちょっと驚いた顔をしてこっちを見た。そりゃそうよ。私、ふだんは滅多に褒めないからね。
「歓迎するわ。うちの音楽隊に、今日から入ってちょうだい。名前は?」
少女は、少しの間だけ沈黙した後、ぽつりと答えた。
「リノ、と呼んでください」
リノ。仮の名だろうね。本当の名前を捨てるってのは、それなりに事情がある証拠。でも、過去に縛られてちゃ旅はできない。自分で選んだ新しい名前なら、それが彼女の“生き方”なんだ。
「よし、リノ。あんたの歌、ほんとは朝になったらこの町で披露してほしいところだけど……ま、時間もないしね。次の町でデビューってことで」
私はそう言って、リノの肩を軽く叩いた。
その小さな肩が、一瞬だけ震えて、でもすぐにまっすぐ立ち直った。――強い子だ。
それから、リノには予備の楽団服を渡した。うちは正式な巡業許可を得ているから、登録された楽団員は門を通れる。夜明け前の静かな時間に、私たちは荷馬車に荷物を積み、白石亭を後にした。
東門が開き、名簿を見た門番が「リノ」の名を確認してうなずく。音もなく、彼女は門を抜けた。
そうしてリノは、ようやく“あの屋敷”から旅立った。
私はそれ以上、彼女の過去を聞こうとは思わなかった。理由があるのはわかってる。けれど、それ以上に大事なのは、これからどんな道を歩くかだ。
彼女は何も持っていないように見えた。魔法も、名誉も、きっと財産も。
でも、あったじゃない。
声がある。心がある。生きようとする強さがある。
音楽ってのはね、技術じゃないんだ。何を伝えたいか。それが一番大事なの。
私はこの十年、いろんな土地を巡って、いろんな人の歌を聞いたけど――
あんな風に「心ごとぶつけてくる歌」は、そうそう出会えない。
リノは馬車の中で空を見上げていた。まだ朝焼けにもなってない、深い群青色の空。
その横顔に、もう“絶望”はなかった。
彼女の旅は、ここから始まる。
そして、きっといつか――
あの声が、世界を変える。
私はそう信じて、思わず口笛を吹いた。
風の音にまぎれて、小さな旋律が空に舞った。
それは、私たち音楽隊にとって、新しい“始まりの歌”だった。