第1話 トリノ、いじめられている
『灰かぶり令嬢と冷たい塔』
――この屋敷は、わたしの居場所じゃない。
薄明かりの差し込む天窓の下、トリノは古びた石床に敷かれた毛布の中で、静かに目を覚ました。肌寒さに身をすくめながら、昨日と変わらぬ粗末な日常が始まる。
かつては伯爵家の令嬢として、それなりに贅沢に暮らしていたはずだった。だけど、実の母が亡くなり、父が再婚してから、すべてが変わった。
「おい、灰かぶり。いつまで寝てんのよ、あんたは召使いのつもり?」
部屋の扉が開いた瞬間、鋭い声が響く。姉のミレイアだ。血のつながらない継姉。金色の巻き髪に、真紅のドレス。どこをどう見ても「完璧なお嬢様」ってやつだ。
「ごめんなさい、すぐに……」
声がかすれる。喉が乾いて、口がうまく動かない。でもそんなこと、おかまいなしにクラリッサが続けて現れる。こちらは次姉。銀髪に紫の瞳、冷たい美貌と毒舌で有名な“塔の薔薇”だとか。
「ふーん、また寝癖ついてる。魔獣みたいな髪。鏡って知ってる?」
「……すみません」
トリノはペコリと頭を下げる。反論なんて、とうにあきらめた。
この世界は、魔法と剣が支配する王国の北方領。名門リドグレイ伯爵家の屋敷には、魔道具や召使い、そして“偽りの家族”がそろっている。
彼女――トリノ・リドグレイは、この家の“戸籍上は三女”。けれど実態は、召使い以下の扱いだった。
「キッチン、昨日の灰がそのままだったわよ? ご主人様の食事を用意する手も、まるで泥人形ね」
継母――アナスタシアは、笑いながら扇子をパチンと閉じた。宝石の指輪がじゃらじゃらと光る。表面上は優雅な淑女。でも、その言葉の一つ一つは冷たい氷針のよう。
「今朝の朝食、あなたの分はなし。ねえ、ミレイア? “灰かぶり令嬢”には、灰でも食べさせればいいのよ」
「賛成♪ ちょうど暖炉の掃除があるし、役立ててあげる」
三人がくすくすと笑うなか、トリノはただ小さくうなずいた。
魔法の使える貴族家系に生まれながら、彼女にはその才能がなかった。魔力量は平均以下、魔導器も扱えない。だから「無能令嬢」と嘲笑され、王立魔法学園の入学も許されなかった。
そして父――ラウル伯爵は現在、王都にて政務の任について不在。手紙すら届かない。父がいない今、屋敷では継母たちの天下だった。
昼下がり。トリノは地下の魔道庫で、ホコリにまみれた古い呪具の掃除をしていた。魔力がこもった遺物は、時に人を傷つける。使用人に触らせるわけにもいかず、代わりに「使い捨ての娘」に任されるのだ。
咳き込みながら、彼女は一つひとつ魔力の気配を確認し、ぼろ布で拭っていく。
(魔法が使えたら……もっと違う未来があったのかな)
ふと、そんな夢のようなことを考えた。
「――あら、こんなところにいたの?」
その声に背筋が凍る。ミレイアとクラリッサが、また現れた。彼女たちはトリノの前に立つと、わざとらしくため息をつく。
「ほんと、似合ってるわね、その灰色の顔と服。まるで屋敷のゴミ箱に住んでる妖精?」
「妖精に失礼じゃない? こっちはただの“灰の虫”よ」
トリノは反論しない。ただ、目を伏せたまま、黙々と作業を続けようとする。
すると、クラリッサが手にしていた古い魔導具――火球の杖をわざと床に落とした。
「キャッ……!」
杖から火花が散って、トリノの足元の木箱が焦げた。すぐに火は消えたが、煙と灰が舞い、視界が真っ白になる。
「何やってんのよ、トリノ! 道具を壊すなんて、賠償金よ!」
「で、でも……!」
「言い訳しない!」
バチンッ。
頬に冷たい音が走る。クラリッサの手が彼女の顔を叩いたのだ。
(痛い。でも……泣かない)
そう決めていた。泣いたって誰も助けてくれない。耐えるしかなかった。
夜。屋敷が静まり、誰もいない納戸で、トリノはひとり、こっそり木箱を開いた。中には小さな布包み。亡き母の形見――古びた銀のペンダントが眠っていた。
それだけが、彼女の“世界でただ一つの宝物”。
「……お母さま。わたし、がんばってるよ。ちゃんと、ひとりでも……」
声が震える。けれど、涙は流さなかった。
屋敷の誰にも必要とされない“灰かぶり令嬢”。
だけど、彼女の心だけは、まだ折れていない。
――いつか、この冷たい塔を抜け出して、空の広い場所へ行くんだ。
そう、小さく、けれど確かに誓った。