記述主義者ともう失敗しない方法論。
つ、つい長編ほったらかして短編書いちゃった……失敗ですね。(キリッ
構造の奴隷のように生きてきた。
†
今回は、もう失敗しない方法論について考えてみようと思う。
ただ、その前にひとつ、約束して欲しい。
別に、君に損はないし、私がちょっとしたリスクを負うだけの簡単な約束だ。
これから私は、失敗を防ぐ方法について書いていく。
この世の中には100通りの失敗があって、それぞれの対処法はうんたらかんたら、と書いたら読む気を無くすでしょう?
できるだけ時間効率を考えたいところだ。
なので、最初に全体の構成を明かしておく。
まず、私の人生の時系列順に沿って、失敗話をひたすら続けていく。
そして、それらを総括してどう失敗しないようにするかの方法論をまとめる。
以上だ。
結論だけ知りたい人は、私の失敗談の部分はスルーして構わない。
もう失敗しない方法論と題し、君や誰かの失敗を手前勝手に想像し、面白おかしく取り上げるなんてわけにもいかない。私の失敗談をネタにしよう。
また、私の不幸自慢や、懐古趣味や、エセ武勇伝のような、自己満足の自分語りで終わらせる気はない。
なにせこれは、記述主義者シリーズ。
根底にある裏テーマは「気持ち悪いぐらいに生々しい、自己表現」である。
このような具合なので、失敗談を読んで私に怒りを覚えたり、失望したり、心底呆れたり、見下したくなったりするかもしれない。
当てにならない、読む価値もない。そう判断するかもしれない。
あるいは、似たような状況に遭った経験があり、思い出して不快な思いをするかもしれない。
そう思ったなら、読み飛ばしてくれて構わない。
『読み飛ばし、スクロール推奨。なんなら今すぐ、そっと閉じてもらっても構わない』
それが今回、君と交わしたい約束だ。
どうだろうか? 約束してくれるなら、どうぞ読み進めてみて欲しい。
†
え? 読むの? マジで?
ああいや、歓迎するよ。ええー(困惑)。
冗句はさておき。
まず、前提からだね。私はどんな子供だったか?
物心ついたばかり、4才前後の自分をを表現するなら、今でいう繊細さん傾向の強い子供。ちょっとしたことで心がいっぱいいっぱいになってしまい、よく癇癪を起こしていた。
集中力が高く、子供の割には考えが深かった。これはHSP傾向と繋がりが見えにくいかもしれないが、要するに周りを意識せずに何かに没頭する方が気が楽だった、ということだ。環境感受性に振り回され鍛えられた認知能力を1点に振り向けるのが好きになっていた。
ただ、HSPらしからぬ個性もあった。
人間への共感力がまるでなかったことだ。
え? それはHSPではないのでは? むしろサイコパスを疑った方が、とも考えたくなる。ただ、不安感を感じやすい性質でもあった。
不安を感じられないサイコパスとしての傾向はむしろ低い。他、自閉スペクトラム症なら検診で判明していてもおかしくないし、その症例を調べる限り、あまり一致するように思えない。
共感しているものが、人間ではなかっただけだ。
私はその場のルールに対して、ひどく共感していた。
親が勉強しなさい、と言うから勉強する子供。
先生がルールを守りなさい、と言うからルールを守る子供。
一見、聞き分けの良い子供に見える。
この場にはそういうルールがあって、それで上手くいっている。それでいいじゃないか。
そう考えてしまう子供だった。
ただ、ちょっと引いた視点で見ると、とても危うい。
朱に交われば赤くなる、という言葉がある。
親や先生が必ずしも良い人であるとは限らない。常に正しいなんてことは確率的にありえない。誰だって当たり前に間違うし、失敗する。
幼さゆえに、自分らしさ、人間性なんてものは薄っぺらだ。まして、自覚なんてまるでできていない。自分の心にさえ共感力がまるでなかった。
だから、独りでよく泣く子供だった。理由が分からなくて、ただ哀しかった。
†
幼稚園の時の失敗談。
先生が弾くピアノ。曲名は「線路は続くよどこまでも」、園児のみんなで電車ごっこだ。
いつも通りだったのだけど、その日は勝手が違っていた。
開始前にトイレに行きたくなってしまい、先生に伝えてお手洗いへ。
私が戻ってきた頃には、ほぼ決着がついていた。
「私ひとり」対「クラス他全員」の電車でじゃんけんである。
ちな、私は勝った。私が先頭になって電車ごっこは終わった。いろいろな意味で。
翌日から、特に男子の間で電車ごっこ前にトイレに駆け込むのが大流行した。
そして後日、皆仲良く怒られた。それ以降電車ごっこをした記憶がない。
†
小学校2年生の時の失敗談。
子供のアレルギーについて理解が深まった昨今では考えづらいが、当時はまだそういったトラブルが注目されていない時代だった。
先生は給食を食べさせることに熱心で、ちゃんと食べるとシールが貰えるルールを作った。学期間ずっと完食だとちょっとした賞状が皆の前で渡される。
給食を食べることに、評価と競争を持ち込んだわけだ。
しかし、私は食べるのが遅く、一年の時は掃除が始まる時間までに食べきれないことが多かった。好き嫌いも多かったように思う。変わっていたのは、ニンジンやピーマンはむしろ好きで、嫌いな野菜はキャベツだった。味が薄いため、かえって青臭い香りを強く感じ取ってしまったからだ。
そんな私はそのルールに対応するために、どんな行動をしたか?
ご飯をハンカチに包んで、トイレに流した。
数日でばれて大変怒られました。母親まで呼び出された次第です。
本当に、全国のお米農家の皆様には申し訳ないことをしました。
今ではすっかり反省し、茶碗の飯粒は1粒たりとも残さない人間に育ちました。ひょっとしたら見落としの数粒はあるかもしれませんが、自覚する限り、そういう習慣をずっと続けています。そんな程度で許される罪だとは到底思えませんが、食べ物を無駄にしないこと、命を頂く行為に感謝をすること、農家の皆様には頭が上がらないこと。
ついでに、農家を蔑ろにする政党とかあったら絶対に票を入れません。食べ物を粗末にする作品は好きじゃありませんし、この告白を最後に、自分が書くつもりもありません。
ただ、食育に関して言えることがあるとすれば。
美味しく食べ物を頂けるということは、本当に幸せなことです。
必要な栄養を、必要なだけ摂るということ。しっかり味わって食べるということ。
味や香りの違いを精確に理解し、味覚、嗅覚、その感性を調律し続けること。
そして、自分の身体にとって最適なものを口に入れたときの歓喜たるや素晴らしい!
自分の身体や心を満たすということを、忘れてはいけない。
食べるということを、つまらない作業にしてはならない。
そして君と、みんなと一緒に分かち合う食事は本当に楽しいんだ、ということ。
それを次の世代に伝えられたら幸いです。
†
小学校3年生の時の失敗談。
ルールに対しての共感力が高い私にとって、最も高い適性を示した教科は数学だった。
算数ではなく、もう数学をやっていた。つるかめ算などの特殊算を一通り学んだ後に、連立方程式や因数分解を普通にやっていて、小3のうちに中学3年生までの数学は一通り終えていました。次いで国語も中学レベルには届いていましたし、理科社会も1年は先行学習していたかと思います。
今で言うギフテッド的な性質を発露していました。
ただし、今のように動画サイトで数学チャンネルがあるような時代ではありません。というか、グーグル検索の日本語版さえまだ無い時代です。スマホどころかガラケーさえなく、ポケベルならあった程度の時代です。持ってはいませんでしたが。
高校レベルの数学を教えられる人が身近に居なかったので、ここで頭打ちになりました。それに比べたら、SNSや動画サイトがある現代はチャンスは多いでしょう。もっとも、極端に偏った学習の結果、生きづらさに陥るリスクも多く一長一短ではあると思いますが。
さて、そんな私が朝、学校に登校するときに級友に相談しました。
学校では割り算を習ったばかり。
「÷0ということはどういうことだろう?」
もちろん割ることはできない訳ですが、それは何故でしょうか?
「ゼロで割ったらゼロに決まってるじゃんか!」
クラスメイトはそう言って、まともに取り合ってくれません。てか割れませんよ。説明しても全然分かってくれませんでした。
誰かに相談するだけ無駄だ、と誤学習したこと。
数学について、一人きりで研究するようになったこと。
†
小学校3年生の時の失敗談。ふたつめ。
足の遅い私にとって、マラソン大会が近づくのは気が重い。
でも先生は、朝の授業前や放課後の練習を奨励していた。
プリントを配り、練習の記録をつける。200メートルトラックを1周したら1マス、色を塗っていく。日付毎に色を変えたりする。その辺はカラフルで自由だった。
そして、半月ほど経った。プリントを提出する日がやってくる。
私の記録を他の生徒に見咎められた。
「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」「うそつき」
クラス中の皆から糾弾された、36の人間否定句が、私の心を滅多打ちにした。
私の記録は、200周を超えていた。どう思う?
クラスでも最下位を争う程度の足の遅いやつが、それだけ走っていると書いていたら?
当時は、小学校でも土曜は半日授業をやっていて、半月もあれば登校日は12日ぐらいある。朝の時間は40分ほどあり、時速4キロで歩いたとしても13周。実際はもう少し早く、1日で15~20周ぐらいは走っていた。それを続ければ普通に200周は超えるわけだ。
ただ、クラスの皆は誰もそこまで取り組んでいなかった。足の速い子が100周越えでちらほら居るかな? ぐらいだった。
獣のような慟哭だった。私は大泣きし、当たり前の努力の証を、ぐしゃぐしゃに引き裂き、投げつけた。
努力は報われない。そんな事は、知ってたよ! 知ってたに決まってるだろド畜生が。
無駄な努力と嗤われるなら、耐えられたよ!
なのに、なんで、なんでだよ!?
何故なけなしの人間性まで否定されなきゃならない?
そんなのって――あんまりだろ!?
そのあと、クラスの先生がやってきて、仲裁した。
先生はちゃんと生徒を見ていて、私が毎朝きちんと走っていることを知っていた。
ただ。もう全てが遅すぎた。
努力ってさ、心底くだらないよな。そう思ったこと。
†
小学校5年生の時の失敗談。
バスケットボールの授業。体育館にて。
授業の最後、シュート練習。
5本入れたら終わりで、片付けて教室に戻るように。
先生は次の授業のために、先に職員室へ。
シュートして、外して、級友と交代。
シュートして、外して、級友と交代。
えんえん繰り返すうち、クラスメイトは全員教室に戻った。
独り、淡々とシュートを打ち続けたこと。
外し続けたこと、腕も疲れていて、そもそもリングに届かなくなってきたこと。
それでも打ち続けたこと。
次の授業時間が始まろうが、打ち続けたこと。
さらに30分以上外し続け、他のクラスの先生に止められたこと。
それでも打ち続けようとしたこと。
その先生に強制的に止められたこと。
哀しいとも、悔しいとも思っていなかったこと。
心が疲れ切っていることに、気づいてもいなかったこと。
†
小学校5年生の時の失敗談。ふたつめ。
習い事の珠算が嫌になっていたこと。
検定を受けても結果が出せないのは初めてのことで、珠算3級に6回落ちたこと。
塾に行く気力が出せなくて、ちゃんと行くふりをしてサボったこと。
道ばたに隠れて、空を眺めていたこと。
高架線を数時間眺め続けていたこと。
半月ほどでバレて親に怒られたこと。
7回目でようやく珠算3級に受かって、塾を辞めたこと。
冷静に考えたら当たり前で、当時から私は手が大きかった。
小さな算盤の珠を、隣の珠に触れずにひとつだけ弾くのは相当に困難であること。
自分をまるで見ていなかったこと。
†
中学生の時の失敗談。
荒れた中学で、暴力や痛みに鈍感になったこと。
イジメを放置してしまったこと。
イジメから助けようとしてくれた先生に共感できなかったこと。
イジメられていたことに、気づくことさえできていなかったこと。
おそらくは、私も誰かをイジメてしまっていたこと。
イジメにあったと思っている人が居なければ、イジメはないと本当に言えるのだろうか? そう言ってしまって良いのだろうか? 何か、大切なことを忘れてやしないだろうか?
†
中学校3年生の時の失敗談。
両目の近視が進んでいたこと。
球技大会で、バレーボールが顔面左目に直撃したこと。
左目は遠視と乱視を患うようになったこと。
両眼視ができなくなり、距離感が掴めなくなったこと。
矯正眼鏡をすぐに買わなかったこと。
目を大事にしなかったこと。
†
高校1年生の時の失敗談。
授業中にガムを噛んだこと。
眠気を防ぐためと言っても理解が得られなかったこと。
進学校というルールを優先し、先生を軽んじたこと。
先生から親へ伝わり、大喧嘩になったこと。
大人を信用しなくなったこと。
ついでに付け加えると、私は徐脈(心臓の鼓動が遅い体質)持ちである。自分で気づいたのは30才になってからで、健康診断でも認められた。
眠気を覚えやすい体質で、幼い時分は基本的に心拍数が高いから目立たなかった、高校生ぐらい身体が成熟してようやく症状を覚えやすくなっていたのだろう。
†
高校1年生の時の失敗談。ふたつめ。
記憶力が一気に悪くなっていたこと。
古文の語幹や活用をまともに覚えられなかったこと。
英単語もろくに覚えられなくなっていたこと。
得意な数学の公式さえ、ひとつも覚えていなかったこと。
視力悪化の放置、認知機能に支障を来していたこと。
眼鏡をようやく買ったこと。
記憶力を回復させようと考えなかったこと。
理解力だけで補おうと考えてしまったこと。
理解力だけで補えてしまったこと。
テスト順位は1位もざらで、体調を崩して13位を1回取ったこと以外は1桁をキープし続けた。高校レベルであればなんとか騙しきれたこと。
†
高校3年生の時の失敗談。
数学の成績は突き抜けていたこと。
数学のテストは別に難しくなかった、と言っておけば数学の先生が発奮するのに気づいてしまったこと。
理系クラスの平均点が30点台のテストで満点なら偏差値90を超えられること。
テスト中に必要な公式は、全て自力で思いつき直して導出していたこと。
まともに使った公式は、子供の頃に知った三平方の定理ぐらいだったこと。
日本数学コンクールで入賞したこと。
喜んでみせていたけれど、劣等感を覚えたこと。
未解決問題2題にはまるで手が出なかったこと。
解決済み問題1題に完全解答できる程度でしかなかったこと。
表彰も拍手も、晒し者にされているとしか思えなかったこと。
数学のために、こだわりを捨てたこと。
常識も人間性も評価も倫理さえも無駄だと、捨ててしまったこと。
ひとりの人間として、数学に向き合わなかったこと。
空っぽの自分が、そこにいたこと。
†
大学生の時の失敗談。
ろくに受験勉強もせずに、旧帝大のひとつに推薦で受かったこと。
自由なる大学の風に振り回されたこと。
地球科学の教授に、どうしてそんなに頭が良いのかと言われたこと。
数学科の枠に入れず、物理学科に配属されたこと。
これまでのやり方が通用しなくなったこと。
留年込みで5年かけて、物理学の単位ひとつさえ取れなかったこと。
私は物理に関して、200人中で最下位になる程度の劣等生だったこと。
通信制の大学に転学して3年で情報系を学び直した。
そちらは特に何も苦労しなかったこと。
†
大学生2年目の時の失敗談。
過敏性腸症候群を患ったこと。
視線恐怖や対人恐怖を感じるようになっていたこと。
このままじゃダメだと、TSUTAYAで接客のバイトを始めた。
†
バイトの時の失敗談。
初日に曜日を勘違いして遅刻したこと。
接客が遅いとお客さんに怒鳴られて、あとでトイレで泣いたこと。
早さこそルールであると、1週間後には最速で接客するようになったこと。
お客さんのことなんて、まるで見てなかったこと。
ひとりひとりのペースに合わせて接客できるようになるのに、3年かかったこと。
休憩部屋を共有している、同じ建物内の別店舗のバイトさんと軽いノリでLINEを交換したこと。
その人生初のLINE交換は、既読スルーを怒られて翌日には縁が切れたこと。
私は既読スルーをそもそも知らなかったこと。
初心者には入り込めない、閉鎖的なルールだと感じてしまったこと。
SNSに興味を持たなくなったこと。
社会的に死ねと言われた気分になったこと。
そうこうしているうちに通信制の大学も卒業し、フリーターとしてバイトを続けながら就職活動を続けたこと。
就職が決まってバイトを辞めてしまったこと。
その店はもう存在しないこと。
最後まで寄り添うことができなかったこと。
†
初めて就職した時の失敗談。
入社試験で歴代最高点を取ったこと。
入社後に書いた小論で好評価を得たこと。
下手に期待をさせてしまったこと。
期待と経験不足のずれを直せなかったこと。
配慮と臆病の間で、何もできなくなっていったこと。
些細な行き違いが不和を生んだこと。
結局7ヶ月で会社を叩き出されたこと。
一応自主退職という形にはなったこと。
†
今の職場に入ってからの失敗談。
入って3日目に、仕事の進捗で嘘を吐いたこと。
上司の掲げる進捗が答えるべき進捗だと、会社はそういうものと勘違いしていたこと。
翌日にはすぐ訂正されたので、嘘が習慣化しなかったことは本当に良かったと思う。
効率至上主義に走りすぎたこと。
指揮官率先と、多くを負担していたつもりだが、外国人研修生に大変な想いをさせていなかったか心配なこと。
機械の動作プログラムを改良し、その機械の生産性を90%上げたこと。
その高速で動作する機械に指先を挟まれ、開放骨折したこと。というか、千切れかける寸前までいったこと。
血を流しながら、痛みに耐えながら、無事な片手で応急処置もせずプログラムの改善を行ったこと。
高速で、しかも安全な動作プログラムのアイディアを思いついてしまったら、自分の身体なんてどうでも良くなっていたこと。
神経に問題もなく指は治り、爪の伸び方が遅いもののちゃんと生えてくることを、医者に奇跡と言われたこと。
異動で自分の仕事を引き継ぐようになってようやく、仕事と人間の関わり方について考えるようになったこと。
†
期間が長くていつだったかはっきりしない失敗談。
子供の頃から中耳炎になりやすく、耳鼻科によく通っていた。
毎回違う子と仲良く遊んでいるものだから、人と仲良くなるのが上手いと、親に思われていたらしい。
フリーターの頃、バイトの帰り道で独り、ようやくそれを思い出せたこと。
君の笑顔を見るのが好きだった。それだけのことを忘れていたこと。
晩秋の満月を見上げながら、泣いてしまったこと。
子供の頃、聴覚の認知に偏りがあったこと。
人の話を理解するのが苦手だったこと。
正確には、聞くことと理解することを同時にするのが苦手だったこと。
レコーダーのように正確に、人の話を抑揚から言い詰まったところまで完全に覚えていたこと。同じ時間をかけて頭の中で反復してようやく理解できたこと。
その理由は、他人に興味を持っていなかったからだということ。
話の流れを汲み取らず、相手の立場で考えず、状況も踏まえなかったこと。
会話を受け身で考えていて、いつも初見殺しの感覚で言葉を交わしていたら、そりゃあ難易度は狂気の沙汰だろうよ。反面、文字の理解には問題がなく、むしろ人より早く読めていたのだが。
あと、高校の時の記憶力低下を境に、丸暗記までは流石にできなくなった。まぁ今でも、細かな音を聞き分けるのは得意だと思うけれど。
小学校4年生の時の授業参観。
内容は自殺がテーマだった。教科をはっきり覚えていないが、たぶん道徳だろう。
死ぬ順番を守りなさい。親より先に死んでくれるなと教わった。
その明快なルールが、私の生きる理由だったこと。
それしか生きる理由がなかったこと。
そしてすぐ、抜け道を考えてしまったこと。
不慮の事故で殺してくれないかなと思ってしまったこと。
生きる理由を欲しながら、死ぬ言い訳を探していたこと。
破滅的な願望と自己嫌悪が、私を軋ませたこと。
恩師の言葉を、汚してしまったこと。
生きづらさの言い訳にしてしまったこと。
子供の頃から、将来の夢を抱けなかったこと。
未来に希望を抱いていなかったこと。
自分が得意なことは、パソコンと同じだった。
勝てるわけがないだろう。そう思っていた。
どうせ取って代わられる。そう思っていた。
自分に価値をカケラも見出していなかったこと。
自分の意味がどこにあるのか、分からなかったこと。
†
最後にちょっとした補足。
これは失敗談ではないが、失敗談の合間の穴埋めとして。
大学生1年目の時にサンホラを知ったこと。
カラオケで先輩達が男女デュエットで「朝と夜の物語」「雷神の系譜」を歌っていたこと。衝撃を受けたこと。
そのアーティストのアルバムは凄まじかった。
類を見ない物語性の強さ、その物語に寄り添う適確で魅力的なメロディー、歌詞カードは暗号が仕込まれていて、アルバムケースを分解すると見つかるWebアドレスに答えを入力すると隠しトラックがダウンロードできる。しかも解答がアナグラムになっていて、実は答えが2つある。隠しトラックも2つある。
まぁ、レーベル移籍でそのWebサイトの方はもう閉鎖されてしまっているが。
そんな作品であれば、どうせゴテゴテした不出来のものになるのが普通だ。しかし、その完成度は極めて高く、ひとつの作品として調和していた。むしろ集大成的なアルバムだった。様々な立場に置かれた人たちが、必死に生きた群像劇。
昏さと輝きに満ちた、人間賛歌に憧れた。
足し算に美学があるということを、初めて知った。
足し算の意味も知らずに、小手先で数学をしていた自分を恥じた。
ようやく、空っぽのままの自分では世界に向き合えないことに気づいた。
小説を書きたいと思うようになったのは、彼の作品を聴いたからだった。
これも大学1年目の時。ガラケーでWeb小説を読んだこと。
タイトルはソードアート・オンライン。まだ作者は電撃文庫デビューをしておらず、Web掲載されていた頃のものだ。アリシゼーション編まで夢中で読んだ。
MMORPGに興味を持った。パソコンは持っていたので、やってみた。
今から思えば、2000年代のMMORPG全盛期である。
もちろんプレイしたのは有名どころのラグナロクオンライン、などではなく。まぁ本当にひねくれていると思うが、『政治・経済が学べるMMORPG』が売り文句の、君主Onlineというゲームだった。当時まだ10代だというのに渋い趣味である。
これはとても私の性に合った。
計算でできている世界だ。ボイスチャットの無い時代、他人との会話は全て文字で行われる仮想世界。私にとって、障碍が何もないのだ。
そして、奇妙に思えるかもしれないが、実社会を学ぶのにも適度な課題だった。現実社会は、あまりに巨大すぎる。同時接続数1000人規模で、それぞれのプレーヤーが自由に狩りをしたり製造したり、集まってイベントをしたりという流動的な様子をイメージして欲しい。そして、人々が入り乱れ、立場を変え、争ったり協力したりするんだ。
学校も規模は似ているが、クラスやクラブ、部活動で分かれてしまってグループを違えた交流がない。小組織間の調整を先生が担ってしまう。集団生活は学べるが、社会生活は学べない仕組みになっている。学校で社会生活を学べる人は、そもそもある程度の社交性を有する人だけだ。
現実社会は日本だけでも1億人規模で、世界だと何十億人という単位だ。文化、宗教、人種、歴史、思想諸々、大きすぎて全体像が掴めない。ルールも分からないのに、放り出されても正直困る。訳の分からない理不尽が目の前に迫ってきて、実践と経験と気合いと根性でなんとか乗り越えろ? 失敗しようものならSNSで吊し上げ? どんなクソゲーだよそれは。それを上手く初見でクリアできる人間は、よほど運の良い人間だけだ。
だから、なんとか理解できる、ほどほどの規模で、社会の模擬体験がしたかった。ルールに共感する私にとって、この遊びは手頃だったのだ。
面白かったのは、合理的なだけではダメだと知れたことだ。
狩り収益の期待値計算や、武器・防具の最適化、資本規模の集中を、リスクの分散を、効率を、もっと効率を! 追求して追求して、それでも一線級には届かないのである。
必要なのは幸運だろうか? アップデートの傾向から今後の仕様変更を予想し、先んじて有用な資源を押さえておく? 全財産を投じた大博打で勝てば勝者になれる?
それが、全く違ったんだ。
いわゆる、名物プレーヤーの存在である。
その人の周りに人が集まってくる。
高効率な狩り場の奪い合いに参加しなくとも、必要な素材が集まってくる。交換、融通、ちょっとした貸し借り。当たり前にトラブルも起こるのだが、そいつがちょっと謝ればなんか不思議と解決しちゃうのである。
そういう人と競争すると、持久戦で必ず負ける。小手先の論理や奇策の類ではまるで揺らがない精神性。賢しらなやり方なんて、名物プレーヤー達を前に通用しなかったんだ。
ゲームタイトル通り、君主という最高権力者(実際は割と名誉職)を決める選挙システムがあり、立候補したんですが、普通に負けてましたね。
新しい仕組みを提案する構想力はあったものの、人の心を動かすことはできませんでした。粘り強さというか、厚顔無恥さ加減で立候補し続けるうち、たまたま名物級の人が他に出ていなくて初当選できたこと。就任式で機材トラブル起こしてログインできなくなり、パソコン画面も私の顔も真っ青になったこと。ここは明らかに失敗談だな……。
「結局のところ、いちばん面白いのは人間なんだよ」
そんな世界で、ある人からこんな言葉を貰いました。
今でもそれは響いている。私の心に、響いている。
あとがきとかでよく出てくる友人さんですね。
現在でもペンフレンド的な関係を続けています。
まぁ、そんなこんなでサービスは16年近く続き、2022年の3月9日にサービス終了しました。結構な時間を消費した割に、今でも後悔はないですね。不思議なものです。
なんだかんだで、貴重な経験したからですかね? 社会人になって、世の中や政府の在り方について知っていけば、なんで政府は赤字国債刷ってまで金融緩和するの? 馬鹿なの? って考えたりすると思うんですよ。
まさか、MMORPGで金融緩和の判断をする立場を体験できるとは思わなかった。
不況のまま全員が不幸になるか、金を刷って一部だけでも救うかの2択。どっちの最悪がマシかという政治的判断。どうやればそんな状況に追い詰められずに済むのか。マイナンバーカード普及に政府がこだわる理由とか、およそ共感できてしまうのは、こんな経験をしたからだ。
あとは……数学にこだわった理由とかも最後に触れておきましょうか。
中学1年生の時、確か少し肌寒い11月だったかな。
私は独り、中庭を歩いていて、背後から強い風がざっと吹いてきて。
校舎のL字型の角の部分に風が集まり、枯れ葉がふわりと舞い上がる光景を見た。
そのときになんか直感しちゃったんですよ。
世界の全てが、XやYやZ、グラフで表現できるような気がしちゃったんです。
世界構造が透けて見えてしまったような、錯覚を抱いた。
ちょっと早い中二病だったんじゃないでしょうか?
数学をやるために、数学をやる理由さえ捨てるような愚か者が、それでも数学にこだわったのは、そういう理由です。そんな檻に、囚われたんです。
†
と言うわけで、失敗談を立て続けにお送りしました。
ずいぶん長かったですね。短編の自己新をまた更新するのかな?
ちゃんと読み飛ばしてくれましたか? スルー推奨ですよ?
さて、様々な失敗を踏まえて、これ以上、失敗を重ねないために何ができるだろう?
ここからは、こんな感じで展開していきます。
ひとつ。世界、そして人間社会はどんなルールで動いているのか?
ふたつ。そのルールの中で、失敗しないためには何を考えなければならないか?
みっつ。実践編ですね。失敗しないための考え方を実際にやってみます。
†
まずは、世界の仕組みについて。
――世界は構造でできている。
以上。たったこれだけです。
まぁこれだけだと何が何やらだと思いますので、例を示しますね。
宇宙という大きな構造があります。
その中に、地球という構造があります。
その中に、日本とか、アメリカとか、中国みたいな構造があります。
その中に、私だとか、君のような構造があります。
それとは別に、宗教や人種、思想のような構造が重なり合ったりもしています。
そして、大事なことは、私や君も構造だということ。
君の中にも心とか、身体とか、細胞とか、カルシウムとかがあって、それらも全部構造です。
構造には外側とか内側とか、重なっているとか重なっていないとか、そういう関係性はありますが、優劣や上位・下位という概念はありません。
あくまでも、ただの構造です。
たとえば、君は宇宙や地球、国や地域、会社や学校、そういった外側の構造の奴隷ではありません。なぜなら、君自身も同じく構造であり、構造同士の関係性を変えようとすることができるからです。
あるいは、君は物を作ることができる。言葉を投げかけたり、文字を並べることもできる。それらも全て構造です。君は新しい構造を自分の中に作ることもできれば、自分の外に解き放つことさえできます。
そして、世界を構造だと考えるメリットはなんだろうか?
まず、自分を含めて、客観的に全体を眺められるようになること。
そして、構造を知っていくことで、それが長く続きそうな構造なのか、今にも壊れそうな頼りない構造なのかの判断ができるようになること。
さらに、似た構造がないか前例を知っていれば、この先その構造がどう変化していくのか予想できること。
ちょっとやってみましょうか。
昨今、化学調味料の是非が話題に上がっている。
これからどうなっていくのか、今後の予想をしてみよう。
どうやら、ラーメンには化学調味料が多く使われているらしい。
化学調味料というのは、非必須アミノ酸のひとつ、グルタミン酸のことだ。
自然界にもありふれていて、特に人体に害があるとは考えられない。
なぜ化学調味料を毛嫌いするんだ?
ここで、構造を考えてみる。
ラーメン業界という大きな構造がある。
その中に、ラーメン屋という構造がたくさんある。
ラーメン好きのお客さんという構造がさらにたくさんある。
ラーメン業界という構造の中で、ラーメン屋という構造が、お客さんを奪い合っている。
ここに、化学調味料という、お手軽にうま味を付け加える調味料が登場する。これを使えば、お客さんが喜んでやってくる。
ラーメン屋は競い合うように化学調味料を使う。他の店よりたくさん使うことができれば、お客さんが喜んでくれる。油や塩をどんどん入れれば、化学調味料をもっと入れることができる! これでお客さんがもっと喜んでくれるよ!
ここで、おや? と気づく。
これって、チキンレースのような構造ではないか?
あるいは、バブルの構造と似ていないか?
今後、それらと似た展開になるのでは?
つまりこうだ。
何らかの事故が起きて、注目を浴び世間から叩かれて、政府の規制が入って終わる。
何らかの事故とはなんだろうか? 味が濃くなりすぎることで味覚障害が出たとか、どこかの学者さんがラーメンと寿命の関係について論文を発表したとか、まぁそんなところだろう。繊細な味わいを! 健康的な和食は日本が誇るユネスコ文化無形遺産だぞ! とか世間が騒ぎ出す。で、最終的に政府が化学調味料規制法みたいな法律を作って、騒ぎが落ち着く。ラーメンは急に味が薄くなり、客離れが起きてラーメン屋は潰れまくる。大衆はそれを見て、当然だろうと鼻で笑う。同情なんてカケラもない。あんなに美味しいラーメンだと言っていたのに! そりゃ、ラーメン屋も頑張って立て直そうなんて考えない。そして、ラーメン業界は衰退する。
という展開が予想できる。
ついでに言えば、自由競争という構造の中ではこういう流れで政府の規制がいっぱいできて、どんどん生きづらくなっていきます。ありふれた話ですね。ラーメンぐらい好きに食べたいのに。
欠点は、大まかな流れは予想がつくけれど、いつこうなるかは分からないということ。明日かもしれないし、百年後かもしれません。
それでも、実際に味わってみれば、大体分かると思いますけどね。
これを事前に防ぐとなれば、ラーメン業界が自主規制をすることでしょうか。あるいは、皆がラーメンをよく味わって食べるというのも良いと思います。
そういうことを、ラーメン業界という構造の中だけで実現できるか、が事の明暗を分けるのではないでしょうか。政府という外の構造に〆られたくないなら、ね。
――という感じで、ラーメン業界の未来に想いを馳せることができる訳です。
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ひょっとしたら、「構造」という考え方って便利なんじゃない?
いやいや、それでもだよ?
人間社会という構造は大きすぎない? 複雑すぎるんじゃない?
そう思うだろうか?
実は、かなり単純で大雑把にできています。
人間社会という構造が複雑に思えるのは、人間社会という構造を見ていないから。
見ているのは、80億以上ある人間の構造や、数え切れない国家、宗教、人種、思想などなどの構造を逐一大量に見てしまっているから。そんなことをしてしまっていたら、自分の手番が来る前に人生終了。それでおしまい、おだぶつだ。
人間社会の構造は、大きいものがひとつあるだけです。
しかも、外側の構造であるほど、ルールは少なくなっていきます。
私や君が抱えている心の方がよっぽど複雑です。ローカルルールやマイルールが非常に多いからです。それに比べたら、人間社会の構造なんてどうってことありません。
押さえるべきは5つの次元。
人間、存在、評価、時間、空間。
これだけ。この掛け合わせで人間社会はできています。
この5つをきちんと押さえておけば、失敗は避けられます。
逆にどれか1つでも無視してしまえば、それが弱みとなり、いずれ失敗します。
なんだったら、採点してみてください。5つ、各100点満点でざっくりと。
ただし、足し算ではなく、掛け算で得点を出すこと。
最高なら100×100×100×100×100=100億点満点。景気いいぜぇ。
1個でも0点が混じると、掛け算の結果はもちろんゼロ。人間社会にとっては軽薄で頼りないものになるでしょう。たまにバズることはあると思いますが、長続きできないでしょうね。すぐに頭打ち、限界が来るのが早い。弱みを抱えてるのがバレちゃうからです。
先のラーメン屋の例で言えば、モノ=化学調味料、カネ=売上、はきちんと押さえていました。
しかし、それをヒトがどう思うか? 時間が経つとどう移り変わるか? 空間の広がり、ラーメン業界全体のことを考えているか? そういった点が無視されているので、長続きはしません。
まぁ、所詮予測ですけどね。これを読んだラーメン好きの誰かが、今後のことやラーメン業界のこと、皆のことを想って本気で行動を起こしたら、こんな予測は外れるはずです。欠けたところが無くなりますから。そうなればラーメンは永遠です。やったぜ。
まとめとして、5つの次元についてそれぞれ振り返ります。
人間=心や行動を見ているか? 特定の思想だけではなく、多様性を踏まえているか?
存在=物質、財やサービス。有形無形は問わない。エネルギーや情報も含まれる。
評価=主に金銭。ただし最近では、SNSのフォロワー数など、お金以外でも評価を数値化できるようになってきた。金銭でもフォロワー数でも、根底には評価がある。
時間=それまでの経緯は? このままなら今後どうなるか? 繰り返しても問題ないか?
空間=中身を見ているか? 周りを見ているか? 皆でやっても問題ないか?
後は名付けでしょうか。
この考え方を多重構造主義と呼ぶことにします。各種思想、多重構造主義それ自体もメタれるメタイデオロギーといった感じでしょうか。ポスト構造主義というには実践寄りに思えますが、はてさて。
後は……空間的に「皆でやっても問題ないか?」は経済学で合成の誤謬と呼ばれるもの。
時間的に「繰り返しても問題ないか?」は特に名称が見つからないので、反復の誤謬と呼ぶことにしましょうか。
†
さて、最後に「4番目の正義」という話をして締めたいと思う。
これまでの考え方を踏まえておけば、大抵の失敗はもう気にならない。
小さな失敗? いや、これはさまざまな試行錯誤、未来の成功のための布石だよ。空間を理解しているよ。
大きな失敗? 教訓として受け止めるよ。長い目でみればきちっと取り戻せるさ。時間で解決することが分かってる。
学びのない失敗? そんなものはない。5つの次元を考えれば、見落としにはちゃんと気づけるよ。
人間社会の5つの次元を押さえることで、しっかりと考えられる。
慣れてくれば、未然に防ぐことだってできるだろう。
それで、何の問題があるんだろう?
いや、まだ残っている。
考えられない失敗。
今、私や君がしている何気ない無意識の行動が、忘れた頃になって責め立てられる。
皆やってる、いつもやってる。私もやってる。君もやってる。
それだけの事を、後出しじゃんけんで、誰かに責め立てられる。
この理不尽なる失敗に対して、私たちは何ができるだろうか。
多重構造主義の観点から、考えてみよう。
†
まず、自由競争、という構造について考えよう。
ありふれていて、なんか知らんが根強い人気があり、なんか行き詰まったときにこうすりゃ上手くいくんじゃないかなぁと自暴自棄にも似た無根拠な期待を集める構造だ。
そして大抵の場合、ろくなことにならない。
受験競争を考えてみよう。成績順に並べられ、自由に競争させられる。考えたことはないだろうか? いつも100点を取ってるアイツに勉強の仕方を聞いても大丈夫だろうか? 教えることで理解が深まるとか言っても、100点を超えられるわけではない。自分の偏差値をわざわざ下げるようなことを教えるだろうか? むしろ騙して間違った勉強法を話したりするのでは?
価格競争もありふれているね。大量生産や生産方法の工夫で、より安く商品を提供する。でもその裏側では、人件費の削り合いで人間を蔑ろにし、原材料をケチったため質の落ちた製品は使い捨てられて無駄なゴミが増え、値段が下がり世間の評価もだだ下がり、検品時間を惜しむほどの時間短縮、労働環境や保管場所は最悪な空間となる。5つの次元を持ち出すまでもなく持続可能性はない。
差別化戦略ならどうか? 付加価値を上げるなら、良いのでは?
悪くないけれど、そもそもそれは自由競争ではない。
特許や実用新案権、意匠権、商標権、著作権、回路配置権、種苗法に地理表示法、不正競争防止法や会社法によってガチガチに守られているからこそ成り立つ。
そうでなければ、パクリ、海賊版、産業スパイ諸々で結局陳腐化し、価格競争の波に飲み込まれる。
じゃあ、社会主義ならどうだろうか?
これもひどいね。ひとつの政党内で政治的な自由競争が始まる。密告、足の引っ張り合い、虚偽申告が横行する。なんなら暗闘や暗殺、粛正まであり得る。恐らくあらゆる政治システムの中で、もっとも腐敗しやすいものになるだろう。まぁ、貴族制だろうが絶対王政だろうが自由民主主義だろうが、多少マシといった程度の話だけれど。
私たちはどうやら、自由競争するとろくなことをしない性質を持っているようだ。
だけれど、ひとりひとりをきちんと見てみよう。
世の中を背負って立つ人間は、理想に燃え、現実を見据え、今を必死に生きている。言うほど悪人ばっかりでもないだろう? それでは何故、自由競争は上手くいかないのか?
それは、ずるの上手さを競っているからである。
自由競争の世界で生き残りやすいものはなんだろうか?
違法薬物をはじめとした、依存性・中毒性のあるもの?
銃火器などの戦争の道具って、売れれば売れるほど、よく売れるようになるよね?
詐欺的な広告や営業、相手の立場や無知につけこんだ不公正な契約はどうか?
マッチポンプ、ネズミ講やマルチ商法。
リスクの高い金融商品がさも安全そうに市場にあふれる。
そもそも、法律で規制されるまでに稼げるだけ稼いで勝ち逃げしようという考え方が、卑劣極まりないという自覚があるか?
自分は関係ない、偉い人が勝手にやりました。本当に知らなかった? 心当たりもなかったの? それとも考えようともせず他人任せ? それもチートじゃないの?
――卑怯か死か。君はどちらを選ぶんだい?
私たちは、このくだらない問題ごと、蹴飛ばさなければならない。
前提を疑わなくてはならない。
まず、自由競争とは「適者生存」という構造になっている。
特に、ずるに適応することが要求されている。
それに抗うための構造とはなんだろうか?
野生動物は持っておらず、人間だけが持っている構造とはなんだろうか?
人間性だけが持つ、卑怯に抗う道具とは?
言わずと知れた、それこそが「正義」である。
しかし、正義と言ってもだ。
この世に悪なんてない。100人居れば100の正義があるだけだ。
そんな言い回しをどこかで聞いたことがあるんじゃないか?
でも、アメリカのとある名物教授の本や、日本でもビジネス書や自己啓発本の類を見れば載ってるような話では、その正義は3パターンに大別できるらしい。
ひとつ。公平の正義。
ふたつ。名誉の正義。
みっつ。自由の正義。
以上だ。
それぞれ、チャンスは平等ですよ、不当に馬鹿にしちゃダメですよ、理由もなく束縛したりしませんよ、という正義である。
ざっくりとした説明だし、本によって言い回しは異なる。ただ、大体3パターンで語られるようだ。なぜ? 本当に「4番目の正義」は存在しないのだろうか?
正義の構造を考えてみよう。それぞれの正義を言い換えてみる。
公平の正義=全体を尊重している。
名誉の正義=部分を尊重している。
自由の正義=個人を尊重している。
一般に語られる正義は、集合論と同じ構造をしている。
全集合や、部分集合、要素からなる数学と同じ。詳しくは「集合論」でググればOK。
つまり、正義はこの3パターンで全て語り尽くすことができる。尊重の集合論だ。
よし、それではまた、前提を疑ってみよう。
そもそも集合論に欠陥はないのだろうか? 本当に見落としはないのだろうか?
ここで多重構造主義、人間社会の5つの次元を思い返そう。
人間、存在、評価、時間、空間。
人間を大事にしている。評価を大切にしている。全体から個人まで、空間の広がりを理解している。
……あれ? 存在と時間をまるっきり無視していないか?
ということは、正義っていうのは薄っぺらな絵空事に過ぎないってことだ。
ちょっと待ってくれ、これは困る。正義は、もっと強固で、頼り甲斐がなければ。
こんな頼りない武器で、どうやって世にあふれるずるに抗えば良いんだ?
つまり、存在と時間を尊重する「4番目の正義」が必要というわけだ。
それはどんな正義だろう?
これまで語られた正義は、どこまで言っても綺麗事だ。それは贅沢品だ。
そして、その贅沢品を手に入れたいと言うのであれば、余裕が必要だ。
貧しいままではいけない。心に、生活に、人生に、余裕がどうしても必要だ。
そのためには、モノが必要だ。
そして、正義はピン留めされた標本であってならない。変化が感じられる柔軟な正義が必要だ。時間を忘れることは許されない。
モノを生み出し、かつダイナミックな行為とはなんだろう?
それを踏まえて「4番目の正義」をこう名付けよう。
『協働の正義』
人間は、協力して働くことによって、ここまで発展してきた。
独りでは、何もできなかった。
私と君で、素晴らしい世界を作れたら良い。
いつまでも一緒に笑っていられたら、それで良い。
いつか喧嘩する日が来ても、許し合って、また手を取り合いたい。
こんな確かな正義を胸に、お互い尊重し合って、学び合えたなら、最高の明日がやってくると思うんだ。
ずるなんて、もう必要ない。
だって、もったいないよ。
君はすでに、世界にひとつだけのずるを持っているじゃないか。
君が君であること。
誰にも真似できない、とっておき。
本当にずるいよ。私がどんなに手を伸ばしても、君はこの手を振り払える。
私がどんなに言葉を書き連ねても、君はいつだって、そっと閉じることができるなんて。
そんな唯一無二の君を傷つける、ありふれたずるなんて要らない。
なあんて、ね。
これが私の基本思想。構造の奴隷は願い下げだ。
失敗だらけで生きてきた私の、もう失敗しない方法論。
君の参考になれば幸いです。
前回短編、いつもの友人に「なんで、そんなに理路整然とした文章を書けるんですかw」とか突っ込まれて、気づいたら自己分析短編を実質3日で書き上げていた……だと……。友人の奴隷のように生きてきた……。
こ、今度こそ長編を再開……(がくっ
あとがき下のところから、評価を頂けると作者のテンションが爆上がります。よろしくね!^^