5話:白い手のライオン
できない。
だって魔法なんか使ったことなんてないし。わけわかんないし。
自分の怪我も私が知らない間に起こったことなのに。
とんだ無茶ぶりだ。
溜まり続ける血は床に広がり、私の靴裏を汚した。
じわじわと私を囲ってくる血が気持ち悪い。
一歩下がろうとした私の腕をライオンは掴んだ。
「とりあえず試してみなきゃ駄目だろう」
「むりです」
「諦めが良すぎるな」
「やり方もわからないし」
「ほう、やり方か」
突然腕を下に引っ張られ、バランスを崩して膝をついた。
生ぬるい血がスカートにまで付いてしまった。
男を挟み込むように私と向かい合って片膝をついている彼のズボンも赤く染まっている。
「私はただの剣士だからね。見様見真似なんだけれど」
「ぐっ、う……」
「ひっ!!」
掴んでいた私の手を男の肩に押しつけた。
傷口を強く押された痛みで、男はうめき声を漏らす。
手のひらが裂けた肉の感触を伝える。
押さえていてもそこから溢れてくる血は止まる気配がない。
酷く不快で、手を退けたいのに上から押さえつける白い手がそれを許さない。
「魔法使いはこうして触りながら怪我を治すんだ」
「は、離して……!」
依然として穏やかな態度のまま、虫でも観察するかのように傷口を眺めている。
この男が怖くて仕方なかった。
こいつだけじゃない。
仲間が切られたのに黙って見ているこの部屋にいる奴ら全員気味が悪い。
「意識を集中させて」
「離してってば!」
「傷が塞がるイメージをして」
そんなのわかるか!
皮膚がくっつくところなんて生まれてこの方見たことないのに!!
そうは思いながらも、言われた通りに自分の貧困な脳みそで皮膚が修復される映像を描いてみた。
けれど何も起こらない。
鉄と脂の混じった匂いで鼻が曲がりそうだし吐き気もする。
ただこの時間が早く過ぎて欲しかった。
治れ、治れよ。
早く塞がって欲しい、血が止まって欲しい。
願ってはみるものの、傷が治ることはない。
当たり前だ。
私は魔法使いじゃない。
「ほらどうしたんだ」
「……」
「君がやらない限り彼の痛みは続く」
「…………」
「早くしないと死んでしまうよ」
「うるさい!無理なもんは無理!!魔法なんか使えないって何回言わすんだよ!!」
我慢の限界だった。
声を荒げた私を見て、ライオンは口を半開きにさせた。
どういう表情なんだ。動物の顔だから何を考えてるか上手く読み取れない。
「なんだ、本当に使えないのか」
ライオンはぱっと私の手を離した。
後ろに重心をかけていたせいで、支えを失った私はそのまま尻餅をついた。
「メル、治療を」
「はい」
「ダリアン、部屋を片付けなさい」
「はい」
メルと呼ばれた女性は、さっきまで私が手を置いていた男の裂けた皮膚に手を沿わせた。
呪文を唱えると怪我は徐々に治癒されていき、男の呼吸も落ち着いた。
鳥の頭をしたダリアンもメルとは違う呪文を唱えた。
床一面に広がった血は跡形も無く消えていく。
私の服と体についた血も綺麗さっぱり無くなっていた。
ライオンは立ち上がって、呆けている私を見下ろした。
「治癒部隊に入れられるかと思ったんだけれど、残念だ」
「団長……」
「そう不安そうな顔をするなライニール、私は身寄りの無い子供を放り出したりしないよ」
「は、失礼しました」
「しかし戦えないともなると、補給部隊しかないな」
ライオンはまだぐったりと横たわる角の男を跨いで私の前に立つと、手を差し出した。
手を掴むのをためらった私は自分で立ち上がろうとしたが、上手く足が動かない。
そのときやっと私は自分が腰を抜かしていることに気が付いた。
途端に情けなくなって顔を下げると、上から笑い声が降ってくる。
「まいったな、ここまで怯えるとは思ってなかったよ。
子供の扱いは難しいね」
ライオンは再びしゃがんで、私と目線を合わせた。
「意地悪をしてすまなかった、アオ。
私はルーカス。この傭兵ギルドの団長をしている」
「……魔法は使えないって、始めから言ってました」
「念のために確認したかったんだよ」
涙目で非難する私を軽くあしらうように、団長はごめんね、と私の頭を撫でた。
その笑みを浮かべる口からは相変わらず牙が覗いている。
安心させようとしているつもりだろうが、明らかに逆効果だ。
「一人で立てるかな?手伝おうか」
「け、結構です」
「随分嫌われてしまったな」
ついさっき仲間を容赦なく切りつけておきながら、今はしょげたように肩をすくめてみせる。
こいつ二重人格じゃなかろうか。
こんな人の手を易々と借りるほど、私は警戒心が皆無な訳じゃない。
ドアの近くで棒立ちしているライニールと目が合った。
しまったと言わんばかりに目を逸らそうとする薄情者を睨んだ。
「起こして下さい」
自分に向けられた言葉だと分かっているくせに、素知らぬ顔をしてやり過ごそうとする様子に苛立ちが募る。
「ライ」
名前を呼んだのは私なのに、何故か団長に伺うような視線を投げた。
団長が頷いて立ち上がると、ライニールはやっと足を動かした。
こいつら何かするのにいちいちライオンの許可がいるのかよ!
私が怒っているのを察しているのか、ライニールは目を合わせようとしない。
大人しく抱えられる私を見て、団長は苦笑した。
「お前は懐かれてるね」
「いえ、そんなことは……」
「謙遜はしなくてもいいよ」
返答に困っているのかライニールは目を泳がせた。
団長はその様子を面白がっているようだ。
彼はまた私の頭に手を乗せて優しく囁いた。
「君は補給部隊に入って貰う。詳しいことは同じ部隊の子達に聞いてくれ。
それと、」
彼の青い目が歪む。
「足手纏いになったら捨てるし、裏切ったら殺す」
びくりと身体が震えた。
治まっていた恐怖心がまた膨れ上がって、心臓がバクバクと音を立てる。
頭に触れられている手から逃れたくてライニールの方に身をよじった。
それに気づいているのかいないのか、団長は笑みを深める。
「歓迎するよ、アオ。よろしくね」
最後にもう一度私の頭を撫でてから、手は離れていった。
倒れていた角の男はいつの間に立ち上がったのか、団長の後ろに控えている。
行って良いよという団長の言葉に、ライニールはお辞儀をして部屋をあとにする。
扉が閉まるときには、もう彼らは私を見てはいなかった。
この部屋に入ってきたときと同じようにまた何かを話し始めた。
「ライ」
部屋を出たあと、気まずそうな顔をしながら、未だに私と目を合わせないライニールを責めるような声で呼んだ。
「こっちを見て下さい」
返事をせずに黙って廊下を歩く。
私が呼んでいるのに、どうして聞こえないふりをするんだろう。
今日会ったときからずっと文句は言いながらも優しかったのに。
無視をされたショックなのか、さっきまでの怖さが今出てきたからなのか。
両目から涙が溢れてきて視界がぼやける。
「ライ」
「ライ、ニール、……ライニール!」
私の声がおかしいことに気がついて、少しこちらを見たあと、ぎょっとしたように足を止めた。
「な、んで」
何で泣くんだ、と言いたかったのだろうが、動揺したライニールの口からは最後までは言葉は出てこなかった。
泣いている子供の相手をするのは初めてのようだった。
私を抱えていない方の腕をおろおろと彷徨わせている。
「おい……」
「どうして、助けてくれないんですか……」
「なにが……」
「私が、魔法使えないって、知ってるくせに」
「それは」
「何も言ってくれないし」
「……」
「む、無視するし」
しゃくり上げながら、本格的に号泣し始めた私にどうすれば良いか分からないみたいだった。
自分でもどうして泣いているのか分からなかった。
けれど多分怖かったのだ。
殺すと言われて、それを望んでいるはずなのに、恐怖で嫌だと思ってしまった。
殺されるのが怖くて泣いているのが悔しかった。
こんな弱い自分は認めたくなかった。
だから八つ当たりのようにライニールを責めていた。
「……悪かった」
戸惑うように大きな手が私の涙を拭ってくれた。
驚いて顔を上げると、ばつが悪そうに眉を寄せるライニールの顔があった。
「もう無視しないって約束してください……」
謝られるとは思っていなくて、どう反応すればいいか迷って、また文句のようなことを言ってしまった。
けれどライニールは分かったとただ頷いた。
それを見て、今ならどんなお願いも聞いてくれるような気がした。
「ライニールは……」
「何だ」
「ライニールだけは、私に優しくしてください」
なんだそれは、と自分でも思った。
ライニールも一瞬そんな顔をしたが、何か言うと私がまた泣き出すと思ったのだろう。
分かったと頷いてくれた。
それが嬉しくて、涙も止まった。
もう恐怖も感じなくなっていた。
「ふん、なら許してあげます」
「急に偉そうにしやがって……」
あの団長は嫌いだし、野蛮なこのギルドも嫌いだけど、私が死ぬまでの間はせいぜい快適な寝床として扱ってやる。
ライニールの服で涙の跡を拭きながら、ここで暮らす覚悟を決めたのだった。