チャンガナウの森
「旦那、ここだよ」
ガイドの青年は遥か向こうでそういった。眩しい微笑み。僕は大量の汗を垂らしながらその後ろを無言で進む。
赤道直下の国。その中のチャンガナウという森林に僕はいる。
ここのとある部族から行商の依頼が来たのだ。正直暑いところは本心では勘弁である。
しかし森の中へ足を踏み入れるとそんな考えは吹き飛んでいく。
見たこともない南方の木々。遥か頭上でけたたましく鳴く猿らしき影。どんな図鑑にも載っていなかった極彩色の鳥達、エメラルド甲虫、あるいは絹のような羽を持つ蛾。
興味をかき立てられる異邦の森林に、僕は瞬く間に心掴まれた。うだる熱気もどこかに吹き飛ぶ。
「旦那、ここは危ないヨ。はやく行く」
現地で雇ったガイド、アベナウが僕を急かす。そろそろ夕方だ。危険な夜行性肉食獣が出てくるかもしれない。
「わかったよ。僕も危険は勘弁だからね」
「そうね、ボク、婚約者いるのに、こんなところで死ねないヨ」
「また婚約者か。そればかりだな君は」
「かわいい娘ヨ。だからボク頑張れるね」
苦笑と共にガイドのアベナウの後を追う。
アベナウは恋人の治療費のために金が必要だからと自らをガイドとして売り込んできた。
そんな風に嘘八百を並べて同情を買い仕事を得ようとするガイドは珍しくはない。僕としては言葉が通じて詐欺を働かず仕事を真面目にやるならそんな嘘にいちいち細かい追求をするつもりもない。慣れてくればむしろ嘘を楽しむ余裕さえでてくる。
依頼人の村が見えてきた。
この地方特有の高床式の簡素な木造の小屋で、依頼人は待っていた。
小屋といってもなかなかに大きく、村の住人がほぼ全員中にいた。
僕の持ってきた商品を嬉しそうに検分しながら、村長は今夜行われる至春の祭りに参加しないかと言ってきた。
こうして祭りに誘われるということは関係性も深くなるチャンスである。関係性が深くなればやりとりできる商品も増える。
なにより僕はこういう知らぬ土地の風習を知ることが好きだ。二つ返事で了承した。
「旦那、ここほんとに泊まるの?」
泊まり支度をする僕に、アベナウが心配そうに質問する。
「ここの人たちは穏やかな部族だよ。お前も帰り道の案内をしてもらうから泊まってもらうぞ。その分ガイドの上乗せはするよ」
「それはいいけど、なんだか……」
「ここの雰囲気が苦手なのか? 大丈夫だよ何度か泊まった知り合いもいたが、なにもなかった。……わかったわかった。報酬を少し上げてあげよう、それでいいだろ?」
不安げな青年を上乗せした金で押し切りながら話を進める。正直そんな知り合いはいない、つまり真っ赤な嘘だが問題ないだろう。
いたって平和な辺境の人々だ。周りに敵対する部族もなく武器だってもっていない。
そうだ、なにを恐れる理由があるのか。
恐れる理由などあるものか。
△ △ △
──まいったなこれは。
円の形に座り宴会が始まると、酒と料理──ようは焼いた川魚と蒸し焼きにした豚肉と果実類、芋などを発酵させたどぶろくもどき──が運ばれてきた。
和やかな宴会が終わると、今度は違うものが運ばれてくる。
葉を巻いて作られた長いタバコのようなもの。
小屋に入ったときからぷんと匂う独特の臭気──都市のスラムや娼婦小屋で嗅いだことのある──でなんとなくは察していたが、おそらく幻覚剤の類いであろう。そういうところで嗅いだ、あの腐ったような甘ったるい匂いがしたから。
たしかこの辺りにそういう幻覚成分のある植物は栽培はされていなかったしそんな文化もなかったはずだが……おそらく都市部からの商人か旅人が面白半分に彼らに伝えたのだろう。まったく、余計な遊びを教えるな。
「これは……街の商人が教えたものですか?」
「いいえ、これは私たちが昔から使っているある植物の熟成させ乾燥させたものですよ」
「はぁ、それは知らなかったですね」
聞くところによると、昔からあるものらしい。お祭りや祝いの場のみで吸われるという。
「それは貴重なものをありがとう」
笑顔で返す。どちらにしろ喫わないほうが良さそうだ。軽く口に含み肺にはいれないようにする。
「アベナウ、やめとけよ。吸う演技だけしとけ」
青年にも小声で注意をしておく。
「分かってるよ、旦那」
煙が充満し、徐々に村民の様子が変わる。ソワソワと体を動かし、うまく座っていられなさそうだ。
──効いてきてるな。
数回の回し喫み。村民の様子がまた一段変わる。動きが止まり、頭をかかえこみなにかぶつぶつと呟き始める。
「星の光、太陽、森の精霊が我らに語る」
突如、けたたましく太鼓の音がなった。不規則な木の笛が室内に鳴り響く。いつの間にか円の中心に立った霊媒師が、朗々と語りを始める。
部族の起こり、星の光に導かれた英雄、人の願いを叶えるという森の精霊。彼らの民族としてのアイデンティティたる神話。
あるものは泣き、あるものは歓喜の叫びを上げる。小屋の中には熱狂が充満していた。
あきらかに薬の影響によるものだ。薬物による興奮からシャーマンの語りに没入させトランス状態になる。こういう擬似的な奇跡体験を共有する文化なのだろう。
僕としては同伴はお断りしたいが。
やがて、1人の中年男性の村民がシャーマンに付き添われ円の中に出た。
「彼の娘が先日死んだ。若くして病死した。だが悲しむことはない。命は流転する」
シャーマンのかかかげた極彩色の羽が飾られた杖。部族の守り神の化身とされる鳥の羽だ。天井を指しながら、彼は命の循環を物語る。
僕らの知る宗教とは微妙に違う、命というものが精霊によって森の中で流動し続けているという内容。
「優しき精霊は悲しみを持つ人を憐れむ。そして精霊は人のこうありたいという願いを叶えるのだ。水泳ぐ獣になりたいと思うものを水泳ぐ獣に。牙を持つ獣になりたいと願うものを牙を持つ獣に」
そして娘はきっと美しい鳥になったろうとシャーマンは言い、父親は泣き崩れながら娘が第二の生を謳歌していることを願っていた。
これがこの部族のシャーマンの役割の1つなのだろう。文化祝祭の主導者のほかに村人のメンテルケアラーの面も持つ。原始的に見えるが彼らにとって合理的な側面が確かにあるのだ。
「……アベナウ、大丈夫か?」
「あー、大丈夫、大丈夫よ、旦那」
アベナウの目つきがおかしい。返事もぼおっとしたようなものに変わった。彼は痒いのかぼりぼりと、首筋をかいている。
「体調が悪いなら小屋の外に行くんだ。無理をするな」
「大丈夫、大丈夫よ旦那。すごく楽なのすごくすごく楽なの」
数回目の回し喫みが来た。アベナウは明らかに肺に煙を入れて深々と吸っている。
「アベナウ」
ぼりぼりと首筋をかく。やがて指の隙間から赤いものが見えた。爪が皮膚を突き破っている。アベナウの痛覚が消えている。
まずいぞ。
アベナウを外に出そうと立ち上がろうとするが、近くの村人が邪魔でうまく動けない。クソっ、まずい。
「旦那ぁ、大丈夫よ。大丈夫。すごく、すごく楽になるの。旦那、あのね」
アベナウの目はもう僕を見ていない。違うなにかを見ている。ここにはないものを見ている。
煙に充満した小屋の天井ではなくて、生贄の鶏の首を噛み切って絶叫するシャーマンではなくて、鳴り響く笛と太鼓に合わせ狂乱の叫びを上げる村人ではなくて。
「僕ね、嘘いついてたの。結婚相手のこと、ウソなの」
「そんなのどうでもいい。いないんだろ、見当ぐらいついてる」
「ちがうの旦那。いたんだよ、僕の恋人」
アベナウの目に涙が一筋零れていた。
「死んじゃったんだ。でも死んだこと認めたくなくて、恋人が生きてると思って仕事してた。じゃないと苦しかったから」
僕は言葉が出なかった。なにも言えなくなって、彼を引き止める言葉が途切れてしまった。
「──鳥になりたいなぁ。彼女に会いに行けるように、鳥になりたい」
「アベナウ!!」
僕の絶叫が、狂乱の中に飲まれる。突き出した手の先に彼はいない。
極彩色の光が、彼を包んでいく。
僕の記憶は、ここから途切れる。
△ △ △
目覚めた時、僕は朝日差す小屋の中にいた。村民の姿はすでになく、頭痛の少しの吐き気を感じながら立ち上がった。
脱ぎ散らかされた服やひっくり返された料理。巻き散らかされた酒。外には猿や鳥の鳴き声があった。
「……アベナウ?」
青年は居なかった。ただ、彼の着ていた服だけが小屋の窓近くで見つかっただけだった。
あれから村の人間にいくら聞いてもアベナウの姿を見つける事は出来なかった。獣に食われたのか?と心配する村人もいる。
次の予定も押していた僕は、彼の背負う予定だった荷物を背負いどうにか森を抜けてまた街を目指すことにする。
なに、逃げ出すガイドなど珍しくはない。
朝の森の中で、極彩色の鳥を見た。大きな翼を広げ、太陽へ向かって飛ぶ。首筋には、赤い模様があった。
アベナウ、恋人に会えたかい?