神は我らを嘲笑う。
ああ、馬鹿馬鹿しい。人間とは、なんと憐れで醜い生き物なのだろうか。
早朝から降り始める粉雪ですっかり濡れてしまっているベンチに腰を落ち着け、何も知らぬ無垢な笑顔を振りまきながら横切って行く人々を眺めつつ私は嘲笑を一つ零す。
カップルに子連れの家族、友人同士と思われる団体、皆が一様にして幸せそうな表情をしているのがこの時期になるとよく目に付く。
今日は十二月二十五日。そう、クリスマスだ。
しんしんと雪が降っている事もあって、所謂ホワイトクリスマスなのだそうだ。
クリスマスなど何が楽しいのだろうか、キリストの生誕の日というだけだろう。
彼らが楽しいのはキリストが生誕したのを心から祝っているからでは無い。
プレゼントを親しい者同士で贈る事、誰か好きな人と一緒に過ごす事、それが楽しいのである。いわば、それを為すための口実にしか過ぎないのだ。
ふっ、と思わず今日二度目の嘲笑が口から白い息と共に零れる。
ああ、何と愚かな事か。
好きな人と一緒に過ごすなど、いつでも出来るだろうに。親しい者にプレゼントを贈るのも勝手にいつでもすればいい。そんな事なのにわざわざ十二月二十五日のこの日、クリスマスという口実に乗っかって儀式的な事をしている。そんな事をする理由は何か、私は知っている。
特別が欲しいのだろう。
毎日変わり映えのしない日々、その中で特別な日を設けて特別な事をしてみる。
そうすることで一種の非現実を味わっているのだろう。
憐れ、愚か。
そうは思うが、まあ、彼らの非日常を体感したいと言う気持ちも理解は出来る。
私も昔はよく思ったものだった、だからそこの点については強く言及はしない。
しかし、何よりも彼らが憐れで愚かだと思っている要因は、
「……………………」
私は天から降る粉雪をシャワーのように顔に浴びるような形で空を仰ぐ。
空の先には顔があった。
月などでは無い、明らかに雲の下、そこに巨大な人と思われる顔がこちらを見下ろすように浮かんでいる。
まるで小学生の頃遠足で訪れて見た牛久大仏を思い出す。
当時はその大仏の迫力と無表情に少し気味の悪い思いをしたものだが、これの方がよっぽど気味が悪い。
巨大な顔は何が面白いのか、目を糸のように細めて口角を薄く裂いて微笑みを向ける。
三角形の顔の形をしていて、たるんだ両頬が特徴的である。
まるで、おかめの仮面のような顔をしている。
否、私としては、七福神の恵比寿というのがらしい表現だ。
そんな表現をしたのも、恵比寿かどうかは知らないが、ひとえに、この巨大な顔が神様そのものであるからだ。
私は上空で高みの見物を決めている神に睨みを一つ飛ばしてから、背けるように目線を首ごとイルミネーションや笑顔の人々で溢れたクリスマスに戻す。
私は神様という存在を視認できる力を持っている。
いつからかは分からない。しかし後天的なものであるのは確かだ、少なくとも子供の頃は神様など見ることは無かった。
私は神様を視認するだけ、会話することもジェスチャーでコミュニケーションを取ることも叶わない。
しかし、視認できる。クリスマスという神に関わる行事に現を抜かす彼らを満足そうに眺める神を視認できる、それで充分。
何よりも彼らが憐れで愚かだと思っている要因は、神が視認できないことにある。
だからこそ彼らは、知らぬうちに神の良いように手のひらで踊らされる形となって宗教行事に勤しんでいると言うわけだ。
本当に憐れだ、あの憎たらしい笑みを見たらさぞ鼻柱も折りたくなってクリスマスなんてやりたくなくなるだろうに。
だから私はクリスマスを特別な日だとは断固として思わない。
それはクリスマスに限ったことでは無く、バレンタインデーにチョコなど送らないし、初詣にも足を運ばない、ハロウィンで仮装をするなどもっての外。妻との戸籍を入れたものの挙式を上げた事すらない。
そんな私を皆は無神論者と蔑むが、私は神を信じていないとか存在していないなどは思っていない。神様そのものが見えているのだからむしろその逆だ。
あえて私の今の思想、生き様を言葉で示すのならば、背信者、というのが適切だろうか。
私は一つ溜息を零しながら座っていたベンチから腰を上げる。
私の座っていた部分だけベンチは乾いており、代わりに私の尻が濡れていた。
肩と頭に埃の様に積もった雪を払いながら私は街道を進む。
歩きながら私はスーツの内ポケットから手製の葉巻煙草を取り出して、ライターで火を着けるなり紫煙を吸っては吹かす。
漂う煙草の紫煙に耐えられないのか、私の周りの人間達は怪訝な様相を向けながら距離を開けたり、あからさまに見せつけるように鼻を手で覆ったりしている。
そうこれだ、この瞬間が一番私は私を自覚できる。
私はこの有象無象とは違う。特別な存在なのだ、唯一無二。この人々が私を避けているこの光景がそれを表している。
煙草とは、身体に害を為すもの、即ち自分の命を自ら削るという事に等しい。神が授けた身体を傷つける立派な背信行為だ。
それを堂々と街の真ん中でしている、周りの人々からしたら神に背く背信者という異質な存在に映っているに違いない。だからこそ身を引いているのだろう。
そうだ、私はお前ら凡人とは違う、唯一無二の特別な存在なのだ。
空を見上げると、神の顔も歪んでいる。それがたまらなくおかしくて公衆の面前と言うのも忘れて思い切り声を出して笑ってやった。
私は勝利による愉悦と、優越感に酔いながら、優雅にまるでレッドカーペッドの上を歩くかのような足取りで煙草を嗜む。
「……おや?」
煙草を限界まで吸って、吸い殻を道端に放ってから二本目にいこうと再度内ポケットに手を伸ばしたは良いものの、いつの間にか先ほどの一本が最後の様であった。
「丁度いい、買い足すとしよう」
私はスーツの乱れた襟を正してから帰路とは別の方向に足の向きを変えて歩き出す。
私の愛用している煙草は、そこらのドラッグストアやコンビニでは売っていない。
それもそうだろう、煙草を吸ってる人に言っても首を傾がれてしまう銘柄の上、今はもう珍しい葉を紙で巻くタイプの葉巻煙草だ。よっぽどマニアに需要を向けた店でないと売ってない。
だが私は幸運な事に、個人で営業していると言う煙草屋と知り合ったのだ。
なんでも海外からの珍しい銘柄の煙草などを輸入して販売する人なのだそうだが、愛煙家たちの間では密かな穴場として知られていたりする。
煙草屋の人柄もよく、私もかなり気に入っている行きつけだ。
しかし、懸念材料もある。その煙草屋が売る煙草は珍しい銘柄という事もあってか少々値が張る。
私はそれを思い出して、鞄から取り出した長財布の口を開く。
中に入っているのは五万円程度。大丈夫だ、大体十本分くらいは買える。
煙草が買えることに安堵したのも束の間、私は連鎖的にもう一つの懸念材料を思い出した。
「早く職、見つけないとな」
思わず深い溜息を漏らした。今は何とか実家暮らしで親に生活費などは賄ってもらっているが、そろそろ貯金の底が見え始めている。
一刻も早く新しい職に就いて金を稼がないと流石の両親も息子を路頭に放り込むことやむを得なくなってしまう。
一文無しで寒空を歩く自分の光景が目に浮かんだ。
はあ、と深い溜息を吐いてからふと上空を見上げると、見透かしたかのようにくすくすと嘲笑う忌々しい神の姿があった。
神だから心を読むのも簡単だとでも言うのか、私は強く痛い位に歯噛みした。
決して私はお前の敷いたレールには乗ってやらない。
強くそう決心して私がざくっと真新しい雪に一歩沈めた時、
「む」
ふいに私の足の裾を下から何者かが引っ張ってきたのを感じて進む足を止めた。
目線を下ろすと、そこに居たのはまだ幼い少年だった。
少年は何が悲しいのか、顔面を鼻水と涙に塗れさせて泣きじゃくっている。
「何をそんなに泣いているのかね、少年」
少年は嗚咽を交えたしゃくりを上げながら、期待を込めた眼差しで私の顔を見上げて
言った。
「お母さんと、お父さんと、はぐれちゃって…………」
「ふむ、なるほど」
どうやら少年は迷子の様だ。
迷子になるのも無理はない。このお祭り騒ぎで人がごった返している街道では両親とはぐれてしまっても別段驚きもしないと言うもの。
それは理解した。しかし少年が私に期待しているものは何か。
「…………私に少年の両親を捜せという事か」
私が結論を代わりに述べてやると、少年は図々しくも首を縦に力強く振って肯定の意を示した。
私はそれに、そうか、とひと呼吸置いてから、少年の私の裾を握る手を払った。
少年は私のその突き放すような行動に、信じられないと言うような表情で泣くこともすかっり忘れて目を張っている。
卑しい子供だ、自分が助けられるのが当然だと思っているようだ。
「後学の為に教えておいてやろう少年、神の提示に従うのは勝手だ、誰かに助けを求めるというのも勝手だ。しかし、助けを求める相手は見極めることだ。私は、神の提示には従わない人間だ」
少年には私の今の言葉は届いていない様子だった。頭上に疑問符を浮かべながら小首を傾げている。
分からなくていい、分かるはずがないのだ。だってこの子供には神様が見えないのだから。
いずれこの子にも私と同じように神の存在が見えるようになって私の今の言葉が分かるようになる時が来ることを祈りつつ、私は少年を背に目的の場所へと再度足を動かす。
振り返らぬ私の後頭部に少年の思い出したかのような泣き声と、それを見兼ねて話しかける通行人たち、私を人でなしと罵る声が降り掛かる。
どうとでも言えばいい、私はお前達凡人とは違う。
全ての困難は神の用意した予定調和である。
人間誰しも壁にぶつかることがあると言うが、あれは神が戯れで用意したものでしかない。
いわば神の暇つぶしだ。人間に困難を与えて、それを乗り越える姿を見て楽しんでいるのだ。
人間はそもそも困難なんかにぶつからなくても生きていける生物なのだ。
今しがたの迷子もそうだ。迷子と云う困難を私にぶつけてそれを乗り越えさせるのを楽しむつもりだったのだろう。
むかっ腹が立つ。
神の暇つぶし、一時の享楽で本来なら苦難を味わう事をする必要のない我々人間が苦渋を舐めさせられる。
そんな不条理はあんまりだ。我々はお前達神の玩具でも奴隷でもないのだから。
だから私は神に背く、神の提示には従わないと心に決めたのだ。
前に勤めていた会社でも、嫌なことがあった。神の困難の提示だから私は仕事から逃げた。そしたらクビを宣告され今は無職だ。
十年寄り添っていた妻も、貴方のその思想にはもううんざりだと離婚届に判を押したきり帰ってこず、結局破局、今は独り身だ。
神の提示を拒否しても、また次の提示をしてくる。本当に忌々しい存在だ神というのは。
私は彩られた街道を出て、薄暗い路地裏に入った。
亀裂が入り、蔦がコンクリート壁を抱擁している。
いかにも廃ビルと思わせる建物に裏口からすっかり慣れた足取りで入る。
元は新興宗教の建てた建物らしいが、その新興宗教が詐欺まがいの事をして信者から金を巻き上げたとか何とかで潰れて今は廃ビルと化しているのだとか。
朽ち果てた札や榊が床に惨めったらしく散乱している。この場所が煙草屋の拠点なのだが、中々良い趣味をしていると感心していた。
私は、今はすっかり神聖を失ってしまっているであろうものたちを踏みしめながら、地下に通ずる階段を下って行った。
ビルの地下はコンクリート壁に覆われた無機質な駐車場だ。
その駐車場の端に、いつものように白いバンがオレンジのライトを点滅させながら停まっている。その車体の側面に寄り掛かるようにして煙草屋は私を待っていた。
私がやあ、と片手を上げると、煙草屋は伏せていた顔を上げて片手を上げた。
「入ってるかい?」
「ああ、もちろん」
嫌らしく舌なめずりをしながら、煙草屋はバンの運転席を開けて中から紙袋を取り出す。
私は財布の中の五万円を全て彼に手渡してから嬉々として紙袋を受け取り、玩具を買ってもらった子供の様に紙袋の中身を覗く。
「まいどあり」
私は紙袋を胸で抱きかかえながら今度こそ帰路に付こうと背後を振り返った。
私は目の前の光景に一瞬驚いて息を飲んだ。
「? どうした?」
背後から怪訝な様子で話しかけてきた煙草屋の声ではっと我に返った。
そして段々と冷静になった私は、思わず吹き出してしまった。
私は腹を片手で抱えながら笑って、煙草屋の方に首を向けながら、
「いや、失礼、小っちゃい神様が数えきれないくらいに目の前に広がってたからびっくりしただけさ。どいつもこいつも鬼の形相してるもんで思わず笑ってしまった。自分の手のひらで私を躍らせることが出来なくて悔しがっているようだ……全く憐れだよ」
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憐れだよ、そう何も無い空間に向けて一人笑いそのまま駐車場を辞した彼の後姿を見送ってから煙草屋は白いバンの運転席に乗り込んでエンジンを掛けた。
「何なんですか先輩、今の客。神様がどうとかって」
不気味なものでも見たかのような様相をしながら助手席に座った男が問うた。
「何って、どう考えたってこいつの副作用だろ」
言いながら煙草屋は葉巻煙草の中身である葉の入った紙袋を揺する。
「え、じゃあ、神様とかって嘘だったんですか」
「当り前だろうが、神様なんてものが存在するわけねえだろ」
はえーと何とも言えぬ声を出しながら男は紙袋から葉を摘まんで紙袋に落とす。
「怖いっすね、幻覚見てラリッちゃうとか」
「ああ、怖いねそれを知ってるからこそ、俺達売人は吸わない」
「百害あって一利ないですもんね」
「まあ、俺達からしたら利はあるんだがな」
「どういうことですか?」
「あいつ、さっきの客、この葉を吸い始めた頃から急に変なものが見えると言い出すんだよ。ああ、そりゃ副作用の幻覚だと瞬時に理解したが俺はそれを言わなかった」
「……何故です?」
煙草屋は嫌らしい笑みを張って舌なめずりをしながら、
「こいつは利用できると考えたからよ」
煙草屋の意図を汲み取れないと言わんばかりに助手席の男が首を傾げる。
「俺はその見た幻覚を神様って事にしたのよ。それで適当にでっち上げた思想を刷り込ませた。神はお前ら人間を嘲笑っている、煙草はそんな神に対抗し背く唯一の武器だとか言ってな」
「するとどうだ? 奴すっかり信じやがった。そのおかげでお得意さんが出来てこっちはボロ儲けよ」
得意げに語ると、その嫌らしい笑みが助手席の男にも伝染した。
「そりゃ確かに俺達にとっちゃ利だ」
だろう? と言ってから煙草屋はふいに苦虫を噛み潰したような表情を露わにした。
「ま、その所為であいつの中で思想が勝手に膨らんじまって俺の手に負えなくなってるのがたまに傷だがな」
「いいじゃないですか、あいつが勝手に不幸になるだけで俺らには害が無いんだから」
それもそうだな、言いながら煙草屋は笑ってアクセルをゆっくりと踏む。
「神様なんて居もしない奴信じて、ありもしない思想信じて破綻して、全く憐れだよ」
タイヤの擦れる音を地下駐車場に響かせながら売人たちは次の売り場へと車を走らせる。
「そうだ先輩」
「ん、なんだ」
「せっかく今日はクリスマスなんですから、クリスマスケーキ買ってお祝いしましょうよ」
「男二人でか? …………まあ仕方ねえ、折角の年に一度の行事だしなそうするか」
星明りが散らばった夜空を遮るものは雲一つとしてなかった。
白い粉雪がクリスマスを祝福するように降り積もる。