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私が君を脱洗脳していいですか?

作者: 鈴木美脳

 大学に入った年、ある女性と知り合って交際をするようになった。

 変な冗談を言う、不思議な女の子だった。

 彼女の話によると彼女は、この世に実在しないのだという。友人も恋人もいない僕が、寂しさのあまり空想して作り出した想像上の女の子だという。笑ってしまった。それがもし本当なら、自分の想像力に感謝するよ。

 それに、僕は実際には大学生ではないし、実際は年齢もずいぶん年老いているという。学歴主義を手段として両親から虐待されてできてしまった学歴コンプレックスを持っているがゆえに、大学なんて行ったことがないのに、年老いてなお、自分が大学生だなんていう夢を見ているんだってさ。ひどいことを言う。


 彼女は、心理学を専攻していて、心理的なコンプレックスがどうとかいう話をよくするのだ。

 心理学の本を読むのが好きで、心理学者にでもなったつもりで、僕を実験台に好き勝手言う。ほとんどはまるで僕の悪口のような内容だから、僕は心理学や心理学者というものが嫌いになった。

 でも、彼女と一緒にいる時間は好きだから、いつも本を眺めながらあれこれ言う彼女を、僕はただ聞き流す。聞き流す言葉の断片のなかに、でも、心に引っかかるような、何か本質を突いているような内容もあった。


 心地よい風の吹く暖かな丘の上である日、カフェに寄って彼女と昼食をとった。

 心理学の本に目を落としていた彼女は、ふと、いたずらっぽく僕を見つめた。









 学業にもアルバイトにも、意欲的に取り組めていない。


 それが君の実情だよね?

 このままじゃヤバイ、っていう危機感が頭にはあるのに、心身のエネルギーは衰える一方。

 このまま行くと、君の人生、破滅だよね?


 だから君は、色々な価値観や生き方について考えてみたり、解決を求めて哲学的な思索を深めている。

 でも、君から今まで聞いてきた話によると、君は心理学が言うある種のパターンによく当てはまっている。

 それによると、君は自力では今の苦境を解決できない。

 私なら君を破滅から救いうる、って、そう言ったら信じますか?


 君の身体には幼い頃から多くの不調があって、しかも一部は悪化している。

 精神状態も落ち込んだり苛立ったりするときがあって、君はそれを、身体のせいかもしれないと考える。

 でもそれら身体的なエネルギーの不調は、実際には精神的な問題に起因している。


 小学校の低学年のときから、うまく授業に集中できなかったって言っていたでしょう?

 そしてそれを君は、自分が生まれ持った個性としての性格だと思っている。

 でも君は人並み以上の倫理性も帯びていて、いつも誰かから見られているような考えや緊張感を持っているでしょう?

 それらは、幼い頃に厳しく虐待された子供のパターンだから、実は君の性格じゃないよ。


 君はひどい虐待を受けて今だに大いに洗脳されている。

 虐待とはつまり、君の幸せのためではなく、親の幸せの道具として君は育てられた。あるいは親は、自分のそのときの気分にだけ興味があって、君や君の人生の幸せに興味がなかった。君の考えや価値観や能力や君自体の価値について、否定や嘲笑ばかりした。暴力を振るってでも言うことを聞かせた。

 だから君は、自分の幸せや好き嫌いや感情をほとんど感じることができてない。生きる意味や生きる喜びを感じられない。だからエネルギーが枯渇していく。

 私が君を脱洗脳していいですか?

 脱洗脳しないと、君は結局、たくさん苦しんだ果てに死にますよ?

 脱洗脳したとしても助からない可能性はあるけど、助かった人は多くいるし、他に生き延びる方法はありません。


 君の両親は夫婦喧嘩ばかりしていて、君はそれを取り持つことばかり考えて育ったと言っていたよね。

 それに、母親はアスペルガーのメンヘラで、彼女が君の親だったというより、君が彼女の親として振る舞わねばならなかった。だから君は、大人びていて立派だと世間からよく言われたけれど、奔放に笑ったり怒ったりする子供らしい時期を持つことができなかったね。

 そして、保育園や小学校や中学校に行った。君にとっては、周囲はひどく幼稚に見えた。人々が、とても自己中心的で感情的で、モラルに欠けて見えたでしょう? そして、そんな子供達のほうが子供らしいと感じて好意を向ける大人や教師達に不満を感じていた。自分のほうがたくさん我慢しているのに、それが大人から評価されることがないのが嫌だった。親からすら評価されていないことがショックだった。

 君は、人の気持ちに深く配慮するし、自分の感情をよく制御する。そのことを自分の美点だと思いながら育ったし、自分自身の生まれ持った性格だとも思っている。

 でもそれは、君自身の性格ではなくて、夫婦喧嘩を取り持ち、親の親として振る舞わねばならなかった虐待の結果だよ?

 君は、自分には高いモラルがあって、世間全体が二流であるかのように感じているけど、実際は君がある意味特別に不出来なんだ。


 昔のモラルでは、親を尊敬し感謝すべきが当然だった。

 あるいは社会全体で言えば、家父長制権威主義体制が普通だった。

 のちに、民主主義の時代になった。自由な考えを持ち、思ったことを自由に発言できる時代になってきた。

 子育ても民主化して、子供の権利が認識され、虐待や毒親といった議論が行われるようになってきた。わりと最近のことだね。


 なのに、毒親家庭では、家父長制権威主義体制が今も行われている。

 より正しい者によるより愚かな者への制御が重視され、制御する手段として恐怖が用いられる。

 君はそんな環境で育ち、つまりそんな洗脳を受けたから、そんな古い体制を今も正しいと信じていて、世の中もそうあるべきなのにと、強いフラストレーションを感じつづけている。


 君は、自分に厳しくて献身的な人間像が好きだよね。人々の幸せのために命すら犠牲にできる人物像に、尊敬を感じる。武士道みたいな正義感とか。

 君は、日本の江戸時代とかが好きで、一方で、西洋由来の思想は二流の間違ったものだと感じている。民主主義には甚だしい短所があると感じているようだし、自由主義や平等主義や平和主義や人権主義についても、深い欺瞞に満ちた有害な思想だと考えている。

 でも、虐待を否定して理想の家庭を空想するなら、子の人生の幸福を思って、子の個人としての尊厳を尊重する態度こそ好ましい。それは、国家でも同じだ。

 つまり、社会というのは、一部の人々の知性によって全体を制御する構造から、すべての人の知性を活かす方向に変化していて、そのことが、思想の自由という第一義的な幸福を増加している。

 君は、そんなことをすれば民衆の思想は資本の原理に飲み込まれるだけであって、現に庶民の良心は長期に渡って退廃傾向にあると危惧している。

 でも、私達にできることは、事実に基づいた正しい考えによって人々を制御しようとすることではなくて、生まれてくる子供達の知性を信じることでしょう?

 だから、君が、民主主義を初めとする近代西洋思想を否定していることは、間違った考えだ。


 君が、家父長制国家主義あるいは家族国家主義に愛着を示してきたことの本質は、家族愛への愛着にあって、それはとても正しい。

 そして、経済的価値よりも良心に価値を見るべきだと主張して、虐待する富裕な人々よりも、子の幸福と尊厳を尊重できる貧しい人々のほうがずっと尊い、そんな価値観で社会が刷新されることに、破滅からの希望を願望したことも、発想としては正しい。

 でも、社会について、あるべき思想を論じるということ自体が、深い誤りを含んでる。社会や人々は、そのような方法で制御できるものではありません。

 もしも人類幸福が、シンギュラリティを前にして破滅傾向にあるとしても、君はその運命を変えられない。できることとできないことをバランスよく区別して、もっと適度にエネルギーを配分して、自分自身の幸せを大切にしなさい。


 君は、ひどい虐待を受けて育った。

 親に愛されることを望んで努力してきたけど、人としての尊厳を親に認めてもらうことは諦めなければならない。毒親が変わってくれることなど基本的にはありえない。

 君は、過小評価された知性の尊厳を求めて、知的とされる仕事に努めてきた。でも、君の本心は、技術的な内容や、経済的な報いにはほとんど感心がない。それに、頭のいい人達とは十分に関わって、自分の親が決して満足しないこと、学歴を持つ多くの人は学歴だけで人を嘲笑するような思想を持っていないこと、自分には十分に人並みの知的才能が備わっていることを確認できたでしょう?

 でも結局、君の心身はボロボロで、現実には年老いていて、社会的な尊厳も得られず、社会的な幸福も得られなかった。君を過小評価することで社会からも過小評価させ、君の人生全体を苦しみしかないままに終わらせようとした両親の虐待は成功した。虐待が成功した事実を君は認めなければならない。


 愛は、確かに価値ですよ。

 恋愛の、自分のための性欲の愛ではなく、家族の、自分のための派閥の身内への愛でもなく、相手の感情や価値観に寄り添って尊厳を尊重する本物の愛が、君にはある。

 でも、愛を備えることによって尊厳を買おうとする君の発想は間違っている。君はそんな努力をして尊厳を買わなくていい。君には初めから十分な尊厳が備わっていて、それを否定した君の両親は間違っている。

 同様に、どんな人にも十分な尊厳がある。自分の価値を肯定する権利がある。生まれつきの殺人鬼が罪のない女子供を大量に殺したとしても、彼や彼女を憎むことは間違っている。残念なのはそれをもたらした因果関係の構造であって、合理的な賞罰で対応する以上ではない。


 世の中は、倫理的に完全ではなく、理不尽な嘘や欠陥だらけだ。

 そして、世の中の片隅で、君はひどく理不尽な苦しみを味わってきた。

 でも、極端な倫理主義に傾倒して自身の苦しみから目を逸らそうとしても無駄だよ。信奉することで何もかもから救ってくれる信条なんて見つかるわけがない。

 君は、大きな成功に至ることなく、何者にもなることはできないだろう。君にできるのは、かなりの逆境から、自分なりに日々を生き抜くことだけだ。でも、何者にもなれなくても、自分の尊厳が失われたと感じて苦しむ必要はないし、ずっと個人的才能や実力が劣る人々が、自分よりずっと幸せな家族や財産のなかで暮らしているのを見ても、見るたびに憤る必要はない。嫉妬して失望に暮れる必要はない。


 貧しく孤独に終える人生なんて、嫌? 生きる価値がないと思う?

 でも、脱洗脳さえ成功すれば、尊厳についての恐怖は立ち去り、君は初めて、内面の自由を得ることができる。

 例えば学歴コンプレックスからの完全な脱洗脳ができなくても、大学生にでもなった空想をして、かわいいガールフレンドを妄想して、やさしいキスでもしたらいいじゃない?


 こうやって、飲み終わったカップの氷をストローでいじって、その音はまるで現実みたいに響いてるでしょ?

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