おっさんとぼうずの七日間
お誕生日にお父さんとお母さんがくれるのはぼくがほしいものじゃなく、いつだって2人があたえたいものだった。
6才のお誕生日にくれたのはぼくをしまう場所だった。
ぼくとその人が出会ったのはお皿が割れた夜だった。
星がきれいな夏の夜。2階建てのボロボロのアパート。鉄の階段前。
体育座りをして空を見上げていると大きなスーパーのふくろを持ったおじさんが話しかけてきた。
「こんなところで何してんだ、ぼうず。お父さんとお母さんは? 家はどこだ?」
白いTシャツにGパン。坊主頭。あごにヒゲがはえていて、目つきがするどかった。
ぼくはちょっとおびえながら横に首をふった。
「もうない」
おじさんはおどろいた顔をして、少し考えて言った。
「じゃあ、おっさんの家に来るか?」と。
その人は自分のことを「おっさん」と呼べと言った。だから、ぼくはそのとおりにすることにした。
2階の3つ並んだ真ん中の部屋。それがおっさんの部屋だった。
小さく、それでもきちんと片付いた部屋だった。
おっさんはぼくを机の前に座らせるときいた。
「腹へってんだろ? 何食べたい? 好きな食べものなんだ?」
ぼくは首をかしげた。答えないぼくにおっさんも首をかしげた。
「なんだ、好きな食べものないのか」
ぼくは返した。
「好きな食べものってなに?」
そんなこと今まできかれたことがなかった。
ぼくはあたえられたものを食べなければいけない。
おっさんは眉をあげて何かを考えるようにだまった。それから、「じゃあ、適当に作ってやるよ」と言って持っていたスーパーのふくろから取り出し始めた。
おっさんが台所に立ってしばらくたつと料理が出てきた。
「ハンバーグ」「エビフライ」「からあげ」
おっさんはひとつひとつ名前を言いながら大きなお皿にのったそれを机に置いていった。
最後にごはんとおみそ汁とおはしを置いてぼくの前に座った。
「ほら、好きなだけ食え」
ぼくはこまったようにそれを見つめた。
「どうした、食わないのか」
ぼくは言った。
「こんなにいっぱい押し入れに持っていけない」
お父さんとお母さんはぼくにおしえてくれた。ぼくが食事をする姿はとてもフカイだから2人から見えないように食べなければいけない。
今まではお誕生日に買ってくれたお茶わんに入ったごはんとおはし。それだけだからちゃんと持っていくことができた。でも、こんなにいっぱいあったら持っていけない。
おっさんは変な顔をして何か言おうとした。けれど、結局、何も言わないまま立ち上がった。そうして、自分の分のごはんとおみそ汁を持ってくるとぼくの前に座った。
「そんなところに行かないでいい。お前はここでおっさんといっしょに食べるんだ」
そう言ってがつがつと食べ始めた。おっさんにつられるようにぼくもおそるおそるおはしをのばした。
ハンバーグ。エビフライ。からあげ。
どれもびっくりするほどおいしくて、夢中になって食べた。
こんなに食べていることにハッとしてフカイにさせてしまっただろうかとおっさんを見るとにこにこ笑っていた。
「うまいか?」
そうきかれたので「うん」とうなずくと「そうか」ともっとうれしそうに笑った。
お皿がからっぽになったので、ぼくは食器を片づけ始めた。
「お、お手伝いしてくれるのか、えらいな」
ぼくは横に首をふる。
「これ、ぼくのおしごとなの」
お父さんとお母さんが食べ終わったあと、食器を片付けること。それがぼくのおしごとだった。
どんなにおなかがすいていてもお皿に残されたものはちゃんとすてて、ぴかぴかに洗わなければいけない。
おっさんはまた変な顔をした。そうして、ぼくから食器をうばった。
「じゃあ、いっしょにやろう。おっさんが洗うからぼうずはそれをふいてしまうんだ」
いっしょに?
言っていることがよくわからなかったけれど、おっさんの言うとおりにした。
おっさんが洗った食器をぼくが受け取って、ふきんでふいて食器棚にしまう。
それはいつものおしごととちがってなんだか楽しかった。
ぜんぶの片づけが終わるとおっさんはぼくに向かって手をのばした。ぼくはたたかれると思ってぎゅっと目をつむった。おっさんはぼくの頭に手をおいて髪の毛をくしゃくしゃにした。
「ありがとうな。ぼうずのおかげで助かったよ」
はじめての感覚だった。心がほかほかした。
それからおっさんとぼくは歯をみがいて、いっしょの布団で寝た。
誰かといっしょに寝るのははじめてのことだった。
あったかい……。
温もりに引き寄せられるようにくっつくとおっさんはぼくを抱き寄せてくれた。
ぼくとおっさんの生活が始まった。
おっさんとの暮らしはぼくにとってはじめてのことばかりだった。
いっしょに行くスーパーでの買い物。
「何でもひとつだけ買ってやる」と言われてお菓子コーナーでなやんだ。
待たせることがこわくてなんども振り返った。
おっさんは微笑みながらぼくを見守っていた。
「ん? どうした? 1個だけだからな。たーっぷり悩めよ」
ちっとも怒っていなかった。
ぼくはたくさんなやんでヒーローのシールがついたお菓子を選んだ。
荷物を持つと言うとおっさんはぼくのお菓子を小さなふくろに入れてわたしてくれた。
「じゃあ、これ持ってくれ。おっさん、こんなに重たいもの持てないから」
両手でとても大切そうにわたしてくれた。
ぼくが持つとおっさんは「ぼうずは力持ちだな。おっさん、助かるよ」と顔いっぱいに笑った。
いっしょに作るカレーライス。
おっさんに教えてもらいながら台所でいっしょに並んで作った。
ごはんをたいて。野菜を切って。ルーを入れて煮込んで。
ぼくが切った野菜は形はバラバラでとても汚らしかった。それなのにおっさんは「上手だな、ぼうず」とおおげさにほめてくれた。
2人で作ったカレーはとてもとてもおいしくて、ぼくは何度もおかわりした。
おっさんも自分一人で作った時より何百倍もおいしいと言ってくれた。
いっしょに入るお風呂。
おっさんはぼくの髪を洗ってくれた。
「はーい、ぎゅっと目つぶれー」
そう言いながらバシャーっと洗面器ですくったお湯をあわあわの頭にかける。
ぼくはおっさんの背中を洗ってあげた。
おっさんはくすぐったそうに、でもうれしそうにくすくす笑った。
おっさんは「ぼうず、これ知ってるか?」とお湯の中でタオルに空気を入れて両手でしばった。
真ん中の部分がふくらんでクラゲみたいにぷかぷか浮かんだ。
「なにこれ……」
目を丸くしているとおっさんはニヤニヤ笑って言った。
「真ん中、ぎゅっと握ってみな?」
おそるおそる真ん中を握った。
ぶくぶくと小さな泡がたくさん出て、くらげがしぼんでいった。
ぼくはおっさんの顔を見た。
「なにこれ!」
「ハハハ、お前、そればっかだな」
「もう一回やって。もう一回」
「ん、いいぞ。こうやってな……」
何度も何度もお風呂の中にクラゲは浮かんで、空気の泡をはき出してしぼんでいった。
やりすぎて少しのぼせて、2人で顔を見合わせて笑った。
おっさんとの日々は過ぎていく。
おっさんは顔はこわいけれど、やさしくて、料理がうまくて。
意外なことにちょっとこわがりでもあった。
2人でテレビでこわい話を見た後、いっしょに寝ていたらおっさんに起こされた。
「ぼうず、トイレ行きたくないか」
「……おっさん、こわいの?」
「バカ言うな。おっさんはお前が怖くて行けないんじゃないかと思って」
おっさんは意地でも自分がこわくて行けないとは言わなかった。
だから、ぼくは自分がこわいことにして、おっさんのトイレに付き合ってあげた。
おっさんと出会って6日目のことだった。
おっさんがぼくに言った。
「ぼうず、祭り行くぞ」
「お祭り?」
ぼくがキョトンと首をかしげるとおっさんは「おう、お祭りだ」とにっかり笑った。
それは近所の神社で行われるお祭りだった。たくさんの人が楽しそうに歩いていた。
「ぼうず、どれがいい?」
ずらりと並ぶ屋台。おっさんがぼくにきいた。
「なんでもいいの?」
「おう、何でもいいぞ」
「えーと、えーっとね」
きょろきょろと周りを見渡す。
どれもおいしそうで、キラキラと輝いていて。ワクワクが大きくなったぼくはもっと近付きたくなって、屋台に向かって走って行った。
たこ焼き。焼きそば。りんごあめ。
はじめてのものにドキドキする。
「ねえ、おっさん、ぼくこれ食べた……」
指差しながら振り返る。
そこにおっさんはいなかった。
「おっさん?」
ぼくは探す。知らない人ばかりが通り過ぎていく。
「おっさん!」
どんなに呼びかけても答えてくれる人はいない。
迷子? ぼく、迷子?
だめだ。そんなのだめだ。だって、ぼくが迷子になってもだれも、だれも、
「ぼうず!」
後ろから強く右腕をつかまれた。
振り返ると息を切らしたおっさんがぼくの腕をつかまえていた。
「お前な、突然走り出す奴があるか。めちゃくちゃ探したぞ」
「……さがしてくれたの?」
「は? 探すに決まってるだろうが。ほら、ちゃんと手つないどけ」
「……うん」
おっさんはぼくの手を少し痛いくらいぎゅっと握った。
「何だ、ぼうず。そんなに怖かったのか。もう大丈夫だから泣くな。何でも好きなもの買ってやるから、な?」
ぼくはおっさんに手をひかれながらぽろぽろと泣いた。
でも、それは迷子になったのが怖かったからじゃない。
ぼくはぼくが迷子になってもだれもさがしてくれる人なんていないと思っていた。迷子になってもこまる人なんてどこにもいないって。
だから、さがしてくれたことが、もう二度と離れないようにとぎゅっと手をつないでくれることがうれしくてたまらなかった。
おっさんの手は大きくて温かくて。
ぼくは、いっしょうけんめい、その手を握り返した。
お祭りが終わっておそろいの水風船を鳴らしながらぼくとおっさんは帰った。
「遅くなっちまったな、ぼうず。眠くないか? おんぶしてやろうか」
ぼくはちっともねむくなんてなかったけれど、おんぶしてほしくてうそをついた。
生ぬるい夏の空気の中、おっさんの背中でぼくは目をつむった。
おっさんはぼくを起こさないようにゆっくりと歩いた。
ぼくはぎゅっと抱き着きながら、明日は7日目かと思っていた。
7日目。
朝、玉子焼きとお味噌汁とごはん。おっさんが作ってくれた朝ごはんを食べた。夜は何が食べたいと言われたので、おっさんといっしょにカレーライスを作りたいと言った。
夜、帰ってきたおっさんといっしょにカレーライスを作っていっしょに食べた。おっさんがからっぽになった食器を洗って、ぼくがふいて食器棚にしまった。
終わったらいっしょにお風呂に入った。髪の毛を洗ってもらって、ぼくはおっさんの背中を洗って。代わりばんこにお風呂にタオルのクラゲを浮かべてぶくぶくとしずめた。
お風呂から出るとあぐらをかいたおっさんの足の間に入って、テレビを見ながらドライヤーで髪をかわかしてもらった。
大切にわしゃわしゃと髪をかきまぜながらかわかされるのはとても気持ちが良かった。
かわかしながらおっさんは少し緊張した様子で息を吸って言葉を吐いた。
「なあ、ぼうず。おっさんの話、聞いてもらってもいいか」
ぼくはおっさんを見た。おっさんの目はうるみながらゆれていた。
きっとこれは大切な話だ。
ぼくはまっすぐにおっさんを見返してこくりとうなずいた。
「いいよ」
おっさんは「ありがとう」と話し始めた。
「おっさんとぼうずが出会った日はな、おっさんの息子の命日だったんだよ」
「めいにち?」
言葉の意味がわからなくて聞き返す。おっさんはちょっと考えて説明してくれる。
「そうだな、死んでしまった日ってことだ。おっさんには昔、大好きな奥さんがいたんだが、生まれてくる前にそのお腹の中で死んでしまった」
「どうして?」
「どうしてだろうな。子どもが無事に元気に生まれてくることは当たり前のことではないんだな」
「……悲しかったね」
おっさんと奥さんの気持ちを想像して胸の中がきゅっとなった。
「ああ、とても悲しかった。奥さんはもっと悲しかったと思う。おっさんは情けない男だから、その悲しみを受け止めてあげられなかった。奥さんは悲しんで悲しんで、おっさんと一緒にいることが苦しみでしかなくなってお別れしてしまった」
「…………」
「命日が来るたびにおっさんは息子の好きな食べものを作った。ハンバーグ。エビフライ。からあげ。きっと好きになってくれただろうもの。想像の好きな食べものだ」
ぼくはおっさんと出会った日を思い出す。スーパーのふくろに入っていたもの。ぼくに食べさせてくれたおいしい料理。
「あの料理、息子さんのものだったの? ごめんなさい。ぼくが食べちゃった」
しょんぼりそう言うとおっさんは「ハハハ」っと大きく笑った。ドライヤーを止めてかわいたぼくの髪をなでる。
「何言ってんだ。ぼうずは食べてくれたんだよ」
「食べてくれた?」
「そうだ。ただ作られては捨てられるだけだったものが初めてからっぽになった。他にもな、お風呂に入ること、一緒に寝ること、お祭りに行くこと。あの子にしたいと思い描いていたこと、思い描くことさえ出来なかった夢をぼうずは叶えてくれた。ありがとうな」
そう言ってやさしく微笑む。そうして、おっさんは覚悟を決めたように真剣な顔になった。
「だからな、今度はおっさんが叶えてやる番だと思う。なあ、ぼうず、辛いと思うけど、お父さんとお母さんのこと教えてくれないか。おっさん、お前の力になりたいんだ」
お父さんとお母さんのこと。
ぼくは説明しようとした。
でも、それよりもわかりやすいものがあった。
ぼくは目の前のテレビを指差した。
「ん?」
おっさんは画面を見る。
「ぼくのお父さんとお母さん」
おっさんの目が大きく見開かれる。
テレビではニュースが流れていた。
押入れに子どもの死体を隠していた2人が捕まったと。
ぼくの写真が出てきて、逮捕されるお父さんとお母さんの映像が流される。
子どもが悪いことをしたからしつけのつもりで殴ったら死んでしまった。
子どもを殺した理由を2人はそのように話していて、子どもには日常的に虐待されていたあとがあったとニュースが伝える。
次のニュースが始まる。おっさんはまた変な顔をしている。ぼくはもう知っている。それがおっさんが傷ついてくれた顔だと言うことを。
ぼくはぼくが殺された日を話し出す。
あの日、ぼくのお誕生日。
ぼくはいつもどおり、おしごとでお皿を洗っていた。
でも、すごくおなかがすいていて、昨日なぐられたあともいたくって。
残った食べものをすてる時、お皿を落として割ってしまった。
お父さんとお母さんはすごく怒った。
お前は本当にどうしようもない子だ。どうしようもないお前のために仕事を与えてやったのに。どうしてお父さんとお母さんの期待に応えられないんだ。
謝りなさい。謝りなさい。謝りなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
何度、あやまったことだろう。
でも、お父さんもお母さんも中々やめてくれなかった。
血だらけになったぼくは押し入れのふすまを開ける音を聞いた。
お前が好きな場所にしまってあげよう。今日はお前の誕生日だからね。お父さんとお母さんからの誕生日プレゼントだよ。
お父さんとお母さんはそう言ったけど、ぼくはちっともそんな場所、好きじゃなかった。
本当はそんな場所に行かなくていいって言ってほしかった。いっしょにごはんを食べたかった。いっしょにお風呂に入りたかった。いっしょに寝たかった。
ずるずるとひきずられるのがわかった。押し入れの下の段にほうりこまれた。ふすまがしまってまっくらになった。
ぼくはなぐり殺された。
目がさめると神さまの泣きそうな声が聞こえた。
泣き虫な神さまは言った。
全て見ていたよ。かわいそうに。君に7日間だけ時間をあげよう。生き返らせることはできないけれど、その間だけ存在させてあげよう。
行きたいところに行くといい。したかったことをするといい。
神さまはぼくにくれた。痛まない体。おなかのすいていない体。
ぼくは神さまの言うとおりにしようと思った。
帰らなければいけなかった家から逃げ出した。
行きたいところはどこだろう。したいことは何だろう。
そんなことを考えながら夜のまちを走った。
そうして、ぼくはおっさんに出会った。
話し終わるとおっさんはぎゅっとぼくを後ろから抱きしめた。
「おっさん、ぼく、ゆうれいだよ」
「それがどうした……」
「こわくないの?」
おっさん、こわがりでしょ?
おっさんは小さく横に首をふって、かすれた声で返した。
「怖くない、悔しい……」
鼻をすする音がして、ぼくの肩がぬれる。
泣き続けるおっさんにぼくは言う。
「おっさん、ぼくね、おっさんのおかげではじめて生まれてきてよかったと思ったよ」
おっさんはぼくが夢をかなえてくれたことを「ありがとう」と言ったけど、それはぼくにとってどんなに幸福な夢だっただろう。
おっさんは言う。
「ばかやろう。あんなことで生まれてきてよかったとか言うんじゃねえぞ。いいか、次、生まれ変わったならな、それが当たり前の子どもとして生まれろ。バカな大人の犠牲にならない幸せな子どもとしてな」
ぼくは体の向きを変える。正面からおっさんをぎゅっと抱きしめる。
「幸せな子どもの7日間をありがとう」
せいいっぱいの思いをこめて。
そうして、ぼくは消えた。
向こうの世界で泣き虫な神さまはぼくにきいた。
最後の7日間は楽しかったかい?
ぼくは答えた。
はじめて子どもであることをよかったと思ったよ。
次の人生でぼくがどんなところに生まれるのかはわからない。毎日、おなかいっぱい食べられて、当たり前にわがままを言える幸せな子どもになれるかもしれない。
けれどぼくはぼくとして幸せになった日々を忘れたくないと思った。