フランス北部ルテチア市内防衛省
崩れかけた建物の影の中で何かが反射した。それは恐ろしいほどに冷たい鋭さを持ち、恐ろしいほどに敵意に満ちていた。崩れかけた建物を意図も簡単に押しのけると、闇に隠れる獲物を見つけ、巨大な翼を高く持ち上げた。獲物は道具を操り、時には剣として、時には盾として、ずる賢く利用してくるが、経験豊かなそれにとっては全くに意に介することではなかった。
ここフランス北部にあるルテチアは、さながらゴーストタウンと化していた。十年前に発生した大異変により晴れることがない雲によって空は覆いつくされ、それに続くドラゴンとの長い戦いによって荒廃していた。それはルテチアのみにとどまらず、全世界さえも同様な荒廃が進んでいた。少なくとも、ルテチアに住むわずかに生き残った人々はそのように教えられてきた。そのルテチアの人々にとって、希望や夢は十年前の過去のものとなり、度重なる恐怖にただただ怯えるだけであった。だが人々の全員が諦めたわけではない。最後の力をふり絞って生きるための努力が懸命に続けられていた。
ルテチア市内中心部にあるブリエンヌ館の防衛省では、新たな作戦のために、めまぐるしい活動が繰りひろげられていた。作戦の第一段階はドラゴンを頂点とする敵対生物の注意を引き付けることである。現存する全ての部隊に出動命令が下り、ありとあらゆる兵力、ありとあらゆる火器が動員されていた。その中には、作戦支援のために、まだ稼働可能な無人偵察機スペルウェールも含まれており、作戦開始前から上空で警戒にあたっていた。
現代におけるドラゴン、この生き物こそがルテチアの敵、いや全人類の敵であった。フェアリーリングからの侵入者であり、異世界の生物の王である。そんな生き物を、どうしてこうるさい存在にすぎないフェアリーが現代に出現させたのか真意は全く不明であった。そういう意味では、本当の理由を知る人間は、まだ地上にはいなかった。
どの部隊からも敵と接触したという報告はなかった。ルテチアはかつてのフランス共和国の首都であり、歴代の市民たちによって脈々と継がれてきた。かつては世界に名前を知られた美しい都市であった。しかしながら、現在は他の地域と同じように、国としての実態は失われ、都市としての機能も失われ、今では巨大なコンクリートのジャングルに等しい場所となっていた。
無人偵察機スペルウェールが最後にドラゴンを確認した場所を警戒しながらも、現存する全ての部隊により国防省を中心として防衛ラインが形成されつつあった。いちばん早いものは、既に最適な防衛位置を確保しつつある。これはいい傾向である。現存するわずかな戦力で目的を達成するためのただひとつの方法があるとすれば、正確で確実な攻撃以外にない。
防衛省に設置された司令部は作戦開始を宣言した。地上レーダー装置のモニター上には、無人偵察機スペルウェールの光点が偵察のために広範囲の扇状に広がっていくのが映し出されていた。時間だけが刻々と過ぎていくが、作戦の次の段階にとって脅威となる敵の存在はいまだ確認できない。敵がいない今が好機と思われた。ついに作戦の第二段階の開始がランドクルーザー〈デリンジャー〉に対し宣言された。
ランドクルーザーはあくまでも機動性を重視した大型のトレーラーで、戦闘に特化した車両ではない。しかしながら、牽引式装甲トレーラーに簡易装甲の居住兼貨物用のキャビンを搭載し、キャビン上部には二門の12.7ミリ重機関銃、さらに歩兵用軽対戦車ミサイルのミラン発射機を装備していた。大型ドラゴンに対しては無力かもしれないが、その取り巻き程度の中型以下の敵性生物であれば、それなりの軍事行動に充分有用であった。特に今回使用される〈デリンジャー〉と〈ライオット〉の二台に関しては、オプションとして後部両サイドに十六連ロケット発射機をそれぞれ装備し、防空能力を高める改修が施されている。乗員は八名とされているが、実際には五名もいれば作戦運用ができる軍事車両である。
ルテチアにおいて今は二台となってしまったランドクルーザーの乗員の中で、坂井美春伍長は唯一の日本人であった。歳は二十六歳になったばかりである。光沢のある黒色の髪は短めのセミロングで、前髪を分けておでこを出し、後ろ髪は首筋のあたりで揃えられていた。髪同様に黒々とした大きな澄みきった瞳で、彼女の顔立ちは美しいというよりはむしろかわいいいという印象が強かった。そのためか親しみやすい顔立ちであったため、同性からも好感を持たれることが多かった。身体つきはすらりとして、その身のこなし方にはどこか子供さといったものが感じられる。黒いしなやかな髪のために、仲間からは「わかめ」と呼ばれていた。もっとも、本人に言わせてみれば癖毛があるから違うのだそうである。
坂井伍長はまだ平和だった頃にパリへ留学に来ていたが、十年前に起きた大異変後の混乱により、故郷の日本に帰れなくなった人たちの一人となってしまった。故郷に帰る方法を失った彼女は、状況を同じくする他の人たちと同様、すっかり変わってしまった世界の中で、パリからルテチアに改名した人類の砦に残らざるをえなかった。それ以来というもの、彼女はいつの日か故郷へ帰ることを夢見つつ生活してきたが、不本意ながら軍に志願したのは当時としては生きていくためには仕方のなかったことであった。
ランドクルーザー〈デリンジャー〉の狭い通路を伝ってコクピットに出た坂井伍長を、ナビゲータ席に座っていたレイモンド・コリンズ軍曹が振りかえって確認した。彼は見かけ以上に老けていてやや神経質な人種ではあるが、〈デリンジャー〉のチーフエンジニアであるとともにランドクルーザーの心からの信仰者でもある。彼はランドクルーザーのコクピットを神聖な場所と信じるあまりに女性が入ることを快く思っていないのだが、坂井伍長と同僚のスーザン・ガルシア伍長だけは一目おいていて表情には出すことはなかった。それは、ただ単に顔に表れないということだけなのかもしれないが、今はそんな問題など誰も気を使っているいとまはない。
コリンズ軍曹と〈デリンジャー〉の車長であるローレンス・カーン准尉がちょうど話をしているところだった。指揮官であるカーン准尉は、もちろんクルー全員から信頼されているのは言うまでもない。
「全部隊が作戦に入りました。〈ライオット〉も確認済みの情報です。市内に居座っている4体のドラゴンに対し、今までにない大規模な軍事行動が行われています」
「前線指揮所か防空管制室からの連絡は?」
「ありません」コリンズ軍曹が応えた。
「偵察小隊コマンドからは?」カーン准尉がさらに質問する。
「ここへはありません。現在、前線指揮所へ移動中ですから……」
無線機からコールサインが聞こえてきたので、坂井伍長は手を伸ばして応答ボタンを押した。すぐさま暗合指示コードが送られてきた。坂井伍長はそのコード番号と同じ番号が書かれた命令書を金庫から探し出した。坂井伍長は何度も何度も指示コードと合っているか見直した後、命令書をコクピット席のカーン准尉に手渡した。こういう手順を踏む場合は、いつも重要な情報の伝達であるため、坂井伍長はついつい緊張のあまり手が震えてしまった。
カーン准尉は命令書の中身を開かなくても、内容は解っていた。命令書の今までにない仰々しい手続きを目の当たりにして、戸惑うクルーに取り囲まれながらも、これからなさなければならないことの対応策をひととおり考えようとした。クルーには今回の作戦内容が事前に知らされていない。それは全く雲をつかむとしかいいようのない曖昧な作戦だった。ルテチアの戦場を脱出すること、存在するかどうかもわからない生き残りの友軍を探し出すこと、そして友軍にルテチアへ増援を要請することである。ルテチアはこれまでの長い戦いでじわじわと消耗が続き、崖っぷちに追い込まれているための苦肉の作戦である。
カーン准尉は軍の制帽をかぶりなおした。
「現時刻をもって、我々デリンジャー分遣隊の任務は、他の地域で生き残っている友軍と接触することが第一目的となる。我々は、ルテチア防衛作戦から切り離された。防衛軍は我々の部隊をゲストとして扱う。戦力外のお客様というわけだ。意味はわかるな? 我々の任務遂行のために敵を引き付けてくれるが、そう長くは期待できない。我々がすみやかにルテチアを脱出することが当面の目標となる。以上、ただちに準備にかかれ」
坂井伍長が通信機のスイッチを切ったのを確認すると、カーン准尉はさらに続けた。
「返信はないだろうが、司令部宛に通信を頼む。『自分たちが戻ってくるまで、ご武運をお祈りします』と伝えてくれ」
通信担当の坂井伍長は、日本人であるがゆえに外国語としてフランス語を勉強し、発音はフランス標準に近いものがある。しかしながらルテチアで話されるのはフランス標準ではないパリジャンアクセントと呼ばれる訛りがあるために、彼女のアクセントがない発音は、フランス語の伝統的な美しさを思い出させてくれる。
「返信です。『貴方の任務が無事達成されることを期待する』です。返信しますか?」
「いや、いい。任務に専念しよう」
通信は終わった。カーン准尉は大きく息を吸い込み意識を集中させた。自分が負わなければならない全責任のことは考えないようにしながらも、作戦の内容についてもう一度検討してみた。もちろんその必要は彼にはなかったのだが、これまで成功をもたらしてきた直観にしたがって必要だったのだ。そして、決意は固まった。
「坂井伍長、車内通話機をデリンジャー分遣隊のすべての車両に中継してくれ」
坂井伍長は言われたとおりにした。彼女はこれまでになく張り詰めた緊張を肌で感じとっていた。
「全員、そのままで聴け。私はデリンジャー分遣隊の指揮官のローレンス・カーン准尉である。我が隊に重要な命令が下された。その命令により、我々はルテチアを脱出することになる。目的は援軍を見つけてくること……」そこで一区切りおいてから、さらに続ける。「皆も知っているとおり、世界のどこの都市とも連絡が途絶えている。今現在、この命令がいかにあてのない作戦であるかは改めて説明するまでもないと思う。だが、ルテチアの状況は想像以上に悪化しており、既にいろいろな面で限界に達しようとしている。我々はルテチアに残る人々に未来を託されたのだ。存在する援軍を見つけだし必ずや戻らなければならない」
カーン准尉は反応を待ったが、誰一人としてなにも言わなかった。あまりにも内容が極端過ぎて、どう反応していいのかわからないのだろう。
「既に我々は防衛軍から切り離された。今の我々の戦力ではルテチアにしてやれることは、もはやない。しかし、ルテチアで待つ人たちに援軍を連れて帰ってくることはできる。それが同胞を救う唯一の方法であり、それだけに我々の責任も重い。この通信を聴く者の中にも、ルテチアに友人や恋人を持つ者がいるだろう。しかし、今はその者たちを守るがためにも、しばしの別れに耐え、未来を切り開かなければならない。以上、任務遂行にあたり、各員の一層の努力を期待する」
通信が終わった時、各員の反応はまちまちだった。しかし、それをとやかくいう愚行は誰もしなかった。
「全車両に戦闘態勢を発令する。出発準備だ」
クルーが全員いっせいに駆け足で持ち場に戻り、火器の安全ロックをはずす。ランドクルーザーのエンジンが始動され、小刻みの振動が伝わり始めた。次々に、各車両から発進待機完了の報告が届く。デリンジャー分遣隊は、先頭から、AMX-30B2 ブレンヌス戦車、装輪式装甲兵員輸送車〈VBA装甲車〉、ランドクルーザー〈デリンジャー〉、同じく〈ライオット〉、そしてしんがりを軽装輪装甲車〈VBL装甲車〉が隊列を形成する。
「目的地は?」
コリンズ軍曹が進路を決定するために、質問した。
目的地については十分な議論というよりも直観に従うつもりだった。カーン准尉はある夢を見ていた。その夢によって目的地が変わっていた。兵員を満載した航空母艦がミストラル級強襲揚陸艦などを従えて大きな港に入港する夢を見たのである。航空母艦は地中海艦隊の旗艦である〈ジャンヌ・ダルク〉に間違いはない。航空母艦〈ジャンヌ・ダルク〉は原子力で動いている艦である。十年経過した今も燃料に不足することなく稼働しているとしても不思議はない。この時期に、この夢をみたのは、単なる偶然ではないような気がした。確かめる価値はあると確信した。直観がそのように告げているのである。航空母艦〈ジャンヌ・ダルク〉を捜すのであれば、目的地は南フランスの最大の港町であるマルセイユか、地中海艦隊海軍基地があるトゥーロンということになる。幸いなことに、マルセイユとトゥーロンは距離的には近い。
もしも夢によって考えを変えていなければ、目的地は英国になるはずだった。十年前にイギリス王立空軍はドラゴンとの戦いにおいてグレートブリテン島上空とイギリス海峡上空の戦いにおいて、グレートブリテン島本土の上陸阻止に成功している。現在は英国と通信が途絶えているが、生存者が残っている可能性がもっとも高いのは英国なのだ。英仏海峡トンネルを抜けることで英国に向かうのが当初の計画であったが、自分の直観を信じることとした。
「南東に向かう。全車、出発!」
カーン准尉はこれからの長い険しい道のりに際して、もはや余計なことは言わなかった。