似たモノ夫婦
数あるケーキの中で、皆様は何がお好きだろうか?
王道のショートケーキやチーズケーキ、いやいやチョコレートケーキにロールケーキ、モンブランにタルト、食べるのが難しいミルフィーユ。詳しくないけど、エクレアやシュークリームもケーキになるのかな?
私はね、若い頃からアップルパイが好きだ。紅玉の甘酸っぱいアップルパイ。パイ生地はさくさくでもしっとりでも両方大好き。カスタードクリームや、生クリームが入ってるのも大好き。
中でも一番大事なのは、肉桂。
たっぷり入ってるアップルパイが好き。フォークを入れた瞬間、香り立つあの刹那。月並みな表現だが、シナモンが憎かろうが好ましかろうが問答無用で巻き込むあの芳香。
抗えない。
この香りの前では、全てが無為。
「お前の奥さんさ、……浮気してるよ」
親友の言葉が私の鼓膜に届きはしたが、お気に入りの喫茶店でアップルパイを頬張る私には戯言に過ぎない。他人のことに首を突っ込んで、お節介を焼くのも大学から続く私の親友の美点だ。だけれど、私にはどうでもいい。
「そう」
「……ごめん、急にこんな話……」
「大事な話ってそれ?」
「ああ、そうだ」
「そう」
なんだ、そんなこと。
重々しく連絡を寄越してくるし、直接会ってからじゃないと説明しにくいって言うからわざわざデートの予定をキャンセルして来たのにな。奥歯で噛み締めた林檎が、ぎゅうと果汁を口内に広げる。お気に入りの、このアップルパイを食べてなかったら、私は不機嫌な表情を隠しもせずに晒しただろう。ふふ。
ただ幸か不幸か、私はアップルパイを食べている。シナモンの香りが鼻に抜ける。ふふ。笑った私を見て、親友は全く信じていないと受け取ったらしく、苦虫を噛み潰したような顔をした。
違う、違う。信じてないんじゃない。どうでもいいだけ。私と妻とはとっくの昔に形だけの夫婦になっていた。
親友にさえ言えないことだったけれど、何の支障もないのだから、今でも告げるつもりも必要性もない。だから、私は親友の顔を見て笑っていた。
その私を見て、親友は更に悲しげに、そしてどういったものか目を泳がせた。テーブルで汗をかくアイスコーヒーをぐびっと飲み干すと、親友はきゅっと両手を神様に祈るみたいに組んでそれに額をつける。
「信じられない、よな。」
「親友を疑うわけじゃないんだけど、ね。
俺には勿体ないくらい、俺にとって佳代は良い妻だから」
「証拠……証拠がある。そう言ったらどうする、尚」
「しょうこ……ねえ」
どうするって、私に聞くのか。どうしたってどうせ、その証拠とやらを見せるんだろう。佳代もやるならやるで、バレないようにしてくれたら良いのに。
スッ。
顔を上げると神妙な面持ちで親友は、自身のiPhoneを操作すると、嘘つきな私に差し出す。カメラ機能で撮影された画像が画面いっぱいに映し出されていた。
私の優しい親友はどうしてだか、私より悲しそうな瞳で私を見ている。
哀れんでくれているのか?
ごめんね。
私も若い恋人と、不倫している。
大学からの同級生でゴールインした佳代は仲間内でもどちらかと言えばしっかり者で姐御肌な女性だった。涙脆いところはあったけれど、芯が強くて負けず嫌いだった。
そんな佳代と違い、一回り離れた年下の恋人は甘え上手で、すぐ私を頼ってくれた。可愛い恋人のお願いを叶える度に、私は妻といる時には感じたことの無い、「心が満たされていく」のを現実に体感し、みるみる惹かれていった。
恋人は肉体関係を持つ前から、私が妻帯者と知っていた。それでも歯止めが効かずに、そういう関係になった。
人目を忍ぶうちに、妻と別れようか、恋人と共に生きようか、と悩んだ。周囲の目や世間体、何より法律が許してくれるのならば。残念ながら日本はそんな国じゃない。
ふふ、そうだな。今となっては、無駄な悩みだ。
ふふ。
見せられた証拠の画像には妻である佳代と、若い男が写っていた。
明るい昼間だと言うのに、ラブホテルに入る直前の二人は腕を絡ませ、仲睦まじく近い距離で寄り添っている。二人が男女の仲だと、画像からでもわかった。データの保存したファイル名から日付は三日ほど前のもの。加工されたものである確率も無くもないが、妻が日中何をしているかサラリーマンの私には知る由もないし、何より親友がそこまでして私に嘘をつく理由がない。
私は目に焼き付けるように写メを見た。ふふふ。
かつては俺に向けられていた、笑顔。それが画像の中で、私以外の人間に振りまかれている。
頭を鈍器で殴られた気がした。
がりっ。
アップルパイが無くなったフォークを奥歯で噛み締めた。アルミホイルと同じ味がした。嫉妬。ああ、嫉妬だ。腹の中側ならくつくつと煮えたぎり、手の平に爪を突き立てるこの感情。
私の中にまだこんな感情があったなんて。
ふふ。
ふふふ。
私が、妻を学生時代によくデートした遊園地に誘ったのはその週の週末だった。
裏野ドリームランド。妻は覚えているだろうか。私はミラーハウスが好きで、佳代もミラーハウスが好きで、鏡に映った自分達の中に違うものがいないか、探したりした。
ついぞ見つけ切れなかったけれど、もしかしたら混ざってしまったのかもしれない。
ふふふ。
■■■
懐かしい、けれど寂れた遊園地。今ではもう貸切みたいなものだ。佳代の手を引いて、二人でミラーハウスに入った。
スタート地点の入口から、私は少しずつ、少しずつ佳代に気付かれないように、繋いだ手と反対側の右手をカバンへ潜らせる。
「わっ、すご」
「うん、凄いね。佳代がいっぱいいる」
「尚も沢山いる」
「学生時代もよく来たよね」
「ね。懐かしい」
少しずつ、少しずつ。
会話をしながら。
「出て行く頃には自分が増えてるかもよ、尚」
「違うでしょ、佳代。人が変わるっていう噂だよ」
「そういえば、あんなにずっと探したけど、見つからなかったね」
「違う自分だっけ」
「そうそう、こんなにいたら紛れててもわからないよね」
少しずつ、少しずつ。
良い夫の笑顔を絶やさない。
少しずつ、少しずつ。
「もしかしたら、だよ? 佳代」
「うん?」
「もう紛れてるのかもしれないよ」
「え?」
少しずつ。少しずつ。少しずつ。
「佳代と何回も来たじゃない、二人で」
「ハマってたもんね」
「こんなにここにはいるんだから」
「だから尚が佳代に、佳代が尚に紛れてもわからないって?」
少しずつ。
少しずつ。
もう、いいかい。
もう、いいよ。
佳代は懐古に笑っていたが、私の表情の違和感に辺りを見渡す。虚像も一緒に見渡す。私は仮面を脱いだ。
「……尚? え、どうしたの?」
「佳代」
「やだ、なに?」
「考えたんだよ、佳代」
「尚?」
「佳代が悪いんだからね」
私は考えた。どうしたらいいのか、どうすべきか。そうやって考えているうちにこれからの方法ではなくて、「どうして、《そう》なったか」を裏切りのショックに身を任せ、嫉妬の波に揺れながら、ぐるぐるぐると考えていた。
答えは決まっている。
私は「尚」に戻らなきゃならない。佳代の混ざりこんでしまった「俺」ではなく、唯一無二の「尚」に。
ふふ、ふ。
私のただならぬ雰囲気と、ミラーハウスという特殊な空間に、佳代は青ざめる。後ろめたいことを佳代も頭の隅に飼っているからだろう。頻りに私の名前を呼ぶ。煩い。
私は逃がさないように繋いだ手に力を込めた。強く強く、力を込めた。同じくらい強く、カバンに隠しておいた柄を掴んだ。
「しょ、尚?」
「どうしたの?」
「なんか変だよ?」
「も、もう出ようよ」
「何か怖い」
ヒッ。
鏡に包丁を持った無数の私が舞い降りる。その煌めきに佳代は小さい悲鳴をあげる。がたがたがた。佳代の膝が笑い始める。ふふ。
ふふふふ。
まずは彼に焦がれた瞳に塩を塗りこもう。きっとしょっぱい涙が出る。それから彼に口付けた唇を縫い合わせよう。これでもう嘘もつけない。彼に伸ばした腕の皮を剥ぎ、ソーセージにして涙で茹でて、夕飯にしよう。でも縫い合わせてしまったから、口からじゃなくて喉から食べたら良いね。
ね?
「佳代がいけないんだよ」
人のモノを盗るから。
そういえば佳代もシナモンが効いたアップルパイが好きだったな。