#9
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……今日も、階下で物が割れる音がする。
小学校三年生になった井上七海は、今日も今日とて、真っ暗な部屋で一人……布団にくるまりながら、耳を塞いでいた。
『……もう嫌だ……もう嫌だ……もう嫌だ……』
まるで壊れたステレオのように、ぶつぶつと呟く小さな影。
『……朝になれ……朝になれ……朝になれ……』
朝になれば、あいつは寝ていて静かになる。
ママは働きに行けるし、自分は学校に行ける。
……だから、朝よ早く来て、と。
毎日、毎日、夜になる度願い続けた。
こんな狂った日々を送るようになったのは、いつからだっただろう?
七海の人生に陽があたらなくなったのは、小学校二年にあがったばかりの頃だった。
飛び抜けて裕福ではないにしろ、それなりに幸せだった家族が壊れ始めたのは、
父の浮気に母が気付いてしまった事がきっかけ。
陽気でお調子者だった父の事を、七海は大好きだったのに。
いや──
“大好きだった”から、人が変わったように暴力を振るう父が恐かった。
夫婦間の亀裂とか、父親が持っていた“裏”の顔とか、小さかった七海には到底理解できるものではない。
だから…
仕事を辞め、毎夜毎晩酒浸りになり、気に入らないことがあると母に罵声を浴びせ、すぐに手を出す父の姿を見た時には、“知らない人がいる”とさえ思ってしまった。
──それが、実に一年間も繰り返されてきたのだ。
幼かった七海でさえ……いや、純粋だった七海だからこそ。
父に抱いていた“好意”が180度変わってしまうのも、仕方の無いことだったのかもしれない。
母が、泣きながら踞っている姿を見続けていた。
父が、知らない女性と歩いている姿を何度も見てしまった。
“父”への嫌悪感が、“男”への不信感に変わる。
“男は信じられない”と、幼い女の子の視界が歪み始める。
それは……なんと哀しいことなのだろう。
『……………ママ…』
父親がいない時は、七海はいつだって母を気遣ってきた。いつだって、傍にいた。
しかし、それすらも七海の枷となる。
“あたしには何もできないんだ”
──無力感。
父親が帰ってくれば、また怯えながら隠れる時間の始まり。
悪夢のような日々は、まるで永遠とも思えるくらいに続いていく…
『………男なんて、大っ嫌い!!』
しかし、どれだけ七海がそう思おうとも、世界の半分は男でできている。
だから、学校で男子からちょっかいを受けたり、男子にイジメられる女の子を見たりする度に、七海は過剰に反応して男子と戦うようになった。
“同年代の男子なら、戦うことができたんだ”
戦う時以外は、まったくと言っていいくらいに接点を作らずに──
──いつしか、七海は女子のリーダー的存在になり、男子からは恐がられるようになっていた。
学校に行けば、女の子に囲まれて楽しい時間を送る。
家に帰れば、母の泣き声と父の罵声を聞きながら、震える時間を過ごす。
七海にとって、それはとても不安定な日常と化していた。
しかし──
人間とは慣れる動物だ。
そんな不安定な日常ですら、過ごしていく内に“普通”へと変わる。
……だから。
七海にとって、“男を嫌う”という感情は、ごく普通に抱くものとなっていたのだ。
“誰ちゃんが誰くんを好き”、などと聞く度に、七海は正気か?と疑った。
七海からしてみれば、男なんて生き物は、台所に蠢くゴキブリより汚い存在だったから。
日々、絶やすこと無く刷り込まれた“嫌悪”のイメージは、誰がどんな風に説いたところで、消える筈も無かった。
──そう。あの日、あの時までは。
『あ〜あ……嫌だな…』
冬場、立ち昇る息も日に日に白さを増してゆく、とある寒い日の夕方。
七海はランドセルを背負ったまま、近所にある公園へと足を踏み入れた。
……家の玄関を開けようとしたら、中から聞こえてきた怒声。
“目を逸らす”ことに罪悪感を覚えながらも、自分には何もできないことを知っていて。
自分が、言い争う父と母の姿を見る度に、母がすごく辛そうな顔をするから。
だから、一時的とはいえ、七海は避難した。
悪夢が幕を開けるまでの、ささやかな時間。
それは、カウントダウンともとれる時間。
『………………』
刻々と近づく夜を前に、嫌でも気分が落ち込んでいく。
怯えて、耳を塞ぎながら過ごす時間を目の前にして、いくら慣れたとはいっても不安にならない筈がなかった。
ともすれば、この避難している時間ですら、“自分は孤独だ”と独りで思い詰めてしまう……拷問の時間だったのかもしれない。
トボトボと肩を落としてベンチに向かうその姿からは、学校内で見るような強さは微塵も見て取れなかった。
──そんな七海が、不意に顔を上げた時。
『………ッ!!』
目的としていた、三つあるベンチの一つに、誰かがいた。
それは、華奢な体つきではあったけれど、間違いなく男。
七海と同年代くらいの、男だった。
『……くっ…』
目に見えて、七海の目付きが憎々しげに歪み、鋭くなっていく。
少年は目を瞑りながら、微妙に肩を揺らしていた。
ウォークマン……だろうか?
耳から伸びる線の先は、少年が大切そうに両手で抱えていて。──そして、傍らに立て掛けられた、大きめのケース。
『…………っ……』
少年の全体を認識した所で、黒い感情が湧き出てきた。
──ほら、こんな所にも敵がいる。
敵、敵、敵、敵、敵…!!
自分の、僅かに与えられた時間すら、邪魔をする。
その小汚ない存在が自分の視界に入っているだけで、今の七海には耐えられなかった。
だから──
『………フンッ!!』
一度、見下すように鼻を鳴らして、踵を返した。
そして、違う場所へ行こうと、歩き始め──……
『……………え?』
…──ようとして、それは叶わなかった。
ふと、背後から聴こえてきた、その“歌声”…
それを聴いた瞬間に、七海の体は磔にされたかの如く、一切の自由を奪われる。
(……なに……コレ…)
それは、優しく…
どこまでも、優しく…
本人の意思とは関係なく、染み渡ってくる歌声──
体が、心が、“聴かせてくれ”と求めた。
『………………』
ゆっくりと、振り向く。
少年は瞳を開けたと同時、空を見上げながら微笑んでいた。
そして、また──
『…………ッ!!』
瞳を閉じて、歌い始める。
その歌声に、七海の全身が粟立った。
……よくよく見れば、その少年の事を七海は知っていた。
いや、知っていたというよりは、多少の見覚えがあったような…
確か、隣のクラスにいた筈だ。
仲の良い友達の、カズちゃんの所へ遊びに行った際、『なんか話しづらい』と言っていた筈。
でも…
でも……
『………………』
あいつって、あんな綺麗に笑うような奴だったっけ?
……七海の記憶に、微かに存在する“あいつ”は、確か、昼休みに誰とも遊ばず、独りで黙々と本を読んでるような“暗い奴”。
それが、どうだろう…
今のあいつは、すごく綺麗に、すごく気持ち良さそうに、歌を口ずさみながら風に身を委ねている。
その光景は、“男嫌い”の七海が、思わず目を奪われてしまうくらい……綺麗なもの。
『……………ぁ…』
ああ、思い出した。
七海の頭の中に、少年の名前が浮かんでくる。
意識しない限り、男の名前なんか呼ばないから、すぐに出てこなかったのだ。
そう、あいつは──
あいつの名前は──
『……みかみ……はる…っ…ひっ……』
『─────え?』
名前の最後は、嗚咽に紛れて言えなかった。
七海の心の中の何れかが、揺さぶられて崩れ落ちた。
──泣きたくなんて、なかったのに…
──男の前で、泣きたくなんてなかったのに。
『あ、の……どうしたの?』
『うる、さいっ!!』
『……?』
『いいから歌えっ!!』
『…………』
『もっと聴かせろぉっ!!ばかぁ!!』
『……………うん。』
『っふ、ぇぇぇえ…っく…!!』
色んな事に、耐えてきた。
恐いこと。哀しいこと。寂しいこと。辛いこと。
けれど、やはりそれは、小学校三年生の幼い子供が耐えきれるものではなくて。
……そんな、心の柔らかくて脆い部分に、“それ”は染み込んできたのだ。
あろうことか、“大嫌い”な男の歌声が──