#8
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「………………」
七海が去った後、美空は再び、窓際から店の前を見下ろした。
まるで抱きすくめるような距離で、春彦が七海の頬に手を添えている姿が見えた。
「………………」
それは、まるでドラマのワンシーンのような、寄り添う二人…
会話は聞こえなくとも、雰囲気で分かる。……春彦が、七海の微妙な心情に気づいて、理由も聞かずに慰めているのだと。
チクリ──
見えない針が、胸を刺す。
ジクリ──
見えない傷が、泣き出すかのように疼いた。
……春彦は、優しい。
ぶっきらぼうで、素っ気ないけれど。春彦は優しいと、心が、記憶が、…今尚消えないぬくもりが、知っている。
でも、それが万人に向けられたものでは無いことも、充分に知っていて…
春彦が心から優しさを向けるのは、春彦にとって“大切な人”だけ。
……天の邪鬼ではない、正真正銘の優しさ。
春彦個人が、本当に100%の優しさを向けられる範囲の、その限界を知っているから。
だから、“誰も彼も”なんていい加減なものじゃない。
「………ハルくん…」
かつては自分も、その範囲の中にいたのだと…
そんな考えが浮かんできて、“かつて”という響きがまた、胸を締め付ける。
“かつて”、誰よりも近くにいた筈だった。
“かつて”、手を伸ばさずともぬくもりを感じられた人…
「………ぁ…」
春彦と七海が、車に乗り込もうとしていた。
運転席に乗る直前、ふと、春彦が目を細めながら二階を見上げる。
その際、美空と春彦の視線は確かにぶつかって──
「……ッ…」
──けれど、無意識に伸ばした美空の右手は、厚いガラスに阻まれた。
そして、気付く。
これが今の、二人の距離…
テレビに映る春彦と、幾度目線を合わせただろう…
スピーカー越しに聴こえる歌声に、何度恋しさを募らせただろう…
今、二人を隔てるこのガラスは、云わば違う世界との隔たりであり……
何度視線を合わせても、それは一方通行でしかない。
美空がいくら春彦を見つめても、春彦は“美空のいる方を見た”だけ…
届かない、手──
届かない、声──
──これが、“かつて”恋人として寄り添っていた二人の、“現在”だった。
「………ソラ…」
何か訳有りであろうと、誰もが声を掛けられずにいた美空を、寛人は背中越しに呼び掛けた。
「……大丈夫か?」
「…それは、私のセリフ。頬っぺた、平気?」
美空は振り返らない。
けれど、返事をしてくれただけで満足とばかりに、寛人は安堵の溜め息を吐いた。
「……へーきだ。ったく、七海の奴……本気でひっぱたきやがって…」
「………うん。」
「ほれ、それより仕事の準備しなきゃだろ?……外にはもう、誰も居やしねぇよ。」
「……………うん、そうだね。」
「気にすんな。……あいつの事なんて…」
「………………」
寛人の最後の言葉には応えず、美空は何かを耐えるよう、一瞬だけ目を閉じた。
「………………」
──そして、再び目を開いた時にはすでに、春彦の姿は何処にもない。
また、居なくなってしまった。
“また”──
「…………ハルくん……」
・・・・・・・・・・・
街を照らす陽が、ゆっくりと傾き始めていた。
とはいえ、夏も真っ盛りなこの季節。まだまだ空は、青い衣装を脱ぐ素振りもなく──
「あの、さ……春彦…」
ついぞ一時間前まで賑やかだった車内は、今は少々重苦しい沈黙が満たしていた。
その車内で、どこかソワソワしながら窓の外に目を向けていた七海は、意を決したように春彦を呼ぶ。
「ん?」
「あの、さ。その……あ、暑かったでしょ?さっきさ!」
「ん、ああ…まぁな。」
「だよねだよね!!あんな暑い中外に突っ立ってんだもん!!暑いに決まってるよね!?」
「………まぁ、誰のせいかは別としてな。」
「う゛っ…」
「………はぁ…」
七海が何をしたいのか。
きっと、この雰囲気を変えたいのだろうと、春彦は理解する。
もちろん、春彦にとっても、こんな空間が好ましいわけではないから──
「……どっか、涼しいところにでも行くか。」
七海の思惑に、素直に乗ることにした。
「あ……う、うんっ!!」
案の定、七海は嬉しそうに笑って、ぶんぶんと激しく、何度も頷く。
そんな七海を横目で見ながら…
「ははっ…」
お互い、昔から全然変わってないんだな、と…
春彦は、嬉しいやら悲しいやら、思わず苦笑を洩らしていた。
・
・
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「しっかし、また……綺麗になったもんだな。ここも…」
「あはは、そうでしょ?」
七海が、『良い場所を知ってる』と言い張るものだから、春彦は場所選びを完全に任せて、指示通りに車を走らせていた。
すると、辿り着いたのは公園。
昔、春彦の住んでいた家の近くにあった公園だった。
──あの頃に比べると、整備が行き届いて、格段に綺麗になっていたけれど。
「………………」
「ね、憶えてる?ここ、あたしとあんたの──」
「出会った場所、だろ?忘れるかよ。てか、忘れたくても忘れられねぇよ。……衝撃的な出会いだったからな。」
「えへへへ…」
照れ臭そうに笑う七海を見て、春彦の口許も自然と笑みを浮かべた。
「…………あの頃、か。」
「懐かしい……よね。」
公園の外周をぐるりと囲むように、行儀良く並んでいる木々のおかげだろうか?
七海が勧めたこの公園内は、確かに、喧騒に溢れる街中とは打って変わって、涼しかった。
木々の隙間からは、風。
強い“陽射し”は、緑のクッションを経て、柔らかい“木漏れ日”に変わる。
そんな、皮肉にも“都会のオアシス”になりつつある公園で、春彦と七海は…
「………………」
「………………」
……二人は、出会った当時を思い返していた。
・
・・
・・・
・・・・
・・・・・
今から、およそ15年も前の事。
この頃、小学校三年生になった三神春彦は、別段学校で目立つこともない、どちらかと言えば影の薄い少年だった。
快活に笑い、騒ぎながら外を駆け回る同年代の子供達から外れて、一人で本を読みながら過ごすような少年。
そんな態度が、時にイジメに繋がりそうな事もあったけれど、
何が起こってもあまり表情を変えない春彦は、飄々としてそれをやり過ごす。
……胆が据わっていた、といえば聞こえは良いが、ただ単に、物事に対して無関心な子供だったのだろう。
友達と呼べるような者もいない、教師達の目からすれば、少しばかり心配の対象になっていたかもしれない。
そんな春彦であったが、彼の家庭は普通……いや、もしかしたら、普通と形容するのは失礼かと思えるくらい、愛情に溢れた家庭だった。
両親や祖父母は、例外なく春彦を愛していたし、
春彦もまた、彼の目に映る小さな世界を愛していた。
ただ、少しばかり臆病で。
少しばかり、“他人”というものが恐かっただけで。
それなのに、案外我慢強く、強がりだった春彦は、ポーカーフェイスを“装っていた”。
そして、そうしている内に、本当に他人に関して無関心になっていたのかもしれない。
……いつの間にか、春彦は思っていたのだ。
──だいすきなお父さんとお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんがいるんだから、ボクはしあわせだ──
そんな、どこか内向的な春彦にも、嬉々として待ち望む“時間”というものがあった。
それは、毎夜訪れる時間。
春彦の父親が、夕食を終えて自室に戻ってからの、小一時間にも満たない素晴らしい時間。
『ねぇ、お父さん。きょうもボク、いっしょにきいていい?』
もはや、ただの合言葉と化した感のある、その確認。
それが指すのは、春彦の父親が趣味としている、何の変哲もない音楽鑑賞に他ならない。
春彦は、彼の家族が呆れてしまうほどの“大の音楽好き”だったのだ。
『お父さん、きょうはなにをきくの?ストーンズ?クラプトン?』
父親の趣味は、ジャズやブルースを始めとした、洋楽、邦楽。…果てには、インストゥルメンタルやオーケストラ等と、多岐に渡った。
『何のジャンルであれ、誰が奏でたのであれ、良いものは良い。良いものは、聴く人間……僕達を、その世界まで連れていってくれるんだ。その、曲の世界まで。』
…これは、父親の口癖。
様々な音楽との触れ合いが、後の春彦の音楽人生においてどれ程の意味を為したか。それは計り知れないものがある。
父親は、じっと耳を澄ましながら“音の世界”に浸る春彦を見て、心から喜んだ。
それはそうだろう。
自分の感じるものを、息子と共有できる幸せ。
だからこそ、春彦が父と過ごす一時間を心待ちにしているように、彼の父もまた、愛息子と過ごす一時間を大切にしていて。
毎日、一日も欠かす事無く作り続けていた。
───そんな日々の中で、春彦の気持ちがどう変化したのか。それは、春彦自身ですら良く思い出せない事だったけれど…
『─────』
ある日、いつものように父親の隣に座りながら、世間にはあまり知られていない、アメリカのマイナーな歌手──春彦は何故か一番好きだと言っていた──の曲を聴いていた時の事だった。
春彦は、その曲のサビの部分に合わせて、意味すら理解していないのに、英語の歌詞を口ずさんだ。
それは、歌詞こそあやふやなものではあったけれど、涼やかで美しい……まるで、川の流れのような声で──
──父親は驚き、母親を呼んだ。
その父親の慌てぶりに、祖父母まで付いてきて…
戸惑う春彦に向けて、父親が『もう一度聴かせてくれないか』と頼み、それに春彦が応じて歌い出すと、その歌声を聴いた母親や祖父母は揃って、感嘆の溜め息を洩らした。
……父親にも母親にも、それどころか、祖父母に親戚、どこを捜しても、音楽の才能に優れた人間は見当たらなかった。
だから、父は当たり前のように、春彦にその道の才能を期待してはいなかった。
しかし、どうだろう。
子供ながらに無邪気な歌声。なのに、この胸に響く“音楽”は…
その出来事をきっかけに、父親は春彦へ一つのプレゼントを渡す。
それは、子供用のギター。
別に、無理強いをするわけではない。ただ、父親はこう思った。
“いつか、この子が作った曲を聴けたら、どれほど良いだろう”
それがまさか、現実のものとなるとは、予想すらしないままに──