#5
それは、まさに圧倒的な光景だった。
そう。圧倒的で、瞬きすら忘れてしまうような、まるで時の流れから切り離されるような、そんな感覚。
「………っ……」
誰かが、ゴクッと喉を鳴らす。
柔らかいアルペジオから始まる、スローテンポの優しい曲。
耳障りの良いアコースティックギターの音色。
メロディーの狭間に絶妙に差し込まれた、指が弦を滑る際の“キュッ”という音が、堪らなく心地好い。
イントロのリフ(曲中に繰り返す印象的なメロディー)を数節聞いただけで、その技術が揺るぎないものだと素人でも分かる。
そして──
「──────」
『!!!!!!』
一分弱、長めのイントロの後に紡ぎ出された春彦の歌声に、その場にいた誰もが肌を粟立たせた。
“Cross Heart”と名を冠したその曲は、春彦が上京してから初めて作った曲だった。
友との友情の在り方を、青々しくも微妙に揺れ動く心の描写によって書き綴った曲…
(あぁ……なんて綺麗な歌だろう…)
そう、心の中で思いながら、恍惚とした表情で瞳を閉じたのは、店内に居た四十代のサラリーマン。
いつの間にか日々の忙しさに埋もれていた“大切なもの”が、再び沸き上がってくるような感覚に酔いしれる。
(…………すごい……)
耳から入って、胸の奥に響いてくる歌声に涙ぐむのは、二十代のOL。
彼女は先程まで浮き立っていた心を静め、開いたまま右手に持っていた携帯電話の電源を、無意識に落としていた。
「………………」
春彦の歌がすごい事くらい知ってた筈なのに…と、七海は目の前で一心不乱に歌い続ける幼なじみを見やりながら考えていた。
そして、今の今まで忘れていた。
三神春彦という人間が生み出す音楽は、テレビやCDを通すのではなく、こうして直に聴いてこそ本当の魅力が感じられるのだということを…
「……る……こ…」
“春彦”と、大志の口は誰にも聞こえないほどの音量で、自らも気付かぬ内に、その名前を形作った。
それは彼の目標で。
それは、彼の指標であって。
高校時代。初めて会った時から、“敵わない”と思った人物の名前。
初めて歌を聴かせてもらった瞬間には、“憧れ”を抱いた。
“夢”というものを語る人間は数多い。
“理想”。それは、語るほどに大きくなるもの。けれど、それを明確に見据え、叶えるためにひた向きな努力と時間を費やせる人間は、ほんの一握りにも満たない。
その極めて希少な人間を、大志は高校時代、初めて目の当たりにした。
それは、キラキラと輝きを放つ、この世のどれをも霞ませてしまうような、キレイナモノ──
「…春彦……君は今も……今ですら、もっと……」
─“あの頃よりずっと、もっと、眩しいよ”─
その背中に追い付きたくて、自分は頑張ってきた。
その事が間違いではなかったのだと、今、春彦からの贈り物を受け取って、大志は確信した。
追い付けない背中。大きな背中。憧れを…
それが今も在るということが、大志には何よりのプレゼントだった──
「──────」
ただ、歌う。
指先から伝わって、ギター全体に神経が通うような感覚。
ただ、歌い続ける。
不器用でもいい。未熟でもいい。拙くても、伝えたいから。
いかに春彦の技術が一般とは比べ物にならない代物だとしても、上を見ればキリがないだろう。
いかに春彦の歌が一般とは比べ物にならないクオリティだとしても、やはり上には上がいる。
けれど、それでも春彦は“特別”だった。
昨今の、所謂“アーティスト”と呼ばれる者達。彼らが提供する楽曲は、そこにダンスや演出などを盛り込んだ、“エンターテイメント”とも言える。
ありとあらゆる術を用いて、そのもの一つを完成された作品として提供する。
けれど、春彦は違った。
“三神 春彦”という存在を見い出した事務所の社長は、純粋にその歌に心を打たれたと言う。
飾られたものなど、何一つとして必要としない。それはまるで、自らの心の一部を切り取って声に乗せるような、まさに想いの塊。
口下手で無愛想な彼にとって、歌とは感情表現の手段であった。
熱を帯びた想いの丈は、何のフィルターも通さずに、ダイレクトに胸に届く。
憂いを帯びた“サヨナラ”の詞は、聴く者の傷を呼び起こし、そして膿を出させて癒していく。
「──────」
エンターテイメントとは呼べない、地味な旋律。
それでも、彼の紡ぎだす音楽を真摯に受け止めた者達は、否応なしに虜になった。
エンターテイナーではない。彼は…
三神 春彦は、生粋の“シンガー”だった──
・・・・・
・・・・
・・・
・・
・
「………っ…」
歌い終えた時には、オーディエンスは微動だにもしなかった。
店の窓から陽光が射し込み、それによって出来た影が淡く揺らめく。
「………………」
春彦のこめかみから、一筋の汗が滴る。
余韻という名の感動は、言葉にしなくても確かに、辺りに漂う空気の中へ存在していた。
「…………ありがとうございました。」
たっぷりと数十秒、その余韻という最高の賛辞を味わった後、春彦はそっけなく頭を下げる。
次いで、拍手も話し声もない静かすぎる店内を、ただ数多の視線だけをその身に受けながらカウンターへと戻った。
「………すごいね、春彦。」
七海が一言、本心を口にすれば…
「誰かさんが必死こいて頑張ってる時、俺だって遊んでた訳じゃないから。」
……その皮肉は、隣でゴシゴシと目元を拭う親友に向けて。
「…………これからもずっと、歌っていければいいな…」
温くなったアイスコーヒーを一口含んで、春彦はゆっくりと椅子の背もたれに身を沈めた──
・・・・・・・・・・・
「じゃあ、俺はこれから少し仕事があるから…」
あの後、店内に居た全ての客からサインを求められた春彦は、これに快く応じ…
これから仕事があるという大志の事情をきっかけに、店を出た。
「春彦…ありがとね。」
大志の言葉に、春彦は照れ臭そうに顔を背ける。
「電話するから、また…。同窓会もちゃんと来てよ?」
「わかってるよ。っていうか、その為に来たんだっての。」
「あはは!…うん、そだね。じゃあ、七海ちゃんもまた!」
「うん、仕事頑張って。」
「ん!」
笑顔で頷く大志。しかし去り際…
「……あ、春彦…」
「ん?」
少しの躊躇……そして。
「ソラのこと……だけど……」
「っ、大志くんっ!!」
「………………」
“ソラ”という名前が出た途端、和やかだった場に張り詰めたものが落ちた。
七海の一喝に大志は表情を陰らせ…
「………ん、なんでもない。それじゃあ…」
「……ああ。」
寂しそうな笑顔を残して、去っていった。
「………………」
「………春彦…」
大志の背中が見えなくなるまで、春彦はじっと無言で立ち尽くす。
心配そうな表情で七海は、それでも言葉を掛けること無く寄り添っていた。
「はぁ、んな顔すんな。」
そんな七海の顔を見た春彦は、先程までの無表情から一転して、笑顔を浮かべた。
それは、とてもじゃないが“晴れやかな”とは言えないものだったけれど──
「…………六年、だ。」
「………うん……」
「気持ちだって、いつまでも留まってる訳じゃないさ。」
「…………ん。」
「さて、と。……七海、お前はこれから何か用事があるのか?」
「ん?ううん、別に。仕事は連休取ってあるし。」
「そうなん?」
「……ここんところ忙しかったからね。同窓会もあるし、ちょうどいいかと思ってさ。」
「そっか。…なら、これからちょいとブラブラするか?車で。」
「あっ……うん♪」
『これ以上、この話題を続けたくない』
春彦の態度や言い回しから、そういった類いの意思を汲み取った七海は、それに応じて晴れやかな顔を浮かべる。
お互い、今何が必要なのかなんて考えるまでもなく理解してしまう。それほどに、長く濃密な時間を二人は共有してきた。
それは、単に顔色を窺っている訳ではなく。
ただ、必要なものを必要な時に与えられるよう、互いを気遣っているだけ。
……たとえ何年顔を合わせずとも、二人の間に存在するものは決して錆び付かない。そんなに簡単に潰えるものではない。
ある意味で、二人は二分にされた一つの人間のようなもの。……相手に対して、大袈裟でも何でもなく、自らの半身のような認識を抱いているのかもしれない。
「………………」
「春彦?」
七海を促して車に乗り込む際、春彦はしばしの間動きを止め、太陽も高く昇った空を見上げた。
「……………いや、何でもない。行こうか。」
「……うん。」
その、青く広がった空に何を見たのか。何を思ったのか。
それは、今は春彦本人ですら明確に掴む事の叶わない、僅か一瞬の憂い…
やがて緩やかに走り始めた漆黒のスカイラインは、降り注ぐ陽光を、どこか寂しそうにその鏡面のボディーに反射させていた──