#25
春彦が歌う姿を、まるで微動だにせず眺め、浸るオーディエンスの中に…
ただ一人、止めどない涙を瞳から溢れさせながら俯く、少女の姿があった。
長く艶やかな黒髪は、彼女の心情を表すように乱れ…
白く透明なその肌は、彼女の涙を受けて紅く色付いている。
──もう、いいよ…
ただ、一人。
──もう、聴きたくないよ…
このオーディエンスの中にあって一人、耳を塞ぐ。
──もう、分かったから…
……それは純粋で汚れ無き想い故に、誤って聴き受けた心の脆さ。
──もう、辛いよ…
春彦の歌声が止むと同時に、少女は音も無くその場を後にした。
・・・・・・・・・・・
『…っ………はっ』
曲を終えると、春彦は酸欠に陥りかけた時のように空気を貪る。
体は鉛のように重く、額からは汗が滴っていた。
『…はぁ……はぁ…』
ふと、気付けば数多の視線。眼下に広がる人の波。その個々に備わっている瞳の群れが、瞬きすら惜しんで自分を見ている。
──ああ、そう言えば、俺は今、ライブをしていたんだっけ…
途端に申し訳なくなる。
ついさっきの自分は、観客の存在など全く忘れていた。
ただ、このギターを用いて自分自身と対話していたに過ぎない。
さっきの曲は、誰の為に歌ったのか。観客の為じゃない。それは、自分自身の為。そして──
『………っ…ははっ…』
意味も無く、浮かぶ笑み。
気付いてしまった自分の気持ち。
この曲を作った事には意味があったのだ。
『………ふぅ…』
手元のギターを見る。
ギターは“もう満足だ”と言わんばかりに、沈黙を纏って鎮座していた。
そして、春彦もまた、満足していた。
もう歌う必要は無い。……少なくとも、今は。
『………………』
もう一度、顔を上げる。
未だに物音一つしないオーディエンスに向けて、せめてステージを去る間際には頭を下げようと。
そして、ステージを去ったその足で、向かわなければならないと。……そう、決意しながら。
しかし──
『……え?』
顔を上げてザッと視線を巡らせた時、視界の隅に消える影があった。
一瞬の残影。スポットライトの逆光でよく見えはしなかったものの、その長い髪のなびく様は、自分が今まさに心に浮かべている少女の姿と重なった。
……胸がトクンと音を立てる。
『………ソラ』
呟く。いつの間にか、この心の中に大きく存在していた愛しい名を。
気持ちに気付いた今だからこそ、会いたくて会いたくて仕方がない少女の名を。
『…っ!!』
……気が付けば、春彦は結局オーディエンスを置き去りにしたまま、小走りに舞台袖へと消えた。
呆然としたままのオーディエンスは、その一連の行動すら眺めていたいと、春彦の背中を目で追う。
──未だ、静寂は破られもしなかった。
『美那っ!!』
『あ、え…?』
『これ、頼む。社長に!あと、お礼も!!』
まるで異世界の住人を見るように、ぼんやりと立ち尽くしているスタッフやその他を掻き分け、春彦は美那の胸にギターを押し付けた。
美那は状況が理解できないまま、ただ流れに押されてそれを受けとる。
『じゃあな!!』
『あっ…はる…』
返事や会話すら覚束無いまま、春彦は着ていたエプロンを乱雑に脱ぎ捨て、私物を手に楽屋を飛び出した。
暗闇に染められたライブハウス。後方に現れた春彦の姿に、立ち尽くすオーディエンスは気付いていない。
まだまっすぐにステージを見つめ続けている彼らの後方を、風のように走り抜ける春彦。
『…………っ』
聴いていてくれたなら──
春彦は思う。
もし、あいつが聴いていてくれたなら──
この想い、伝わっただろうか、と。
『ソラ…っ…!!』
初めての感情。初めて覚える胸の切なさに、春彦は突き動かされる。
この深い想いはきっと、何でもない日常で培われた大切なものだと理解していたから──
・・・・・・・・・・・
『うっ……ひっ……うぅ…っ…』
楽器店の方を経由せず、直に外へと抜け出した美空は、そのままの勢いで夜道を駆け出した。
──来なければよかった…
心の底から、後悔の念が込み上げる。
──あんな三神くん、見たくなかったよ…
あんな、切なくて苦しくなる程に“想い”を歌う春彦を、美空は見たこと無かったから…
──もう、嫌だよ…苦しいよ……
彼が誰に向けて想いを歌っていたのか。そんなの決まってる。……彼女に向けて、だ。
美空の思考の中には、それが自分へ向けられているなどという考えは微塵も無い。……万が一にも、考えられなかった。
『……ぅ、くっ…はっ…』
思えば、美空が何故Blueにいたのか。それは、至極簡単な事だった。
春彦と同じ。春彦と同じなのだ。……我慢ができなくなった。ただ、それだけ。
絶望と後悔。苦しくて苦しくて……でも、それでも好きだった。好きすぎた。
自覚したら止まらない感情。一分でもいい。一秒でもいい。“春彦に会いたい”という一念だけで、美空は久しぶりに外の世界へと足を踏み出した。
……別に、春彦と向き合ってどうこうしたいという欲望ではなかった。ただ、会って顔が見たい。それだけのささやかな願いだけで、バイト先の楽器店まで来た。
すぐに、帰るつもりだったんだ。ちょっと店内を覗いて、それで帰るつもりだった。……けど、店の入り口に立て掛けられていた、“今夜の出演予定”と書かれた黒板を見た時、美空の胸中に生まれたのは痛みを伴う黒い感情。
“キュロット”と、最後に記してあった。
キュロット……陸の口から聞いた、“あの人”のバンドの名前。
どんな風に笑う人なのか。
どんな風に歌う人なのか。
春彦の隣を掴み取った人は、一体どんな人なのか、知りたくて。
美空は当日券を購入すると、初めてライブハウスへ入ったのだ。
二組目のバンド、三組目のバンド、四組目のバンド……興味の湧かない雑音を俯きながら聴き過ごし、跳び跳ねる観客に巻き込まれないように、最後方の壁際でじっと待つ。
五組目のバンド、六組目のバンド──そして。
『さぁ、いくよみんな!“『オレンジ・デイズ”!!』
ついに、最後のバンド──キュロットが現れた。
『……………』
顔を上げ、視線を中央に固定させる。七色の光に抱かれ、今までで一番すごい──まるで地鳴りのような──歓声に包まれ、軽やかに舞い、歌うヒト。
楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに、微笑んで。
──まるで、太陽のようなヒトだな…
そう、思う。
『……………』
勝てない。私は勝てない。このヒトには勝てない。勝てっこない。…美空の胸中に生まれでたのは、そんな敗北感。
私には、こんな表情はできない。
こんな風に、誰かへ何かを与えられない。
そして──
『……………』
──私には、こんな風に、彼と肩を並べて同じ夢を見ることは…できない…
『っ、……ふっ……ぅくっ……』
価値観とは何か──。その事の意味をまだ確立できていなかった、この頃。
誰にだって覚えはあるだろう。自身の立ち位置を確認する為、常に自分と誰かとを比較する。
美空にとって、春彦に出会ってからの日々は、まさにそれの連続だった。
無意識下でも、意識の上でも比べてしまう。
春彦の見知らぬ一面を知る度に、“七海ちゃんなら…”──共に過ごしてきた時間を比べて。
春彦の真剣な姿を見る度に、“男の子なら…”──支えるべき仲間に嫉妬して。
今もまた、美那と自分とを比べてしまう。“あの人なら…”──彼と同じ夢を見れるんだ。
不安定で、だからこそ不安だった。
自分はどうあっても、彼の“特別”になれはしないと思った。
過去を共有できない。
同じ未来も見れない。
現在という刹那、それだけを、少しの時間だけを共に過ごすであろう“その他大勢”の存在。
何も無い。何も無かったから。何も無いと思っていたから。何も無いと、誰よりも自分を理解しているって……そう、思っていたから。
だから──
『……はぁ、はぁ、…──ソラ』
『っ、え…?』
こうして、此処に彼がいるという事が、理解できなくて──
『はぁ、はぁ、っ……お前、案外足早かったのな…』
『っ、く……み、三神、く…?』
何で自分の傍に彼がいるのか、全然分からなくて──
『な……で……?』
『来てたなら来てたで言ってくれればいい。何も言わずに帰るなんて……って、ソラ…?』
『…っ…ふ…』
『泣いて、いる、のか?』
二人の息づかいに生じた白い吐息が、立ち昇っては消えていく。
『お前、何で泣いて……』
『───ッ!!』
ほんのささやかな月明かりが照らす、そんな夜。
『っ、来ないでっ!!』
『─────え?』
……美空は、初めて春彦を拒絶した。
『来ない…で……よぉ!!』
『……………』
自分が何者にもなれない絶望と、僅かな誤解が引き起こした苛立ちと…
全ての気持ちが混ざりあって映し出した美空の瞳には、“誰かのもの”である春彦の手は、酷く恐ろしいものに映ったから──