#13
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「………………」
「……すぅ……ん……」
七海の寝顔を間近で見ていると、どうしても懐かしさを感じる。……昔はよく、こうやって互いの布団に潜り込んだっけ、と。
「………………」
“あの後”。
美空が店を飛び出してからは、大変だった。
七海の行動を見て、幾分か冷静さを取り戻した春彦に対し、
七海はずっと春彦の腕にしがみついたまま…
なんとか時間を掛けて自宅に送ったものの、『帰らないで』と懇願されるものだから──
「………ふぅ……」
……一人で色々なことを考えたいという気持ちは、確かにあった。
けれど、それ以上に“七海を一人にはできなかった”
七海の母親は、よほど春彦を信頼しているのか、
六年ぶりに顔を見せた春彦と、その腕にしがみつき、表情を沈ませた七海を見ても一言…
『いつもごめんなさいね、春彦くん』
と言って微笑むだけ。
だから、こうして七海の部屋で二人……同じベッドで添い寝をしている。
恋人同士……それよりは、仲睦まじい兄と妹のように。
「………………」
カーテンの隙間、青白い月明かりが射し込んでいた。
春彦は七海を起こさぬよう、ゆっくりとベッドから抜け出すと、
窓際に寄ってカーテンを開けた。
大きな月が、空に浮かんでいる──
「……………」
およそ、言葉に表せない感情が全身に巡る。
それは切なさであったり、喜びであったり、悲しみであったり、愛しさであったり。
そして……ぶつける宛の無い憤りであったり。
巡る、巡る、姿形の曖昧な感情。
幾度となく後悔し、幾度となく忘れようとして。……結局、何年経っても消せない油性ペンの落書きのような記憶が、今も春彦の心を揺さぶり続ける。
今も。
今も……
「………平気だなんて、嘘だ…」
窓枠、月を見上げながらもたれ掛かる。
「……何かに必死になって忘れたつもりでも、忘れられるわけ無いんだ…」
……答えは、何処に在るのだろう……
「…………ソラ…」
呟き、胸を締め付けるその名前は……
「………ソラ。」
日々、忙しさに埋没して下ばかりを見ていた春彦の……
「……なぁ、ソラ…」
いつだって、すぐ真上に存在していたものだった──
「………………」
気が付けば、音の無い部屋で眠りに就いていた。
目を覚ます。そして、すぐに目に飛び込んできたのは、大きな満月。
「………………」
瞼が腫れていた。
それは、見なくても分かる涙の証。
泣きつかれて眠るなんて、一体いつ以来だろうか?
そう思い出そうとして、美空は笑う。だって、それは意識していなかっただけで、実際は定期的に繰り返してきた事だったから。
「……綺麗な月…」
切なさに涙するなんて、美空にとってはもう、特別な事でも何でもなかった。
春彦の歌声を聴いただけで、涙腺なんか簡単に弛んでしまう。
美空の涙──。日常的に繰り返されてきた六年間は、その涙を“特別”から“普通”へと変えた。
“心に被せられた蓋から、たまに溢れ出してくるもの”
……意味を考えたら、気がおかしくなってしまうから。
いつしか美空は、涙の意味を考えないようにしていただけで。
実際は…
実際は──
「………………」
…消えない傷痕?それは、違う。
…消えない想い。それが、正しかった。
美空の中に存在する想いは、色褪せるどころか、少しずつ強くなっていて。
──今日、春彦の存在を間近で感じた瞬間に、気付いてしまった。
その、涙の意味に…
その、強き想いに…
「…………ハル、くん…」
いつからだろう?……美空は再び、自身の心に問いかける。
今度は、明確な問い掛け。
答えの用意されていない、問い掛け。
「………ハルくん…」
いつからだろう?この、どこまでも広がる空を見上げなくなったのは、と。
私にとって、特別な意味を持つこの空を見上げなくなったのは、一体いつからだったろう、と。
「………………」
美空にとって、“空”というものが特別になったのは、春彦と初めて一夜を共にした時だった。
愛しい人の鼓動を聴きながら、愛しい人の体温を感じながら、
愛しい人と二人、何気無く見続けていた空と月。
窓枠という額縁に切り取られた一枚の絵画は、鮮烈に記憶に残っている。
それは、魔法のように全身へと染み込んできた言葉と共に。
『ソラは、いつだって傍にいてくれたんだな。……今、初めて気付いた。』
……彼はあまり、空を見上げない人だった。
彼が夢を追い求めて必死に努力していた時、彼はいつも下を向いていたと言う。
そんな、“彼”が…
『本当に大切なものを、俺は今まで見ずにいたんだな。……世界が、変わった気がするよ。』
そんな彼が、照れ臭そうに微笑みながら語った言葉を、今でも忘れない。
コンコンと湧き出てくる喜びや、身を包む大きな幸福感と共に、僅かに残った痛みを和らげるかのよう、優しくお腹へ添えられた大きな手の感触も…
大好きな、大好きな、“彼”の暖かい声も…
…その瞬間の全てを、忘れられる筈がない。
だって、それは“美空”の存在が“彼”にとって、特別なものになった瞬間で──
──“美空”が確かに、“彼”の世界へ存在した証だったから。
だから、“空”は…
自身の名に含まれた“空”は、美空にとっても特別なものになった。
その、“空”を──
「………………」
──いつから、見上げなくなったのだろう、と。
いつから、目を逸らしてきたのだろう、と…
見上げた、空。
見つめた、月。
問い掛ける、心。
……そのこと全てと向き合おうとすれば、雪崩のように押し寄せ、浮かび上がってくる“記憶”。
それは、合図。
──蓋が、開いた、瞬間だった──
「……………」
月を見て、“空”を見上げれば、頭に浮かぶのは“彼女”の鼓動と優しい香り。
春彦は思い出す。いや、遡る。
愛しい、日々。
大切な“彼女”との出逢い。
大切な日々の、記憶。
優しい、時間──
「………………」
目を瞑り、次々と浮かんでくる記憶を繋ぎ合わせた。
すると、出来上がったのはどこまでも綺麗で優しかった、大切な道のり。
あの頃、今はどこを探しても見つけられない、かけがえの無い“何か”が、確かに在ったんだ。
あの頃……
過ごしていく日々に。
この、心に。
確かに在ったんだ。“ソレ”は、確かに…
「…………ソラ」
「………………」
美空は見上げた。
その瞳に、枯れることの無い涙を浮かべて。
「………………」
春彦は見上げた。
その胸を、今まで決して気付こうとしなかった想いで満たし…
二人は見上げた。
今ですら、同じ“空”を見上げた。
同じ時間に、見上げていた。
そして──
──二人は浮かべた。
その“空”に、大切だった“あの頃”の記憶を…
遡るは、淡い日常。
なによりも、どこまでも、愛しかった日々──