柚香は魔王になりまして
そういえば、今際の際の言葉は何だったのだろうか。
豪奢な玉座の上に居心地悪そうに腰を預けた少女は、肘置きに頬杖をついたままじっと眼前を見据えた。
少女の座る玉座から段差を三つ降りた先には、その部屋を埋め尽くさんばかりに密集した闇色が蠢く。
一定の距離を保つそれらは皆、片膝をついた姿勢のまま俯き、ただその気配だけを少女の方へと集中させる。
怨めしそうに小さな口を真一文字に結んだその少女は、先ほど自身がうっかりしでかした咳払いによって、しんと静まり返ってしまっている目の前の情景に、より一層暗澹たる気分にさせられていた。
(何で、こんなことになっちゃってるんだろう……)
誰に聞いても、その答えは返ってきそうにも無い。『目を覚ませば見知らぬ天井』とは、一体誰の言葉だったか。
せめて天井であればもう少し心の準備が出来たのに、と少女は心の中で誰とも知らぬ誰かに呪詛を吐く。
そうして充分に心を落ち着かせてから、やっとその少女は絞り出すようにして言葉を紡いだ。
「えーっと、あの、何だかよく分からないけど、このたび魔王? に就任することになりました、近藤柚香です。よろしくお願い……します? 」
しばしの静寂の後に、地鳴りのような歓声と伴に柚香の視界一帯がうねった。
(私、こんな可愛らしい声じゃなかったよ!? )
自身の喉から飛び出した、とろけそうなほどに甘い響きに内心おっかなびっくりの柚香は、表情だけは微笑みをたたえながら、何とかその祝福を暖かく迎え入れることに成功したのであった。
◇ ◇ ◇
近藤柚香こと第191代目魔王は、どこにでもいるような平凡な高校生だった。
「……だった、はずなんだけどなぁ」
柚香は、自身の頭皮から生えているであろうその銀色の束を視界の端まで摘み上げた。
誰がいつ染め上げたのか、染めたにしてはあまりにも透き通ったその銀糸に、柚香は徐々に自身が置かれている状況を把握していく。
「いやそもそも、髪の毛こんなに長くなかったし」
腰元へと届かんばかりに流れる毛先を左右に散らして、柚香は周囲の様子を伺う。
現在、がらんとした部屋の中には柚香ただ一人で、あてがわれた空間も個人で使うにしてはあまりにも広い。
柚香がこの部屋へと連れてこられたのは、魔王への就任式のようなものが終わった直後であった。
ざざざっと潮が引くように退散していく闇色の集団をぼけっと眺めていた柚香の手を取ったのは、目元を仮面で覆った青年であった。
仮面の奥からの見下ろすような目線と、少し渋めの低い声から性別を男性であると断定する。
そして青年は柚香をこの部屋へと誘導すると、暫く待機の旨を告げてからふっと姿を消した。
退出などではない。その場で姿を消したのだ。
まるで煙が宙に掻き消えるかのようなその芸当に柚香は度肝を抜かれ、そしていよいよ、その大きな疑念が確信へと変わりつつあるのを感じた。
(ここは、私の知らない世界かもしれない)
柚香の生きてきた世界には、魔王というものなどは存在しなかった。
それが今、さも当たり前のように存在するかのような場面に置き去りにされた挙句、しかも柚香自身がその魔王であるらしかった
あまりに突拍子の無い発想ではあるが、もはや柚香にはそんな仮説を通さなければ現状を把握することが出来そうもなかった。
そして、柚香にはもう一つの疑念があった。それは、自身の身体についてである。
時折、視界に映り込む銀髪に到底見覚えなどあるはずもなく、青年に手を引かれていたときにも、やけにその身長差に違和感を覚えていた。
自身の肩から伸びた白く細い腕や、青年の手をきゅっと握りこんだ小さな掌の柔らかさなど、まるで他人の肉体を操っているかのような錯覚さえ覚える。
惜しむらくは、現在の柚香にそんな己の姿を確認するための術が無いことであった。
そんな柚香の漠とした不安を察したのだろうか、不意に視界の隅に映りこんでいた扉が、数度硬い音を響かせて揺れた。
「あっ、はい、どうぞ」
条件反射的に扉の向こう側の存在を受け入れてしまったことに、一瞬戸惑いを覚える柚香ではあったが、どのみち何かが起こらなければ何も分からずじまいなのだ。
出来るだけ無関心を装いつつも、開かれた扉の方へと意識を集中させる。
柚香の目の前に現れたのは、濃紺のワンピースの上に純白のエプロンを身に着けた少女であった。
左右で結い降ろした赤みがかった髪の毛が、動きに合わせてふわりと揺れている。
その少女はこつこつと革靴を鳴らしながら、ゆっくりと柚香との距離を詰めていく。
その姿がはっきりと見えてくるにつれて、柚香はその少女との間に存在する身長差にもやはり違和感を覚えた。
外見10代後半の少女の肩の位置にすら、柚香の頭頂部は届いていなかった。
その少女の覗きこむような視線がこちらへと突き刺さり、何とはなしに居た堪れない気持ちにさせられた柚香は、自然と上目遣いでその少女を見つめた。
零れんばかりの笑顔に僅かに緊張を含ませるその瞳は碧く輝いて、その少女の意思の強さをしっかりと感じさせた。
「本日より、魔王様のお世話をさせていただくことになりましたエレノアと申します。どうぞ宜しくお願い致します」
深々とした丁寧なお辞儀を受けて、柚香は面食らった様子で慌ててお辞儀を返す。
「あっ、私は近藤柚香っていいますっ 」
「存じ上げております。先程はお忙しいところご出席いただき、お疲れ様でございます」
「ど、どうもありがとう……ございます」
自身とそう変わらない年頃の少女のあまりに落ち着き払った態度と、諸手をぱたぱたと動かして思いっきりパニックに陥っていた自身を、やっと客観的に比較することのできた柚香は、今更ながらに羞恥心が体内を巡ったのか、真っ赤に染まった頬を隠すようにしてその面持ちを俯かせた。
「私めに畏まる必要などございません。どうぞ何なりとお申しくださいませ」
「えーっと、それじゃ、エレノアさん? 」
「エレノアと呼び捨てていただいて構いません。先代の魔王様からはそう呼ばれておりました」
「う……エレノアは私に会いに来たんだよね? 」
「はい、魔王様はお生まれになったばかりとのことで、ご不自由なことも少なからずあるとお聞きした次第でございます」
(魔王様……ね)
そんな大層なものを引き受けた覚えは無いが、どうやらお断りすることもできないらしい。半ば現実逃避気味に柚香は一つ、物憂げな溜息を吐く。
すると、今の今まであれほどの沈着した態度を見せていたエレノアが、途端におろおろと視線を泳がせる。
その瞳は不安げに揺れ、表情にも翳りが見られた。
「あの、私、魔王様に何か粗相を……」
「えっ? いや、そんなことは無いと思う、けど」
エレノアの声で現実に引き戻された柚香は、何故か浮き足立っているエレノアに首を傾げてから、ふと自身の行動を振り返る。
(もしかして、さっきの溜息……? )
エレノアには、自身が機嫌を損ねてしまったように見えたのだろうか。
ただ少し考え事をしていただけなのに、と柚香は言い訳混じりの自答をする。
そして、何だか重苦しくなってしまった空気を入れ替えるべく、今度は柚香自身の方から声を掛けてみることにしたのであった。
「ねえエレノア、私に何か用があるんじゃないの? 」
「は、はいっ!そうでございました! 」
柚香の掛け声により一転、その表情をぱあっと輝かせたエレノアに、柚香は今度こそ誰にも聞かれないように小さく安堵の溜息を吐いた。
「では魔王様、これからお部屋の準備をさせていただきます」
パチン、とエレノアが指を鳴らして見せると、ひとりでに開いた扉からは、ぞろぞろと闇色の生物が群れをなすかのようにして流れ込んだ。
地面を這うようにして移動するそれに、思わず柚香は声にならない声をあげてしまう。
そんな柚香の様子を知ってか知らずか、エレノアはその何かにてきぱきと指示を飛ばし始めた。
室内へと真っ赤な絨毯が運び込まれ、見るからに高価そうな調度品が運び込まれ、それらはあたかも元々そこに存在していたかのように整えられていく。
ものの数分もしないうちに、がらんとしていた部屋は、どこかの富豪のお屋敷のワンシーンを連想させるような一室へと変貌を遂げていた。
ひと仕事を終えた後の職人のような、満足そうな笑みを浮かべるエレノアの合図で、再びざざざっと引き上げていく闇色の生物を呆然と見送る柚香。
それらが部屋から全て退散したところで、やっと我を取り戻した柚香は、改めてその室内をゆっくりと見渡した。
棘々しさを感じさせるような煌びやかさではなく、落ち着いた暖色系の色合いでまとめられた室内は、柚香の好みに近く、心落ち着けるような空間であった。
「お気に召しましたでしょうか? 」
緊張の面持ちで出来栄えを尋ねるエレノアに、首をこくこくと上下に動かして肯定の意を示す。
あの自我を持っているかどうかすらも怪しい闇色の生物を言葉巧みに操るエレノアの姿に、柚香は一種の感動のようなものさえを覚えてしまっていた。
(貴方ってもしかして凄い立場だったりする? って聞くわけにもいかないし……)
一応、魔王付きのお手伝いなのだからこれぐらい当然なのだろう、と結論付けた柚香は、今度はきょろきょろとせわしなく周囲を見渡した。
「いかがなさいましたか? 」
「うん、姿見とかないかな、と思って」
「姿見ならあちらにございます。お運びいたしますので少々お待ちください」
飛ぶようにして部屋の奥へと向かったエレノアは、自身の背丈より少し大きい目のそれをひょいっと持ち上げたかと思うと、あっという間に柚香の目の前にへとそれを移動させた。
フレーム部分に銀の装飾が施されたそれは、どう考えても軽々しく持ち上げられるものではなさそうだが、まずは己の姿を確認するのが先なので、ひとまずその懸念は後回しにしておくことにする。
(……誰、これ? )
柚香の立つ姿見の向こう側に立っていたのは、儚げな印象を与える銀髪の少女であった。
純白の簡素なワンピースに身を包んだ少女は、まだまだ成長過程だとでも言いたげな肢体を惜しげもなく外界へと晒していた。
見かけは10歳ほどだろうか。思いっきり縮んでしまった背にショックを受けつつも、わずかな膨らみを湛えている己の胸部に柚香はひとまずの安心を覚える。
ひょっとすると、これからもっと大きく成長してくれるのかもしれない。
柚香は過去、一度捨てたはずの淡い期待を再び拾い上げ、そっと胸の奥へとしまいこんだ。
目線をまっすぐに戻すと、今度は誰とも知らぬ面相が映し出される。
その瞳は紫水晶のような淡い光をたたえ、今にも吸い込まれてしまいそうなほどの魅惑を放っている。
小さな顔はバランスよく、優秀なパーツによって細部まで彩られていた。
まるで一つの完成された芸術品のようなそれに、思わず柚香は釘付けになってしまう。
柚香がにっこりと微笑んで見せると、鏡の向こう側の少女は無邪気な屈託の無い笑顔を返す。
手を振ってみれば、今度は愛くるしさ溢れる姿のままに、手を振り返す。
「……あ」
そして、柚香は気付いてしまった。
姿見の片隅に映り込んだ、まるで小動物か何かを観察していたかのように目尻をだらしなく下げるエレノアの姿を。
思わず口元をこわばらせた柚香の表情と、それを察したエレノアの気まずげな表情が、同時に姿見へと映し出されることとなった。
◇ ◇ ◇
気まずそうに部屋を後にしたエレノアを見送った現在、この部屋には再び柚香一人だけとなっていた。
部屋の中央に放置された姿見を片付けるべく、柚香は両腕を回してそれをぐいっと持ち上げようとして、
「……無理だ」
ぴくりとも動かないそれを目の前に、今の失態を誤魔化すようにしてふうっと一息をついた。
姿見が重いのか、それとも今の柚香自身が非力なのかは分からないが、とにかく自力ではどうにもならないことだけは、柚香にも理解できた。
痺れる両手を握って開くと、少しだけ赤く腫れてしまった掌が顔を覗かせる。
(一体、何がどうなってるのやら)
この期に及んで初めて、柚香は自身の身に降りかかってしまっている出来事について、思考を先へと進めるための余裕を持つことが出来た。
いつも通りに就寝したはずなのに、目を覚ませば知らない場所で、しかも自身はその世界の魔王となってしまっていた。
しかも、鏡を見れば見覚えの無い幼女が、こちらを見返してくるときた。
「あー、訳がわからないよ。ほんと」
柚香は、まとまりようもない思考にやはり頭を抱えた。くしゃくしゃに揉まれた銀髪が、柚香の指の間を通り抜ける。
「魔王なんだから、魔法とか使えるのかな」
物は試しと、柚香は両腕をそれっぽくかざしてから、そっと小声で「灯りよともれ」と唱えてみる。
「……そんな上手い話は無し、と」
誰しも一度は憧れる願望がついに叶うかもしれない、と心を弾ませていた数秒前の己を柚香は呪いたくなった。
もし今の行為を誰かに見られていたとすれば、そいつの目を潰してしまいかねないほどに、柚香の心は荒んだ。
(というより、魔法が使えない魔王って結構危険なんじゃ……)
ふと辿り着いてしまった一つの結論に、柚香は胃の辺りがすっと冷えていくのを感じた。
もしもの時に己を守れないであるとか、そういった安直な問題ではない。
これは、魔王が魔王たるべき威信に関わる問題である。無能な上司を慕う部下などいない、と噛み砕いていえばそんな感じに近い。
「魔法が使えないからって、いきなり裏切られたりとかしないよね……? 」
柚香は大勢の闇色の生物が自身の身体を覆いつくすさまを想像して、ぶるっと身震いをした。
どうにも、柚香はあれらを生理的に受け付けることができないでいた。
それは、柚香が魔王である以前の世界において度々見かけた、カサカサと動き回る黒い嫌われ者を連想させるのが主な原因であったりするのだが、柚香自身は自覚できていなかったりする。
せめてエレノアのように意思疎通ができさえすれば、話し合いによる解決の道もなくはないのだが、何を考えているやらすらさっぱり見当もつきそうにない闇色の生物との和解など、柚香にはやり遂げる自信など微塵もない。
(まあでも、まだ魔法が使えないと決まったわけでもないし)
もしかしたら、別の条件が必要なのかもしれないし、そもそも、魔法が使えなくても特に困らない世界なのかもしれない。
気弱な部分も多い柚香ではあったが、その生来は比較的に楽観寄りな性格であった。
だからこそ、いきなりこんな状況に投げ出されても、ある程度の理性を保っていられるとも言える。
もうしばらくすれば、再びエレノアが世話を焼きに来るはず。柚香がこの世界に慣れていないことについては、エレノアも承知済みだった。
柚香は、今度はこの世界のことについて色々と聞き出してみようと、密かな決意を固めるのであった。
◇ ◇ ◇
「……魔法、でございますか? 」
「うん、エレノアは使えるのかなって思って」
柚香の予想通り、エレノアは屋敷内を案内するとの名目で再び部屋を訪れた。
柚香はそんなエレノアを強引に中に引き込むと、そのままあれこれと質問攻めを開始した。
案の定、質問の内容を図りかねるような、そんな怪訝な表情を浮かべるエレノアに対し、柚香はなるべく怪しまれないように、慎重に言葉を選ぶ。
「さっきの姿見を持ち上げたあれも、魔法でしょう? 」
「……も、申し訳ございません」
今更ながらに、姿見を元の場所へと返しておくことを失念していたエレノアは、柚香こと魔王様がそのことについて不平不満を述べているものと、見当違いな着地点を探してしまう。
対する柚香も、非常に言葉足らずなエレノアの返答によって、更に困惑する羽目になっていた。
しかし、流石に二回目ともなれば、柚香にも何故エレノアが気を揉んでいるのかくらい、一応の見通しが立つというものである。
(また多分、変な勘違いをしてる……)
ちらちらと上目遣いで柚香に視線を寄越すエレノアのそれは、叱られている最中の子供のそれと全くもって一致していた。
「それで、使えるんだよね。魔法」
「……はい」
「空とか飛べたりする? 」
「ええ、まあ。それなりにですが」
「そう、そうなんだ……」
何故か明後日の方向を見つめたまま恍惚の表情を浮かべる柚香に、エレノアはいよいよ混迷極まりない状況に追い込まれていく。
エレノアにしてみれば、空中浮遊など魔族である以上、魔法の力などに頼る必要すらない当然の技能だったりするわけだが、まあ魔王様が嬉しそうならそれはそれでいいか、と半ば投げ遣りとさえ受け取れるような結論を出した。
ちなみに、柚香の現在の身体も、魔族の長こと魔王であるからにして空中浮遊など造作もないことだったりするわけだが、それを柚香が知るのは後々のことである。
「ねえ、試しに飛んでみせてよ」
「は、はあ……」
柚香は期待に満ちた眼差しをエレノアの方へと向けた。自然に胸の前にぎゅうっと握られた両掌と、上目遣いで小首を傾げるその姿は、エレノアの慈愛心を打ち抜くのに十分に十分過ぎるのではあるのだが、もちろん当人には知る由も無い。
エレノアはどうも釈然としないといった様子ながらも、その表情をきりりと引き締めると、少しだけ身をかがめた後に、ゆっくりと息を吐いた。
その瞬間、ぶわっとエレノアの背中が膨らんだかと思うと、勢いよく闇色の双閃が噴き出した。
霧のように拡散されたそれは、一瞬にして本来あるべき形状を取り戻したかと思うと、周囲の空気を巻き込みながら水平に伸ばされる。
触れるだけで破れてしまいそうなほどに薄い飛膜とそれを支える滑やかな骨格は、横幅で言えばエレノアの全長の2倍はあるだろうか。ばさりと乾いた音を響かせて大きく広げられたそれは、さながら蝙蝠の翼のようでもあった。
(……って、翼!? )
予想外の事態で唖然とする柚香を背後に、エレノアは数度、その翼をはためかせてから宙へと舞い上がった。
そして、天井すれすれにまで上昇してから、すいっと室内を一周するかのように滑空状態のままに旋回する。
その状態から、柚香の正面へと舞い戻ったエレノアは、左右に大きく広がった翼を邪魔にならない程度に折り畳んでから、不安げに口を開いた。
「いかがでしたでしょうか? 」
「ええっと、今の、魔法なの……? 」
「いえ、その、違うんです…………うわあああっごめんなさいごめんなさいっ! 」
柚香が口にしたもっともな疑問に、エレノアは一瞬ぽかんと口を開き、少しの時間を置いてから目をぐるぐると回してうろたえ始めた。
先程の会話の流れから察するに、ここは飛行魔法を使って浮遊すべき場面であるはずなのだが、微妙に意思疎通の取れていなかったエレノアは、柚香こと魔王様の若干に白けた反応により、自身のしでかした過ちをその身でもって体感することとなった。
(この子、もしかしてアホの子なのかな……)
顔を両手で覆い隠して床の上を転がり回るエレノアを目の前に、柚香は今までのやり取りから導き出した総括を、心のどこかに書き留めておくことにするのであった。
◇ ◇ ◇
重ねに重ねたミスで気落ちするエレノアを柚香が必死に慰めること数分。
なんとか平常心を取り戻したエレノアは、やっと本来の目的を果たすべく部屋から柚香を連れ出すことに成功した。
否、柚香がエレノアを部屋から引きずり出した、と言った方が正しいのかもしれない。
(……つ、疲れた)
柚香は、本日何度目か分からない溜息を、そっと心の中で消化する。
エレノアは、典型的な張り切るほどに空回りするタイプのようだった。
それは、悪意による結果ではないだけに、どうにも柚香の方から指摘しづらい部分でもあった。
(とは言え、ずっとこの調子だとこっちが先にへこたれそう……)
柚香がちらと目線を前方に向ければ、顔を綻ばせながら旅行のガイドのように熱弁を奮うエレノアの姿が視界に映る。
柚香こと魔王様のお役に立ちたいというエレノアの想いは伝わるのだが、とめどない思考が遮るせいなのか、肝心のその内容が全く頭に入ってこない。
柚香はそのことについて申し訳ないなと思いつつも、エレノアとの間に確かに存在する壁に頭を悩ませる。
(もう少し、気軽に接してくれれば有難いんだけどね)
エレノアにとって柚香こと魔王様は憧れの対象なのだろうが、柚香にはそんな自覚など欠片もない。
柚香こと魔王様の期待に応えようとするエレノアのように、エレノアの期待にも柚香は応えなければならないのだろうか。
柚香がそんな思索に耽っている間にも、エレノアの案内は続く。そして二人が最後に辿り着いたのは、柚香が最初に目覚めた大広間であった。柚香の視線は、自然と部屋奥に鎮座する玉座へと注がれる。
先ほどまで部屋を埋め尽くさんばかりに蠢いていた何かの群集は、今や影も形もない。
今、この大広間はたった二人の少女によって、新たな契りの場へと変貌しつつあった。
「……私、嬉しいんです」
「うん? 」
ぽつりと言葉の端から零れ落ちたようなエレノアの呟きに、柚香はたゆたう思考を中断させ、意識をそちらの方へと向けた。
「昔の私は、内気で引っ込み思案で、それにいつも誰かに頼ってばかりで……。このような、魔王様のお役に立つことが出来るだなんて、あの頃は想像すらしていませんでした」
遠くを見つめるエレノアの優しげな瞳は、深海のような碧色に輝く。その目尻にはうっすらとしたしずくが溜まり、上擦った声にも強さが増す。
「周囲にはいつも馬鹿にされてばかりでしたけど、先代の魔王様はそんな私を可愛がってくれて、それでようやく私は自分に自信を持つことが出来たんです」
そこで言葉を区切ったエレノアは、一転、沈鬱な表情を浮かべたかと思うと、唇をぎゅっと噛み締めた。
「でも、新しい魔王様のお世話をさせていただくにあたり、再び私は何も分からなくなってしまいました。まるで、昔の私に逆戻りしたみたいでした。どうしてこんなにも頑張ってるのに、私は魔王様のお役に立てないんだろう、ってずっと考えました」
「あー……」
それはよくある話だよね、と相槌を打ちそうになって、その対象が自身に及んでいると気付いた柚香は、慌ててその口をぐっと噤んだ。
ここで下手に話の腰を折ってしまっては、エレノアの本心に辿り着けなくなってしまう。
それこそ、本当の期待の押し売りになってしまえば、その壁はさらに厚くなるだろう。
「エレノアは、私の役に立ちたかったのね? 」
「私は、わたしはっ……! 」
エレノアの嗚咽交じりの声が、たった二人だけの空間を伝わる。
床へと両膝を力なく投げ出すエレノアの赤く腫らした瞳からは、只々、とめどない涙がこぼれ続けた。
言葉半ばで折られたエレノアの本心を、柚香は理解することが出来なかった。
理解することは出来なかったが、理解することを放棄してはいけないと思った。
残された彼女との距離は、柚香から歩み寄らなければならない。
(ハンカチがあれば、貴方の涙を拭ってやれるのに)
柚香は願った。願うだけで十分だった。柚香の手には、真っ白なハンカチが握りしめられていた。
柚香は、突然の出来事に驚くこともなく、自然な動作でエレノアの目尻にそれをあてがう。
「ありがとう、ございます……」
「これで、これだけで充分なんだよ」
それ以上は、何も言わなかった。柚香は、優しくエレノアに笑いかけた。
そして、その自身の小さな身体をエレノアに押し当て、ぎゅっとその身体を抱きしめる。
火照った頬に自身の頬をすり合わせると、熱いとさえ感じるほどのエレノアの体温が柚香の頬も紅色に染めた。
柚香は、エレノアが自身で解答を導き出すという可能性に賭けた。
それがいつの日になるのかは分からないが、エレノアなら必ずできる、と信じた。
「――私、決めました」
その一言で、柚香は確信した。エレノアからそっと身体を離して、玉座への段差を一歩ずつ上がる。
深々とそこに腰掛けた柚香の眼前には、たった一人の少女の姿があった。
エレノアは片膝をつき、深く息を吸い込んだ。そして、その迷いの断ち切れた眼差しをまっすぐに柚香の方へと合わせる。
「全て、初めからやり直してみせます。さっきまでのエレノアは、先代の魔王様だけのものでございます。これまでの不躾な態度、お許しください」
柚香は、本心からの祝福とともに微笑んだ。
そして力強くゆっくりと頷いてみせると、エレノアの表情が緊張から破顔の面差しへと変わる。
「それでは、改めて宜しくお願い致しますね。私の魔王様」