01 震える瞳
裏野ハイツ公式設定
【101】号室 50代男性、会社員
いつもにこやかに挨拶をしてくる、感じの良い男性。 同居人が居るという話だが、そちらの姿は一切見かけない。
夜の電車の中、つり革に体重をかけることで眠りをせがむ身体を無理に立たせる。周りを見れば、私と同じように疲れているのだろう、座席を己の墓場として、屍のように俯き眠りについている同年代の人もチラホラといる。そんな人たちがいる一方で、こんな時間なのに体力が有り余っているのだろうか、揺り籠で泣き叫ぶように大声ではしゃぐ若い男女の一団もいる。迷惑だとは思わない。眠らないための目覚まし代わりには丁度良い。
若い彼らから見れば、無理に立っている私も眠りこけている私と同年代の人も同じように見えるだろう。私は立っているだけに、さしずめリビングデッドとして捉えられているのかもしれない。動く死体と眠る死体が詰まった箱、そう思うとゾッとする。
生きる活力を取り戻すためにスマートフォンの待受画像にしている写真を覗く。数十年前に現像した写真をデジタルデータにし直したものだが、そんなことをしなくても私の中では色褪せずにその時のことを思い出せる。写真の中の彼女は昔も今も私を元気づけるように笑顔で見つめてくれていた。
予定の駅に着くアナウンスが鳴り響き、私を思い出の世界から引き戻す。やや大きめのスマートフォンを片手に微笑み続けていた50歳代の男性を、つまり私のことだが、男女の一団の一人が気味悪そうにみている。
「おっと」
少し気恥ずかしくなって急いでスマートフォンを内ポケットにしまい込もうとするが、年齢に似合わない大きめの飾りがついたストラップがスーツの端に引っかかってしまう。ストラップをしまい直すと、駅への到着を知らせるチャイムが電車内に鳴り響く。若干紅潮した顔を誤魔化すように、ドアが開くと同時に軽く咳き込みながら、慌てた足取りで電車を降りた。
裏野ハイツ101号室。ドアの横には既に文字がかすれて見えなくなった表札がつけられている。そのドアの前で改めてスマートフォンの待受画像を見る。
このハイツで暮らすようになって、この写真とほぼ同じだけの年月が経っていると思うと感慨深くもある。別段このハイツの間取りや環境が便利というわけではない。探せばもっと良い条件のところが見つかるとは思うが、それでも引越したりせずに、だいぶ長く住み続けている。
きっとこのハイツ自体にではなく、ここにある思い出に格別なものがあるのだろう。自分の人生の半分も過ごしていないが、自分の人生の全てがここにある。写真とともに電車での一幕を思い出し、一人声をあげて笑ってしまう。他人の視線を過剰に気にした私も、写真の中の愛しい人の笑顔に笑い返す私も,まるで青春時代のような初な反応だったことに気づいた。私は自分が思うよりまだまだ若いのかもしれない。
はやくスマートフォンの中ではない実物の彼女の笑顔を見ようと、ドアのノブに手をかける。部屋の中にいる同居人に思いを馳せ、このハイツに住み始めた頃の若い私を思い出す。
*****
30代で仕事にも慣れた頃、青春というにはだいぶ出遅れた恋をした。青春ではなかったかもしれないが、熱愛ではあったと思う。付き合い始めて間もないのに、慣れ親しんだ一人暮らしの部屋を引越し、すぐに同棲可能な部屋に移ったのだから。
裏野ハイツ101号室。そのドアの前でドア横につけてある表札を見やる。そこには僕の名前と恋人である同居人の名前が並んで書いてあった。それだけで表情が崩れてしまう。結婚こそまだしていないが、名前が並んで書かれているだけで、分かちがたい絆が生まれたような気がした。
「ただいま」
僕のその声に明るく満悦な笑顔で答えてくれる彼女。幸せの定義など人それぞれだと思うが、少なくとも僕は幸せだった。
同棲し始めて1月後、相も変わらず幸せだった。夕方まで降り続いていた雨もやみ、帰る時間には晴れているなど天も祝福しているのではなかろうか。マナーの悪いことだが、浮かれた気分に手に持つ傘を軽く降って歩いてしまう。不意に人の声ではない叫び声が響く。足元を見ると、片目から血を流している猫が痛みの大きさを鳴き声へと変えていた。
「ゴメン。大丈夫かい」
つい心配になって、猫に声をかけながら手を伸ばす。すると、猫はスルリと逃げ去り、痛みと恨みを込めた一鳴きをこちらに送るとビルの隙間へと消えていった。猫が消えた足元に目をやると、手に持つ傘の先に血と共に小さい球体がついていた。
「ひっ。……まさか、僕があの猫の目を」
悲鳴が喉からせり出して、無我夢中で傘を激しく振り、傘の先についたそれを振り落とす。あの球体が何だったのかに思い当たり、猫への謝罪の気持ちとともに気味悪さがこみ上げてくる。浮かれた気分は消え去り、急いで家路を辿る。ハイツに着くやいなや、罪を告解するように彼女に猫のことを話すと、彼女は僕を慰めるための微笑みを浮かべてくれた。
彼女は気を取り直して、僕を元気づけようとリビングのテーブルの上に置かれたケーキを満面の笑みで見せてきた。彼女が言うには今日は同棲1ヶ月記念日らしい。同棲1ヶ月目であることは知っていたが、そのために準備をしていたとは気づかなかった。そんなお祝いの前に暗い話をしてしまった僕自身を叱責したかった。
「ありがとう、嬉しいよ」
彼女の心くばりに答えようと、猫のことは一旦心の隅に置き、彼女と同じく笑顔を浮かべる。記念日のお祝いの締めとして、お互いに肩を抱きながら1枚の写真を撮った。写真の中の彼女の笑顔も僕を励ましていた。
次の日から、おかしな感覚がつきまとうようになった。ハイツにいると誰かの視線を感じるのである。道路に面した角部屋なのだから通行人の視線が入ってしまうのかもと思ったが、その視線が途切れることなく常に感じ取れる。隣で眠る彼女は楽しい夢を見ているのだろう。ニコニコとした寝顔を見ているときは視線も気にならなかった。
次の日も、視線が僕を捉えている。僕は視線に耐えられなくなり、部屋の窓という窓に厚手のカーテンを取り付けた。それでも視線はなくならず、気が狂いそうだった。ドアに付けられた覗き穴も、洗面台や洋室にある化粧台の鏡さえにも覆いをかぶせた。天井や壁に隙間があるのかとも疑い、どんな小さな隙間も逃さずに徹底的に調べていった。通行人なんかじゃない。人の視線なんかじゃない。あの猫だ。あの猫が僕を見ている。
次の日も、視線が僕を貫いている。暗闇の奥から猫が見ているのかもしれない。部屋の角の暗闇や家具の影がなくなるように布で覆っていったが、影はなくならなかった。僕は正気を保てているのだろうか。わざとじゃないと言っても通じないだろう。どれだけ謝罪の言葉を紡いでも伝わらないだろう。あの猫はもうビルの暗がりに消え去ってしまったのだから。
次の日も、次の日も、次の日も……。どこから見られているのかわからない。それでもまだ見られている。
数日前から始まった僕の奇行に、彼女は心配をさとられないようとする作り笑顔を貼り付けている。心配そうに見つめる瞳は震えているようだった。
僕はついに見つけた。彼女の瞳の中にもう一つの瞳があった。それはまるで彼女の虹彩がブレて震えているように重なり合っていた。丸い瞳孔と重なり合っている細く尖る瞳孔に僕が映る。彼女は心配そうに見つめながら更に顔を近づけてくる。
あぁ、でもどうすればいいんだ。彼女の瞳を消すことなんてできない。彼女の笑顔を潰すことなんてできない。
「ねぇ、大丈夫?」
*****
「ただいま」
私はハイツのドアをくぐると、リビングの電気をつける。リビングに置かれたあの頃と変わらずにあるテーブルに鞄を置き、そのまま奥の洋間へと歩を進める。私はそこに彼女の変わらない実物の笑顔を見つけ、私の幸せが彼女に伝わるように微笑み返す。
「ただいま」
彼女に再度帰宅の挨拶をすると、彼女の大きな携帯電話が充電中のランプを灯して置かれているのが目に入る。その横に私のスマートフォンを並べる。五十も過ぎてペアルックとは恥ずかしいが、大きめの球体飾りがついたお揃いのストラップが仲良さそうに揺れている。私が右で、彼女が左だ。
笑顔にとって目は重要な要素という話。