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作者: 柴田 透

 真鶴の線路裏にいくつもある細道を選びながら車で進んでいった。国道に股がる歩道橋を目印に小学校の細道から真っ直ぐに上り、住宅地を突き進む。車は徐々に揺れて道路の振動が全身に伝わってくる。知らない土地で古い記憶を頼りに進むと、目の前の景色に見覚えがあるような、初めて見るようなあやふやな記憶に変わってしまい、車を走らせるごとに自分の記憶が塗変わっていくような不安な気持ちが増してくる。と、運転をしながら彼が言った。

「だいたい二十五年くらいかな。君が生まれる前だね。…そのとき一度来ただけだけど、確か、さっきの小学校の右の道を車で上った気がするんだよな。遠くから来てくれた人たちを何回にも分けて俺が車で迎えに行ったからそこだけは間違いないと思うんだけれど」

しかし、始めの道は絶対にあっているという妙な確信を持って、道がわからなくなると、また歩道橋を頼りに小学校の前まで戻り、また一から上り、少し上がると今度はこっちの道に進んでみようと言って進むが急な斜面に並ぶ家々の間隔や道が狭まる。今朝伊東で借りた黒の軽自動車が一台ギリギリ通れるほど狭い道だ。まだ道があるだろうと思って進んでみても、着く先は雑木林になってしまった。

「これは…また戻ったほうが良さそうですね」

「ちょっとUターンして左にあった道を降りてみよう」

 ガコンガコンと車が音を立てながらバックし、家の駐車場のようなスペースに少しお邪魔しながら、左にハンドルを切った。今度は下り坂だった。家のあいだをすり抜け、両側に垣根が続く道に出た。ゆっくりと車を走らせる。針葉樹の植木が長く続く、彼女が窓を開けて少し手を出すと、すぐ葉にさわれるほどだった。道は非常に悪い、小石の上を走る音がした。ジャリの音が耳に響くなかで、遠くから歌声が聞こえた。なんて言っているかは分からないが、女の人の声がする。

「どうしよう、人が歩いているかもしれない」

「え、すれ違うかな、道をふさいでしまったらどうしよう」

 そんな心配がよぎったが、取り敢えず今は前に進むしかない。しかし、声は相変わらず聞こえるものの、その声の主は現れない。近くなる声は相変わらず何て歌っているのかは聞き取れなかった。サイドミラーが木々に擦れる。しばらくしてから右側に、大きな荷物をしょって手ぬぐいと麦わら帽子をかぶった女性らしき人が歩いてきた。

「いやーどうしよう…」

 彼は車の速度を緩めた。ガリガリという音に気づき、下を向きながら歩いていた女性は顔を上げたが、道に彼女が通り抜ける隙間はない。彼が彼女に困り顔で会釈をすると、彼女は手を振ってこちらに進めというふうな合図をした。車は速度を緩めたまま彼女に近づく、すると彼女は垣根の方に背中から寄りかかり、ぐっと、大きな背負い籠をその木々たちに押し付けて、体を預けた。垣根はその部分だけ大きくへこみ、彼女を覆う。すれすれで彼女を横切ることができた。車が通りすぎる時に彼女の声が鮮明に聞こえたのだが、童謡のようなものを歌っていることがなんとなくわかった。過ぎてからもサイドミラーには大きな籠から足が生えたような後ろ姿がしばらく見えていた。

「あのおばさんスレスレで危なかったけれど、垣根にはこんな使い方もあるのか」 

 そう言いながら、彼は安心したような笑顔で苦笑していた。

 彼女はあのおばさんが何を歌っていたのかが気になって、頭の中で聞こえてきたメロディを再生していたが、歌詞がまったく出てこなかった。 

 垣根が終わると、また住宅地に出たのだが、それは既に今日何度か目にした光景であった。

「また振り出しに戻ってしまった…」

「まったく迷路ですね、このあたりは。細い上り坂を登っているだけのはずなのに」

「とりあえず、また小学校に戻ろう」

 そう言って、平地まで降りて、歩道橋に向かって走らせた。

 

「もうここしかないな」

 小山を登りきって、頂上にある最近できたような真新しい火葬場の横に車を止めた。少し待っていて、そう言って彼はエンジンを切り車からおりて、周りを歩いてみた。火葬場の右手に車の通れないほどの細い砂利道が斜めに続いているのがわかった。先に進んでいってしまう彼の後ろ姿を見て、助手席に座っていた彼女も、しばらくして車をおり、小道に入ろうとする彼のもとへ向かった。

 しかし、広い道路を曲がり小道に向かう手前彼女は立ち止まり、その目前の光景に目を奪われた。いつの間にか自分が想像していた以上に高いところまで登ってきていたのだ。広大な夏の山麓の斜面から吹き上げる涼風、鳥肌が立った。その眼窩には相模湾に臨む巌しく突出する真鶴岬、空の青さを全面に吸い込んだ広やかな海の中に先端の三ツ石まで鮮明に見える。水平線が本当に弧を描いているのだ。そして、彼女の足元には海に向かって蜜柑畑が、点々とある家を包み込むように大きな扇を描いて傾斜を緑に彩っていた。彼女は口を開たまましばらくぼうっと動けないでいた。

 小道に入っていた彼が戻ってきて、彼女の横に立ち同じ光景を眺めた。

「いい景色だろう、俺も久しぶりに見るよ。親父は、ここからの景色をずっと描いていたくてここに住むようになったんだ」

「…………。」

「先ほど、そこの道に入ったらこの辺に住んでるっていう人がいたから聞いてみたよ。やっぱり、俺の知っていた時に比べると、道や様子がだいぶ変わっているようだ。道理で、昔のうる覚えじゃ目的地にたどり着けないわけだ」

「…この辺りで間違いはなさそうなんですか」

「そうだね、この景色には見覚えがある。彼女は…生きていたらもう六十歳くらいになっているだろうか。彼女一人、まだあの家に住んでいるのだろうか…それとも…。」

「家が、見つかるといいてすね」

 二人とも下の家々を眺め、それらしい家を探していた。

「この下にある家々を見に行くか、最悪、見つからなくてもしょうがないが。

 君とこの景色を一緒に見れただけでも、なんだか満足している気がするよ」

「ありがとう、この景色、綺麗ね」

 彼女の肩を抱き寄せ、髪に接吻をした。

「長い時間をとらせて、申し訳ない」


 この真鶴で永い間、愛した人の形見の家と道具の中で一人、その姿を思いながら…。




「おまたせしました。こんな遠くまで、来ていただいて」

「あぁ、栄美君」

「わざわざ駅まですまんな、久しぶりだったねぇ。今回は、ええっと…なんだな、久しぶりの再会がこういうかたちっていうのは残念だったが。吉原の…家のほうは大丈夫か」

真鶴の駅の出口に喪服姿の二人の姿は、この夏の観光地では非常に目立っていた。三十一歳になる栄美はしばらく会っていなかった東京の親戚を真鶴に呼んでいた。

「もうだいぶ日も立っているので、それなりに落ち着いています。心配しないでください」

「おまえも、大変だったなぁ」

「そうよね、栄美君が今日のこともいろいろとやってくれているんでしょう。

ごめんね、近くにいるのになんにも手伝わんで、今日になってしまって」

 伯父と共に来てくれたその妻は、背中を丸くして、小さくなっているように見えた。栄美には、その姿が逆に申し訳なく思われて、自分は背筋を伸ばし、声を明るくしようと努めた。

「いいえ、今日一緒に二人がきてくれただけで俺は助かっていますよ。報告があってから、こんなに時間がかかって申し訳なかったですね」

「そんなことないのよ、そちらも大変だっただろうから」

「栄美、ますます若い頃のアイツに似てきたな」

「さっき、迎えに行ったとき加藤のおじさんにも同じことを言われましたよ。」

 そう言って、乗ってきた車の後部座席のドアを開けた。

「俺が家まで運転するんで、乗ってください」

「悪いわねぇ」

「じゃあ、お前後ろ乗れ、栄美、俺は前に乗るからな」

「はい、お願いします」

 バタンとドアを閉じ、見た目にも蒸し暑い車が走り出した。

「お前、本当に似てきたよ。特に横顔なんて、なぁ」

「ええ、そうね」

「お前のとこの親父は、本当にハンサムだからなぁ。俺の従兄弟とは思えないよ。

 やっぱり芸術家ってハンサムになるもんなのかな」

 車内は、冷房をかけても臭い匂いを放つ一方で、空気は蒸し暑さを増していた。

 伯父の大きな声は貴重な酸素を全部さらっていってしまうかのように、息苦しいので、栄美は自分のところだけ窓を開けた。

「でもなぁ、アイツに似てきたってことは、お前も将来ハゲるの早いぞ。きっと!」

「そうですかねぇ…」

「あなた何言っているのよ、あなたも十分きてるわよ」

 後ろから聞こえた声に、助手席の男は肩から後ろを向いて嫌な顔をしたが、すぐに調子を変えた顔に戻り再び栄美を見返した。

「栄美、今仕事はなんだっけ。絵画の販売員だったか」

「ええ、その仕事は、辞めたんですよ」

「えっ、辞めたんか、そら知らなかった。お前聞いてたか」

「いいえ、私も驚きましたよ、で、今何やっているの?東京にはいるのよね」

 足場の悪い、急な坂を上り車が小刻みに揺れながら、ゆっくり山を登っていく。

「はい、東京にはいます。実は、親父の勤めていた短大あるじゃないですか」

「神奈川のあれだろ」

「ええ、そうです。俺が仕事を二十六の時にやめようと考えていたら、そこの短大に親父の退職と同時に入らないかと、親父に勧められていましてね。しかし、その時にちょうど東京の高校の方から話がありまして、そんときに考えたんだが、親父の跡を引き継ぐっていうのもなんだか息苦しいなと思ったので、…今はその高校で、美術教師やっています」

 へぇ、という感嘆の息が各々から漏れた。そのあとは暫く静かな沈黙が漂い、タイヤが地面に擦れるがりがりという音が際立つ。

 切り出したのは、やはり伯父だった。

「……まぁな。息苦しいだろうな…」

 そう言いながら、咳払いをして、すぐに調子を戻した。

「しかし、やっぱり子供は親の背中を見ているんだな。かあちゃんも絵の先生、親父も絵描き。お前もとうとうそっちの道に入ったか、いやぁ、頑張れよ」

「高校の教師なんて立派じゃない。いい職につけてよかったわねえ」

「ありがとうございます。おばさん。俺も今のとこで落ち着いてやっていこうと思っていますよ」

 徐々に道が細くなってきた。両脇に連なっていた家々は、しだいに蜜柑畑に景色を変え、一mほどの間隔で、緑の中から小さい家がときどき覗くくらいになってきた。車がはっきりと傾いていることが背もたれにかかる重心から感じられる。

「そろそろ着きます」

「結構登ってきたじゃないか」

「そうなんですよ、山の上だから道も悪くてすみません…」

「お前の謝ることじゃないよ。…で、着く前に一応確認なんだが…ええっと…」

「なんですか、もうここを左に曲がったら着きます」

「おおう、なんだな、……今日は誰が来ているんだ。まさかお前のかあちゃん長崎から来ているのか。長崎の…親戚たちは、お前の…兄弟は…」

 伯父が言い終わる前に、車は止まり、ハンドブレーキが上がった。伯父の口から出る歯切れの悪い言葉を聞きながら、熱がこもっているはずの車内にいる三人の皮膚には、冷ややかな膜が張ったように軀の動きが硬くなった。暑さのせいではない、しかし、息をするのが苦しく感じられた。栄美は、目の前にある赤茶色の木目の平屋の家を見つめながら口をつぐんだ。鼻から息を吸ったのが音でわかるほど、車内は静まり、呼吸のたびに彼の胸が浅くゆっくりと起伏する様子が、白いシャツから伝わった。

 後部座席に座っていた伯母が、前の席を掴み、前のめりになった。

「あの…、栄美君。一応あなたのお姉さんからも少し電話で伺っていんだけど、このうちは、お父様の家で、あの方と住んでらっしゃった所なのよね?」

「そういうことです」

 伯父は黙っているが、伯母が切り出すと、腿においていた両手が握りこぶしに変わっていた。肩も少し高くなった気がした。伯母は、暫く身を乗り出していたが、はっとため息をついてゆっくり座り直し、言葉を続けた。

「あの方は、今日は、今日はもちろんいらっしゃるわよね」

「はい、彼女のためでもありますから」

「あなたの言っていることは、わからなくもないけれど…。お姉さん、すごく怒ってらっしゃったけど、お姉さんやお母さん今日は来ているの?」

 ぼそぼそと口元でしゃべっている。エンジンは切らず、冷房はつけたまま、また暑かったが開いていた窓を閉めた。

「もう着いてしまったし、俺はこのあとほかの人も迎えに行かなきゃならないので、簡単にお伝えしておきますが。おじさんたちもそのほうが、心の準備もできるでしょうから」

「うん、頼むわ。なんも知らんから」

 黙っていた伯父が、ゆっくりと答えた。

「すみません、今日は東京の姉は来ています。あと、さきほど言った加藤のおじさんも。これから、親父が世話になった教授さんたちと、こっちの知人が数人いらっしゃいます。この方々は、彼女のことも知っていますから。母は、きません。宮古の兄と長崎にいる姉の方ももう向こうで済ませた式の方で…。」

 伯父の腕に自然と力が入る。

「そうだよな…検討はしていたけど、そうだろうな。仕方ない、あいつはあっちでもこっちでも葬式を挙げられてよかったな」

「それは、親父からの遺言だったので」

「遺言?いつ」

「昨年湯河原の病院に入院していた時に、俺に言ったんです。死んだら、母と家族のために長崎で。そして彼女のためにここで、式をしてくれと。一応その遺言は家族には伝えました。母は正直どう思って聞いていたのかはわかりません。納得がいかないと怒ったのは、姉の二人です。あの人たちは最後まで、ここで葬式をする必要はないとずっと言っていました。彼女は母から親父を奪ったのだから、そんな女のために式なんかあげることは私たちのすることではない。そう言ってかなり家族で揉めましたけれど。姉たちの言うこともわかります。母がそんな風に思っているかどうかもわかりません。どちらにしろ、それは傍観の意見であって、本人がそうしたいと願っていたのならしてあげることは悪いことではないと思ったんです。俺は、親父の気持ちがわからなくはないから、やらなきゃいけないと思い、一人で準備しました。男の約束ってやつですかね。そんなかっこいいものではないですが…」

 伯父が小さく唸った。緩んでいた黒いネクタイを、唸りながらきつく締め直した。

「うん……そうかぁ…………。うん…言いたいこと…聞きたいことはいろいろあるが。また今度時間があるときに教えてくれ。本当に悪かったな、アイツの我がままで一番末っ子なのに、お前にはだいぶ苦労をかけていて。今日は何でも手伝うから、気がねなく頼るんだぞ」

「…そうね」

 覇気のない弱々しい口調で、伯母はバックミラーに映らなくなるほど、下を向いてい縮こまっていた。

「おじさん、おばさんの気を悪くしてしまったらすみません。でも、親父を…今日は最後の挨拶してやってください」

「ああ、そうするよ」

 腰を浮かせながら深い息を吐いて、後ろに出るぞと合図し、二人は周りを見渡しながら、ゆっくり玄関に向かっていった。

 栄美は車から降りず、二人の背中を見てしばらくしたら車を駅に向かってまた走らせた。



 十三時、襖を取り、八畳間の二部屋を貫いて三十名弱の参列者が座った。決して大きい家ではないので、ベランダから午後の暑い日差しが薄手のカーテン越しに少し柔らかくぬくもりに変わりながら、彼らを包み込んだ。左手の最前列に栄美と姉が座っている。その二列後ろに、高田由紀子がいた。肩にかかる黒髪をハーフアップにし、乳白色で柔らかい頬が露になり、そこに数本の横髪が垂れている。少し長めの首筋から漆黒の洋服への陰影は光に照らされて艶めいてみえるようでもあった。手元には白のガーゼのハンカチを膝の上に添えていた。ただ後ろにいるだけなのだが、栄美はその姿を後ろに想像し、どんな気持ちでここに座っているのだろうかと思いを巡らせていた。由紀子の隣や後ろには、父がこちらで出逢った仲間がほとんどで、彼女のことを知っている人も少なくはなかった。しかし、その人たちも父の知り合いであって、由紀子と直接話をしている人間はそんなにいないであろう。

また、喪主は自分であり、そして、由紀子と自分との関係はなにもない。彼女の家でもあるこの場所で行われる彼女の恋人の告別式であるのに、彼女はそこに一人ぼっちだと栄美は思った。栄美は由紀子を孤独で可愛そうだと思っていた。前を向いているだろうか、それとも下を向いているだろうか。父の死をどのように感じているのだろうか…そういうことを思案しながらあっという間に時間は過ぎていった。

 栄美自身は二度の葬儀の忙しさで、父の死への悲しみは紛れているようだった。湯河原の病院から知らせの電話がかかってきてから、家族への連絡、長崎の教会での家族親類で行った葬儀、そして今日の真鶴での告別式になるまで、休みなしで慌ただしい日々だった。よく葬式がある意味は、親類が深い悲しみに打ちひしがれてしまわぬようにという人もいるが、今回の件で、栄美は強くそれを実感することができた。職場の学校が夏休みで、仕事のことも気にかけなくていい時期であったことも影響しているかもしれない。そういえば、棺を買うときも面白いことがあった。長崎でのことだが、家族でいろいろな取り決めを行っている際、葬儀屋が栄美だけを呼び出して棺をどれにするかと言って、カタログを見せてきたことがあった。兄は不在だったのでわかるが、母ではなく、なぜか一番末っ子の自分に声をかけてきたのだ。業者の四十ほどの男が、声を潜めて「ピンからキリまでありますが、みなさんこちらを買われる方が一番多いです」と言って、少しお高めの品を指差した。続けてこんなことも言った「お父様の最後のお姿を、お金をかければいいというものではないというお考えもあるかもしれません。みなさんそう思われています。しかし、安すぎても…最後の門出としては可愛そうだということで、こちらがよく選ばれているのですよね」と念を押された。そこで、栄美はなるほどと思った。女性はこういう時に強い。弱っているときにしったって、金銭面では冷静になる、と男性は変に勘ぐってしまうかもしれない。それに比べて、自分は三十になったばかりの云々を知らない若造である。それで、みんながそうしているという文句で買わせようという魂胆か。自分はこの狼に羊に見られているのだな、と思い、ここはちょっと騙されてみようと思って、悩むふりをした。

「ふうむ、みなさん買われているのかぁ、そういうモノの方が無難ですかね」

「無難といわれますと…どうですかね、ほかの商品と比較してみましょうか」

「お願いします、あっこちらの商品と何が違うのですか」

 そういって、栄美は一番安い価格のモノを指差した。

「ええっと、そうですね…」

 業者の細かい説明を耳で聞きながら、目はカタログの商品を一つ一つ見ていた。確かに外見は若干の違いはある。しかし、側面を「これはいい絵柄ですね」といって眺める人もいないし、中はみんな白い布で覆われ一貫しているので大差はないように思えた。

「…ここでご判断しかねるようでしたら、ご家族の方とご相談いただいて、それからということにいたしますか」

 しばらく説明をしていた業者は、栄美があまり熱心に話を聞いていないことに気づいたのかもしれない。しかし、栄美はもう鼻から高いものは買う気がなかったので

 「いや、家族もほかのことで忙しいでしょうから大丈夫です。ええと、これで、お願いします」

と言って、先ほど比較させた安い棺をお願いした。それはそれで一件落着したのだが、その棺を決めた後から、どこから入ってきたのか小さいハエが栄美の頭の周りを音を立てて飛んでいる。方向感覚を失っているのか、それともわざとか、ぐるぐる回っては時々栄美の額にハエがぶつかる。邪魔だと手で払いのけるのだが、消えたかと思うとまた懲りずに寄ってくる。これはもしや、死んだ父親がハエに化けて飛んできたのかと思うようになった。自分が安い棺を選んだことを腹立たしく思っているのか、それで頭をつついてくるのだろうか。そう思うと滑稽で、親父、わかったよわかったよ、そんなに怒るなと心のなかでハエに言いながら、次に出てきた骨壷は安い方から三つ目の少し良いものを選ばせてもらった。

そのあと意識していなかったが、そういえばハエと頭をぶつけていないような気がした。

 それらを購入したことを母親や姉に告げると、案の定、骨壷が高いと言ってきたが、自分の財布から出したと言ったら、二、三度事言うと自分の仕事に戻っていった。自分も含め、他の家族も、しばらく離れて暮らしていたにしても、大黒柱の死に対して深い悲しみに頭を垂れることもなく、連絡や掃除をせっせと各々ができることをしていた。きっと、先ほどのハエも家のどこかでその様子を眺めていたことだろう。

 

告別式を終えて、栄美も姉と出口に立ち、参列者を見送っていた。帰りは皆気を使って、それぞれタクシーを呼んでいたのだが、車一台通れる道なので、大体の人が外の日射しにはすぐにあたろうとはせず部屋に残っていた。ここには棺はない。長崎の海の見える岬ですでに眠っている。由紀子は立ってはいたものの部屋の隅の方で、一点を見つめ動かないでいた。日の当たらないような本当隅のところで、ガーゼを持った手で、もう片方の腕を握って。その腕は陰のなかでひんやりと浮き出ている。時々、彼女に声を掛ける人がいる。それには、焦点の合っていなかった瞳に少し生気が戻り、口角を上げるように取り繕っていた。 

彼女は栄美の父が勤めていた短大の非常勤講師である。栄美が父親から聞いていた話では、国文を専攻としているらしい。もともと画家であった父、吉岡治は五十になってから神奈川の短大で芸術論の教授として教鞭を振るっていた。そこで数年後に入ってきた由紀子に出逢い二人は恋に落ちた。そして定年を迎えてからも、治は妻の待つ長崎には帰らず、由紀子と共にここ真鶴で家を建て、二人で暮らし始めたのだ。その退職の際に栄美は転職の話かたわら真鶴に呼ばれ、二人の関係を知ると同時に由紀子と対面した。由紀子は若かった。その頃彼女は三十前半であったが、つぶらな瞳、小さな輪郭の中にぷっくりとした頬、その中央には薄く淡いピンク色の唇、その容姿は可愛らしく、そして可憐でもあり本当に若く見えた。二人の家に呼ばれて、由紀子が席を外した時に栄美は尋ねた。

「親父、なにやってんだよ。彼女まだ若いじゃないか」

ソファに深々と寄りかかっていた治は、前のめりになって、テーブルの上のコーヒーカップに手をかけながら「そうだよ」と言ってコーヒーをすすった。

「そうだよって、こんな家まで建てて、彼女の将来をどう考えているのさ。それにおふくろだっているのに…姉さん達はカンカンだぞ。一回くらいちゃんと長崎帰って、今後の事はっきりさせろよ。」

 いつ彼女が戻ってくるかもわからなかったので、栄美は身を乗り出し、小声で早口にになりながら話した。それとは対照的な治は続けた。

「帰らないよ、気分が向かない。俺は退職してやっと自分のことに時間がさけるんだ。ここに残って、真鶴の四季の移ろいを描いたり、遠出して作品を描いて悠々と過ごしていくさ。ミチ子なら大丈夫だよ、あいつは強いからね、俺なんかいなくても家のことしっかりやってくれていただろう。俺が帰ってずっと家にいたら、あいつの調子も狂ってしまうかもしれないぜ」

「呆れたなあ、おふくろだって帰ってくればそれなりに喜ぶさ。待っているもの。俺が幼い頃から言っていたさ、時々ふいと帰ってくる親父の姿が待ち遠しいって。これ以上おふくろに迷惑かけるなよ。俺はずっと向こうにいろって言っているわけではないんだよ、親父の事情は問題があるが、退職してできた時間を少しくらいおふくろにやってくれてもいいだろうに」

 治は栄美の話を煙草をふかしながら、遠くを見て聞いていた。

「気が向いたらな」

 それだけ言って、灰を落としまた煙草を口にくわえた。

「…お前、俺に呆れたって言ったけど。お前は根っこが俺に似ているから、この気持ちがいつかわかるさ。お前は俺によく似ているよ」

「……」

「いいかい、由紀子は俺の最高の女だ。ミチ子は俺の最高の妻だ。二人ともそれがわかっている。本人たちがわかっていればそれでいい、他がどう言おうがそいつらには関係ない話だ」ゆっくりとそして低い声で、栄美を見つめながらそう言った。


 この数ヵ月後、治は倒れた。これから余生を謳歌しようとしていた矢先だった。はじめは自宅療養もしていたが、軀は麻痺し、自身で動くことは困難になり湯河原の病院に移る。四年ほど粘ったが、六十五歳で終止符を打つことになった。退職後残した作品はたった三点、東北の方に出向いて風景画を描いていたようだが、ほとんどが未完成だった。


 皆が帰った後、残った三人は居間に戻り顔を合わせた。勝手のわかる由紀子が、二人が見送りをしている間、ソファやらテーブルを戻して、二人にお茶と菓子を出した。栄美と姉が隣同士に座り、向かいに由紀子が腰を下ろした。沈黙が続く、お茶をすする音と、誰かのため息が聞こえるのみである。由紀子が、今日はありがとうございましたとか、お疲れ様でしたというのも変な話だし、どう声をかけて良いかわからないのかもしれない。姉はため息から苛立ちが伝わってくる。栄美はこの沈黙から逃れられる話題がないかどうか思案していた。暑さのせいか、空気のせいかとても息苦しい。三人の前を流れる川が、ぴたりと流れるのをやめてそこにとどまっているような雰囲気だった。その川に石を投げたのは栄美ではなく、姉だった。

「高田さん、この家にある父の遺品はこちらで実家に持ってきますわ。いいわよね」

「…はい、わかりました」

「後に、まとめますから出しておいてくださいね。父はもちろん長崎で眠っているのですから。あなたみたいな人、本当は父をこちらで眠らせようとか考えていたんじゃありませんの?もしそうお考えでしたら図々しいですわよね、母から父を奪っておいて、そうぬけぬけとそのようなことは口走れませんわよね」

 姉は背筋をピンと伸ばし、前髪を掻あげながら見下すように、対角線上に座る由紀子に突きつけた。落ち着いた口調ではあったが、刺を感じた。その様子をみて、姉よりも少し彼女のことをわかっているつもりでいた栄美は、苛立ちを感じた。

「姉さん、そういう言い方はひどいんじゃないか」

「私は家族として、母を思って言っているだけです。あなたも高田さんに苦労をかけられてるじゃないの、よけいな苦労ばかり背負って」

「それは、俺が勝手にしているだけで、苦労は自分で蒔いた種だ」

「あの…」

 下を向いていた由紀子が、姉の方を向いて顔をあげた。

「あの、申し訳ありません。今日のことは本当に感謝しております。こちらで、治さんとの別れの場を設けていただけたこと、感謝してもしきれませんわ。長崎の海の見える岬で眠ることは、治さんの望んでいたことでしたから、決して、こちらに置いておいてほしいなど、思ったことはありません。淋しくてたまらないですが、私のどうこう言えることではないことは承知しております。ですが……ひとつだけお願いがあります」

「お願いとは、なんでしょうか」

 一つ一つの言葉を丁寧に落ち着いて、栄美は尋ねた。

「ここに、どうか…彼の画材道具だけ残していっていただけないでしょうか」

 由紀子は涙目になりながら、しかし力強い声で言った。姉の目が大きく見開き、あいた唇が震える。

「えっなんですって、…なんてふしだらな人、ここまできても父を求めるのね……いい加減に…」

「姉さん」

 栄美は憤り今にも立ち上がり食らいつこうとする姉の太ももを強く押さえつけた。川の片方の側面から土がなだれ、停止していた流れは泥のようにせき止められた。

「わがままを言って申し訳ありません、ですが、これだけはどうか、せめて私に残していってください」

 彼女は腿の上に握り拳をくつくり、声も手も震えている。しかし、下を向かずまっすぐこちらを見て言った。

「あなた、私たち家族からどれだけ父親を奪っていったかわかっているの?」

「……」

 由紀子はきゅっと口をつむぐ。

「姉さん、由紀子さんのせいではないじゃないか。それは親父がああいう性格だから」

「栄美は優しすぎるのよ、お母さんの気持ちわかる?」

「それはわからないよ、おふくろに聞いてみないと。姉さんだってそうやって言うけど、本当のことは分からないじゃないか」

「いいえ、わかりますとも、私も女なのですから。私も辛かったわ、実の父親がこんな若い女性と一緒になるなんで…私…」

「でも、姉さん…。よく考えてご覧よ。親父が倒れてから、誰が面倒をみてくれたのか、長い年月、ずっとつきっきりで看病しれくれていたのは、由紀子さんだろう?俺は、そうやって親父を大切にしてくれていた由紀子さんに感謝しているよ。俺でも、姉さんでもこんなに近くで看病することはできなかったろ。親父は安心していたとおもうぜ、…由紀子さんが傍にいてくれてなかったら、もっと早くに天国に行っていたかもしれない」

「……それは…」

「少しくらい、残してあげたっていいじゃないか。うちに戻したって、しまっとかれるだけだ。それよりも、欲しいといって大切にしてくれる人がいるなら、託したって撥は当たらないさ」

 姉の軀の力がどんどん抜けていくのを感じた。栄美の方を見ていた目元も、急に目尻が下がり、栄美を見つめながら深いため息をつく。こころなしかソファに埋もれていくようであった。

「お母さんは、なんて思うかしら」

「それは、俺たちにはわからないよ」

 ずっと黙っていた由紀子は、高揚から頬を赤くし、すっと立ったかと思うと、今度はソファの横に座り膝をついた。

「唯一のお願いです、治さんが使っていた筆の一本でも置いていってくださったら、 私は一生大切にいたします、どうか…」

 赤い絨毯の上に、由紀子の体が染み込むように低く頭を下げていた。栄美はその姿をさせている自分たちが情けなくてしょうがなかった、なぜだかこちらが泣きたくなるような、むず痒さが軀に走り、呼吸が浅くなった。

「私たちは、そんなことをあなたにして欲しいのではありませんわ、やめてください。顔をお上げになって」

 姉がそう言うと、ゆっくり顔をあげてそこに正座をした。彼女は泣いてはいなかったが、口をしっかり締め床を見つめていた。栄美はなにか言いたいが、言葉がでてこなかった。

 姉が続けて言う。

「……差し上げますから、大切にしてください。看病していただいたお礼です」

「姉さん」

 先程まで力んでいた目元から力が向けていくのが目に見えた。安堵しているのか悲しんでいるのかわからない、姉はそういう表情をしていた。栄美も自分の気持ちがわからなかった。安心したような気もするが、自分から姉を説得したにもかかわらず、姉のその言葉でそれでよかったのだろうかという気持ちも沸き起こってきた。

でも、前を向きこちらを見ていた由紀子のピンクに染まった頬に、雫が熱い雫が流れた姿を見て、心も吹っ切れたように感じた。

「…ありがとうございます」

 由紀子は、子どもの泣き止んだあとのような、また、ほっとした赤ら顔で少し微笑んた。


 後日、遺品の作業で栄美は再び真鶴を訪れた。八月の末だったが、暑さは変わらず、鳴いている蝉はひぐらしにかわっていた。薄黄色のTシャツの上に、白いエプロンをきて由紀子もその作業を手伝った。真鶴の家に保管されていた今まで個展などで展示された作品などを長崎と栄美の勤務先の学校に置くことになったのだ。大きいものは縦横一m以上あり、運ぶのにはかなり苦労した。

そして、あれからこの家には、吉岡治の使っていた画材道具が使われた当初の状態のままアトリエに置かれていた。そして、一枚の絵もそこに残された。栄美は由紀子にひとつ好きなものを選んでもらったものだ。深い青の中に浮かぶ青紫の桔梗の花々の絵だった。

 別れ際、栄美は由紀子にずっと伝えたかった思いを言った。

「あなたも若いのだから、父を忘れて自分の将来の幸せを考えていったほうがいいのではありませんか」

 

 微笑んだ。ほっとした柔らかな表情で、

「いいえ、私は、この家で彼の思い出と共に生きていくのが、一番私にとって幸せなことだと思っております。私のことを可哀想だと思わないでくださいね。もし、彼を愛しているのに他に行かなければならないのであれば、その方がよっぽど不幸せなのですから」

 この彼女の言葉は、栄美の心の中に残った。


     ◆


 二人は夕方、伊東の旅館に戻り湯を浴びたあと、軽装に着替えて川沿いを歩いた。もう暗くなってきているが、蝉はその鳴き声をいっそう忙しなくさせている。左手に川の流れる音と、風が吹くと木々がザァっと音をたてて大きく揺れる。背の高い雑木林のその揺れるあいだからはもうすぐ満月になりそうな黄色い光が見え隠れする。彼は歩くのが早い、時々後ろを気にして立ち止まってくれるが、また彼女との距離があき、彼女は小走りで追いかける。それを繰り返しながら、後ろを振り向く彼は彼女に微笑んだ。微笑み返して彼女は彼の腕に手を通した。

 旅館から出てしばらくは周りに人が一人も見えなかったが、左手の街が明るくなってきたのと同時に、橋を渡ってたくさんの人が海に向かって歩いていた。

「何かあるんですかね」

「お祭りか何かやっているのかな、あそこの方明るいところがある」

 彼の指をさすところは空を明るくするように輝いていた。耳を澄ますと誰かが歌う歌謡が聞こえてきた。しかし、下る人たちはそこで立ち止まらず、まだ海に向かって歩いていた。

「みんな海に向かっているね」

「…そうですね……あっ…」

「あっ……」

 二人の顔は、空に高く飛んだ光を一瞬で捉えた。バァンと激しい音をたてて、目前で赤い大輪が咲いた。

「花火…! 海のほうですね!」

「うるさいな、そこまで大きな声出さなくてもわかるよ」

「すみません」

「ここからでも見えるけど、もう少し降りてみようか」

「はい」

 そういって、手を繋いで、足早に花火の位置を追って海に出た。海沿いの広い道路に出ると、たくさんの人が首をあげて、歓声を上げていた。半分ほどの人が浴衣だった。二人は橋を渡って、左手に行き、みんなと同じように、口をぽかんと開けながら、次々に空に舞い上がる花火を見つめた。

「おお…次は黄色だな」

「あっ……青でしたね」

「……」

「……すごいですね」

「……」

「……」

 しばらくして、二人は顔を見合わせ笑った。

「まさか、花火がやっているなんて、よかったな」

「はい、栄美さんと見れて、よかった。今日はいい景色続きですね」

「…そうだな……だんだんクライマックスぽくなってきたぞ」

「……」

「おっ…レゲェ、俺これ好きなんだよ」

「レゲェですか?」

「俺が勝手に呼んでるだけだけど、金色のドレットヘアーみたいだろ、ほらまた」

 今までで一番大きく空を上から下まで覆い尽くしそうなほどの金の花は、散り際までキラキラと輝いていた。この花火がどれよりも綺麗に見えた。


 月のことも、忘れた深夜。静まり返った旅館の廊下、隙間から荻のような光が漏れる。

 蛍光灯を一つおとし、白い布団を二つ横に敷きながら持ってきた日本酒の小瓶を開けた。部屋にあるグラスを二つテーブルの上へ置く。

「今日は運転ありがとうございました」

「こちらこそ、付き合ってくれてありがとう」

 それぞれのグラスに少しずつ酒を注いて、乾杯した。

「家は見つからなかったけど、見つからなくてほっとしている」

「はい」

「家がまだあるかどうかというのは気になったけど、彼女に会うかもしれないと思うと…」

「…好きだったの」

 鼻で笑って首を振った。

「そんなんじゃないよ、確かに歳が近かったし、綺麗な人だったけど、そういう感情は抱かなかった」

「そう……」

 友梨は目をそらして、日本酒に口をつけた。

「やいてるの?」

「やいてません」

「…友梨」

 栄美がじっと友梨を見つめる。体温が上昇して、頬が熱くなった。また一口、ふくんだ。

「来年の夏は、おふくろの容態によっては、旅行はできないかもしれない」

「お母様、悪いの?」

「…まぁ、今に始まったことではないが、意識がなくてね。姉の言うところだと、もう長くはないといっている」

「わかりました、夏とは言わず、行ける時があったら長崎行ってくださいね」

「ありがとう、そうするよ」

「お母様は、お父様がこちらでほかの女性と暮らしていたことは知っていたの?」

 栄美は一杯カラにして、煙草を取り出した。浴衣の襟がゆるんで、紅に染まった首筋が際たち艶かしかった。煙草を口に加えると甘く苦いものが友梨を刺激した。

「知っていたさ、姉たちも騒いていたしね」

「お父様を怒っていなかったの?」

「怒っていなかったね、なんにもそういう言葉を聞いたことがない。聞いたことはないといっても、本人から直接どう思っているのか聞いたことはないから、本当のところはわからないが。だから、俺は俺の解釈で、怒っていないと思っていたし、姉たちは口に出さないだけで悲しんでいると思っていた。おふくろは若い女と親父のことをどう思っていたかを聞いてみたいが、もう答えは聞けないな」

 栄美は続けて話した。

「親父が仕事でいろんな所にいってほとんど家をあけていたから、俺は小さい頃から母の背中をみて育ったよ。家で絵画教室をしていてその傍ら家事をこなしていた。俺はその絵画教室に通っている子供たちと一緒に絵を書いたり、勉強したりしていたよ。親父が帰ってきたときの二人は子供の目から見ても落ち着いていて仲が良さそうに見えた。喧嘩をしている姿を見たこともない。…今思うと、それぞれ独立している二人だったな。」

 少量残したグラスを両手で触りながら、彼女は聞いていた。琥珀の明かりがテーブルにひろがり、二人のグラスと、酒瓶の透明が揺れた。

「友梨…」

「……はい」

「今は、俺が友梨を不安にさせない。でも、俺よりも、友梨を不安にさせない。俺よりも幸せにしてくれる人が現れたら。……そのときは、俺を振っていいからな。」

 目を合わせず、テーブルに肘をつきながら煙草をふかす。

 彼女も、栄美の方を見ず、グラスに視線を落としている。しばらく沈黙が続いたあと、

「はい。」と、その二語を大切に包み込むように、返事をした。頬が火照った。

 このやりとりは、今が初めてではない。栄美は、こういう関係になってすぐに友梨に伝えていた。

 今は、二人共愛で満たされている。必要以上に一緒にいることはできないし、離れている時間の方がはるかに多い。しかし、二人共充たされていたのだ。言葉にしなくても、お互い大切にされていることを実感した。だから、普通の男女の付き合いのようなものができなくても、不安を感じたり、欲を持つこともなかった。こんなに、自分以外の相手を大切に思うことも今までなかった。

 本当に、できることなら、添い遂げたい。同じ家で二人で一生を過ごせたらどれだけ幸せか。…友梨の願いは、栄美の横で、ウエディングドレスを着て、並ぶことだ。「綺麗だよ」と栄美に優しく微笑んでもらえたら…5年たっても、この気持ちは変わらない。

 それが決して現実になりえないと分かっていても、彼の横を離れることはできないし、彼も、未来がない二人だからといって、別れを告げることもない。愛しているから。

 だから、意図として離れるなどという選択は、どうしてもできない。この永遠につづく想いが、どのようにして終わりを迎えるのか。…それは、考えたとことで、無駄である。


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