8章
晴れ渡った大空を一羽の鳥が旋回しながら飛んでいた。
その空に向けて、ピーという口笛らしき音が聞こえると、鳥は音がした方に向かって急降下を始めた。
遥か上空にいたときは小さく見えていた翼も、降りてくるにしたがってかなりの大きさがあることがハッキリしてくる。
そして、その大きな翼を折りたたむように降り立った場所は、デルタ王国王宮の窓辺。
リシュベリーの兄、ベルオット王の私室の窓であった。
「よしよし、フィルフィ。ギルハルトの居場所は覚えておるな。」
フィルフィと呼ばれた鷹は、応えるようにピィーと一声鳴いた。
「ギルハルトの隣に、お前を雛の頃から可愛がっていたリシュベリーがいるから、手紙を届けてきておくれ。」
もう一度ピィーと鳴くと、足に書簡を括りつけた鷹フィルフィは大空へと舞い上がった。
このフィルフィは、卵から孵った時からリシュベリーが手ずから育てた鷹である。
兄王が他国との通信手段として何羽か鷹を飼育していたのを見て、将来自分が嫁いだ先から母国・兄王との通信手段として、如いては嫁ぐ相手によっては密使としても使える手段として、自分用にと育てていたのである。
そのフィルフィをこの数年はギルハルトと兄ベルオットとの通信用に、リシュベリーは使用していた。
鷹の翼は早馬を走らせるよりも格段に早く、通信手段としては現在のところ最速といえるモノであった。
ベルオットの私室の窓辺から飛び立った次の日の早朝には、フィルフィの姿はリンガ王宮の上空にあった。
フィルフィはそのまま通い慣れたギルハルトの私室の窓辺へと飛来すると、一声ピィーと鳴いた。
朝靄が晴れ始め、下働きの者達は忙しなく動き出している時間ではあるが、まだまだ多くの者達は夢から覚めていない時間であった。
しかし、そのフィルフィの鳴き声に応えるかのように、ギルハルトの部屋の窓は大きく開かれたのだった。
「よぉ、フィルフィ。いつもながら朝早い到着だな。」
まるで待っていたとばかりに、ギルハルトは既に身支度を整えた姿でフィルフィを出迎え、褒美の生肉を与える。そして、足に括りつけられた書簡を受け取ったのだった。
「お前のように翼があれば、俺は彼女の元にもっと頻繁に通えたんだがな。羨ましい翼だよ。」
文書を開きながら、そういうギルハルトの言葉に、誇らしそうにピーと鳴くフィルフィであった。
フィルフィがギルハルトの私室の窓辺に飛来した頃、リシュベリーはまだ夢の中にいた。
ラナは早々に起きだし、リシュベリーの為の朝の準備をするべく、到着した日から自分の下に着いた侍女たちに慌しく指示を出していた。
そんなラナの元に、一人の黒髪の青年がやってきて声を掛けた。
見覚えのない青年に、ラナは誰だったかと必至に記憶を掘り起こすが、思い当たる人物が見当たらず、内心当惑していた。
「あぁ、私ですよ。デイルです。」
「えっ・・・えぇぇぇ!?デ・・デイルさま?本当に?」
ニッコリ笑って頷く青年であったが、先日会った姿と余りにも掛け離れていてラナは混乱するしかなかったのであった。
「これが本来の姿ですので、そう驚かないでくれませんかね。
それから、私とあなたとは地位的にはそれほど変わりありませんので、様付きで呼ばなくても大丈夫ですよ。」
「申し訳ございません・・・先日お会いした姿と違いすぎて・・・・失礼致しました。」
まだ動揺を隠し切れないラナであったが、非礼を詫びて頭を下げる。
「それ程驚いていただけるのは、それだけ私の役割が上手く行っている証拠と思って喜んでおきますよ。
ところで、ラナ殿。リシュベリーさまに、殿下より文書を預かっております。お渡し願えますか?」
「あ・・あの、デイルさまがわざわざ、それだけの為にこちらへ?」
「【デイルさま】ではなく【デイル】と呼び捨てで結構です。
殿下からリシュベリーさまへの手紙を部下に任せるなど、殿下に私が叱られてしまいます。」
あくまで、敬称は必要ないというデイルであったが、ギルハルトの側近というかなり高い地位にいる彼をさすがに呼び捨ては出来ないからというラナであった。
「公務がなければ、殿下はご自分で来られるつもりでいましたけどね。
殿下が確認されないといけない決裁書類が溜まっておりますので、今頃はご自分の執務室に篭られていらっしゃいますよ。
私に書類を押し付けてこちらに来られるつもりでいたようですが、私も仕事は溜まっておりますので、お断りさせていただきました。」
そう言ってニッコリ笑うデイルは、全くギルハルトとは似ても似つかない姿なのであった。
確かに背格好はよく似ているが、纏う雰囲気も気配も、もちろん声や仕草、話し方まで全く別人だとしか思えないのであるが、それでもあの時は彼がギルハルトにしか見えなかったラナにすると、なぜ見間違えたのかが自分でも理解出来なかったのである。
「私の顔がそんなに気になりますか?」
「も・・申し訳ございません。本当にあの時お会いしたデイルさま・・デイルさんなのかと・・・全く別人にしか、今は見えませんのに・・」
「それは、お褒めの言葉と受け取っておきます。
もちろん、先日お会いしたときの姿も私の一つの顔です。もちろんあれは作り上げた姿ではありますがね。
これが本来の姿ですので、お見知りおきを。」
そう言って、デイルはリシュベリー宛の文書をラナに渡したあと、ギルハルトの執務室へと向かうべく歩き去ったのであった。
ラナが主人であるリシュベリーに預かった文書を渡すべく寝室へと足を向けると、ちょうど中からリシュベリーの起きだす気配がした。
「お目覚めですか、姫さま?」
軽く扉を叩き入室の声を掛けてそっと扉を開くと、未だ夢の中にいるような顔をしたリシュベリーが寝台の上に起き上がっていた。
いろんなことに秀でているリシュベリーではあるが、朝だけは弱かったのである。
「おはようございます。ギルハルトさまより言伝をお預かりしておりますよ。」
「こんなに早くから?何かあったのかしら?」
「危急の用件ではないようですが、先にごらんになられますか?」
デイルの様子から、急ぎの用というわけでないと思われたが、一応着替える前に目を通すかを確認するラナである。
そのラナの言葉に、着替えの準備を任せてリシュベリーはギルハルトからの手紙を受け取って目を通した。
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親愛なる我が君
早朝から君に可愛い来客が来ているよ
着替えを済ませたらテラスに出て空を見てごらん
ギルハルト
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「ギルハルトさまは何と?」
「私にお客様が見えてるから、着替えてテラスに出て空を見ろ・・と。」
「空からお客様・・ですか?」
二人とも何のことやらとばかりに首を傾げつつ、リシュベリーの身支度を整えて揃ってテラスへと足を踏み出した。
ギルハルトに言われた通りに晴れ渡る空を見上げると、そこにはゆったりと流れゆく雲と優雅に旋回している鳥の姿が目に入ってきた。
「あれは・・・フィルフィ?」
リシュベリーの声に反応したのか、もしくは遥か上空からリシュベリーの姿を確認したのか、その鳥は急降下を始めたかと思うとバサバサと翼をはためかせてリシュベリーのいるテラスへと降り立ったのだった。
「まぁ、フィルフィ。よく私に気が付いたわね。」
目の前に降り立ったフィルフィに微笑みながらリシュベリーが声を掛けると、フィルフィは嬉しそうにピィーと一声鳴いたのだった。
「お兄さまとギルハルトさまとの伝令役、よく務めていると聞いていてよ。
偉いわフィルフィ。
今日もお兄さまから何か頼まれたのね?
ふふ・・ちょっと待ってね。中に入れてあげるから。
ラナ、皮手袋はあるかしら?それから、フィルフィの食べるモノを。」
「さすがに皮手袋は持ってきておりませんので、代用でこれを。
生肉は取りに行かせましょう。」
「これはさすがにフィルフィが止まりにくくない?」
「ですが、姫さまの腕に傷をつけるわけには参りませんし、私にも慣れているとはいえ私の腕にはさすがに止まってくれませんので・・・」
主従がそんなことを言っていると扉を叩く音が聞こえた。
「失礼いたします。ギルハルトさまより取り急ぎ、リシュベリー殿下へお渡しするようにとお預かりしてきた品をお持ちいたしました。」
外から聞こえた侍女の声に、ラナがすぐに対応して受け取ってきたモノは、今まさに主従が欲しがっていた【皮手袋】なのであった。
「さすがはギルハルトさまですね。フィルフィが来たことを伝えた後に、皮手袋が必要になる事もお気づきになられるとは・・・」
「いらっしゃい、フィルフィ。」
リシュベリーは手早く皮手袋を着けると、テラスに出て腕を持ち上げてフィルフィを呼んだ。
ズッシリとした確かな重みに、手ずから育てた小鳥が大きく育った実感を得る。
「あんなに小さかったのに、随分大きくなったわね。
部屋の中では羽ばたかないでね、私の自室ではないのだから家具を傷めたら大変。」
そう言いながらテラスから室内に入ると、ラナが簡易の止まり木を準備して待っていたのだった。
「今頃、我が君はフィルフィと再会した頃かな。」
執務室で書類に目を通しつつ、すぐ傍の机で同じように書類に目を通しているデイルにギルハルトは声を掛けた。
「リシュベリーさまの起床時間からしますと、そろそろかと思われます。
殿下からの伝言を受け、お渡しするようにお預かりした皮手袋を今頃はお手元に侍女が届けているかと・・」
「喜ぶ顔が見てみたいものだが・・・この決裁の山が片付くまで、俺は動けそうにないな。」
「当たり前です。
殿下がデルタ王国にてリシュベリーさまとのお時間を楽しまれていた十数日の間に、私が判断できるモノは済ませておきましたが、【その山は殿下が決裁されなければいけない書類ばかりです】ので、諦めて集中してください。」
口調は丁寧だが、言ってることには棘が多分に含まれている。
主従とはいえ、ギルハルトはデイルを信頼しているし気に入っているからこそ、デイルも裏表なくハッキリとギルハルトには抗議もするし指摘もするのであった。
「お前、相変わらず俺には厳しいな。」
「殿下に甘くして、私に何の得があるのか教えて頂きたいものです。
殿下を甘やかした分、私に負担が増えるだけですので、締めるところはきっちり締めさせていただきます。
今までのように、隣国まで行かずとも殿下の愛しのリシュベリーさまにはお会いになれるのですから、移動時間が減った分、しっかり公務に励んでくださいますよう。」
すぐそこにリシュベリーがいるからといって、リシュベリーの傍に入り浸るなとしっかり釘をさされたギルハルトであった。
「わかっておる。
父上も口やかましいし、元老院のじじい共にもいろいろ納得させんとならん事があるからな。しばらくは大人しく、公務に励んでいるさ。」
「その元老院のご老輩から殿下に伝言です。」
「なんだと?」
自分の幼少時より何かと口喧しかった元老院の長老3人は、ギルハルトにとって苦手な相手であった。
そんな彼らからの言葉というだけで、眉間に皺がよってしまうのは、既に癖としか言いようがなかった。
「それで、じじい共は今度は何を言い出してきた?」
「リシュベリーさまが退屈されないように、家庭教師などをつけてはどうか・・と。」
「なんだそれは?
姫が教養不足だとでも言いたいのか?
他国の自分の見た目にしか興味のない馬鹿な姫どもに比べれば、我が君はその辺りの君主並みに教養はあると思うが、じじい共はそれでもまだ不服か?」
「むしろ、長老方は遠まわしに、この国のお妃教育をされてはどうかとおっしゃっているのでは?
つまり、長老方は姫さまのことは将来の王妃としては有望だと、一応の納得はなされているのではないかと。」
「素直に言えんのか・・くそじじいども。」
苦虫を噛み潰したような顔で言うギルハルトに、
「まぁ、殿下の今までの行いからすると、素直に言いたくないんじゃないでしょうかね。」
と応えたデイルであった。
「まぁいい・・・一つ問題が解決したと思っていいということだな。」
「この件に関してだけで言えば・・だと思われますが。」
「引っかかる言い方だな。」
デイルの言い様にこめかみを掻きつつ、ギルハルトはもう一度、まぁいいと応えたのだった。
夜にまた投稿します