北千住でボイス・トレーニング5
五
北千住の教室内。桜井先生が真剣な眼差しで今後の方針について、話を始めた。
「将司君は表情筋が少し硬いから、そこの筋肉をまず解してもらおうかなーと思っています。レッスン中にもトレーニングしますけど、その時だけやっても、あまり効果的ではないので、こんなメニューがあります、ってのをレッスン終わりに紹介します。ですから、お家でも気がついた時に取り組んでくださいね」
表情筋と言われても、今一つピンと来なかった。でも、やる気は満ちていた。
「それから、声を素直に出す、真っすぐ出すことに対する力みがあるみたいね。根っこに何があるのかは私には分からないけど、精神的な部分で引っかかりになっている気がするわ。元々良い声を持っているのだから、将司君には自信を持ってもらいたい。いいかしら」
将司は二度三度と頷いた。桜井先生は、にこっと笑い、奇麗に生え揃った白い歯を見せた。
「すいませーん、遅れました」
景子が駆け込んできた。前回と同じ、スウェットにTシャツ姿だ。違うのは眼帯の色だけ。今日はシマウマ模様で、真っ黒の眼帯に比べて陽気に見えた。
眼帯で隠された「視力がほとんどないます」と言っていた目はどんな形をしているのか……実際に何が原因で視力を失ったのか、将司は知らなかった。
いつになっても本人から具体的な話はないので、将司は、触れてはならぬ事実と捉えて放置していた。
「景子ちゃん、こんにちは。今日はまだ将司君たちに説明をしていただけだから、ギリギリ、セーフよ。あら、今日はシマシマね、可愛いじゃん」
「えへへ、先生も今日も奇麗ます、将司君が見とれてたよ」
パッと景子を見て将司は「は!」っと叫んだ。
「何を言ってんだよ、お前は」
「ほんとうのことます」と景子は、いひひひ笑う。
桜井先生が腕組みをし、首を傾げたまま将司を見詰めている。
「ちょっと先生、違いますよ、こいつが勝手に」
将司は慌てて弁解する。
「兄貴ー、本当のこと言えよ」「お前も黙ってろ」
桜井先生が将司の肩に手を置いた。心臓がぎゅっと縮まる。
「将司君、今の、素敵だったわよ」
「え、何が」
将司は訳が分からず聞き返した。
「良い声が出てたわよ、は! って。今の感じを忘れないでね……て無理かな」
「はい、何にも覚えてないです。何を言ってんだこいつ、としか」景子をチラ見する。
「じゃあ、これだけは覚えておいてね。しっかり声を出そうとか、声をより遠くに飛ばそうとか、意識し過ぎても声は響かない。さっきみたいに、自分の感情に従って正直に声を発声させれば自ずと、本来的に持っている素晴らしい声が鳴るものなのよ。だから、これからは、声を出そうと意識しない。意識するなら体――場所的には下腹かお尻の穴ね」
「声を出すとき、お腹を意識すると良いってのは、聞いた覚えがあります。腹式呼吸ってやつですよね。でも、お尻の穴ってのは初耳です。どうしてお尻の穴なんですか、先生。お尻の穴を意識すると良いってなんでだろ? 不思議だな」
今まで静かに座っていた誠二が、活発に話し始めた。軽快に目玉を動かし、将司は、桜井先生と誠二の顔を見遣った。
しかし誠二……よくもまあ、ぬけぬけと、お尻の穴、お尻の穴と、連呼できるものだ。その図太い神経を今度の誕生日祝いに、ほんの少しだけ分けてくれ。聞いてるこっちが恥ずかしい、と将司は顔を伏せた。
「さあ、話していても分からないと思うので、さっそく始めましょう」
桜井先生は立ち上がり、レッスン部屋に歩いて行った。将司たちも後に続いた。