北千住でボイス・トレーニング3
三
重たい扉を押し、将司を先頭にレッスン部屋から外に出た。一時間の体験レッスンが終わった。全身ぐっしょり汗にまみれている。清々しい心地で、ウォーター・サーバーの前まで行った。
レッスン部屋の中で片付けをする桜井先生の姿があった。レッスン前の、ほのぼのとした表情が戻っていた。どちらが本来の姿なのだろう。両方か……にしても、
「お前、すげえな」
隣で水を飲む景子に話し掛けた。
「なにがますか」
一気に飲み干し、溌剌した顔で答える景子の顔を覗き込む。舌を突き出し、鏡越しに将司を挑発してきた妖婉さは、現状では微塵も感じなかった。
「いや、別に……いつからレッスンしてるの景子は」
「うーん、二年前くらいかな」
「てか、なんでレッスン受けてるの、確か今、漫画を描いてるんだったよね」
景子は、にんまり笑顔で
「私は歌って踊れる漫画家さんになるます」
とピースサインを繰り出した。
「聞いたか」と誠二に向くと、タオルで汗を拭う誠二が、苦笑いを浮かべて頷いた。
「歌って踊って漫画も描くって……三個も同時に、できるわけないだろう」
「できるます」景子は頬を膨らませて「同時じゃないから、できるます」
「どういうこと」
「最初に、面白い漫画をいっぱい作って漫画家として認められるが一。記者会見場でいきなり歌ってビックリさせるが二。歌うまっ、ネットで評判になって歌手活動が始まって、プロモーション・ビデオで踊りまくるが三だよ。順番ます、いひひひひ」
幸せそうに笑う景子を見て、将司も笑った。
「うまくいくと良いな」
景子の頭を撫でると
「うーぬぬぬぬぬにんにんにん」と奇声を発して、辺り一帯を駆け回った。多分、照れている。
「将司君たち、ちょっと、こっち来てください」
ソファに座るように促された。細長い白テーブルを挟んで、桜井先生と向かい合う。
「お疲れさま。レッスンは、どうだったかしら」
「疲れたし、驚きもありました。想像していた内容と随分、違ってたんで」
と、桜井先生がする動物の顔真似を、将司はした。
「あはは、確かにそうね。でもね、体験レッスンが、いっつもあれってわけじゃないからね」
「そうなんですか」
「そりゃそうよ。誰かれ構わず、あれでやってたら、みんなビックリしちゃって、誰も入会してくれないと思うわ」
「確かに」と笑いながら頷く。体を存分に動かした直後だからか、朗らかな笑顔が出ている気がした。
「景子ちゃんもいたし、事前に将司君がどんな人物なのか、情報を得ていたから、今日の内容に決めただけよ……さて、どうかな。続けてレッスンを受ける気になってくれたかしら」
「そうですねえ……」
横の誠二を見た。レッスンに通えば、結局、誠二も何らかの形で関わるはずだ。独断はできない。
「なんで俺を見るんだよ。そもそも俺が兄貴にボイトレを勧めたんだからね。忘れたの。あ、先生よろしくお願いします。うちの兄貴を日本で指折りのアーティストに育て上げてください」
「なに言ってんだよ、お前は」慌てる将司に「任せなさい」と桜井先生の力強い声が飛んできた。
「その代わり、やる気がなかったりダラダラしちゃうと、お仕置きがあるかもしれないから、覚悟してね」
こんな至近距離で女性にウインクされたのは初めてかもしれない。桜井先生のチャーミング攻撃に目眩いを覚えた。
どんなお仕置きだか知らぬが、逆に受けてみたい思いがした。
「あの、先生、いいですか」
誠二が手を上げた。質問があるらしき誠二の横顔を盗み見る。
平淡である。お前は今のウインクを見ていなかったのか。なぜに、ぐっと来ていないのだ。こいつとは、女性に対する感性が、さっぱり合わないな、まったく――誠二が質問を始めていた。
「単純に付き添いで居られるレッスンも、あるんでしょうか。見学みたいな形で。今日の内容だと、必然的に俺も真剣に動かないと兄貴の動作の邪魔をしちゃうんで……だとしたら、俺も毎回、気合い入れて臨まないといけないし。あと、そうなると、兄貴だけじゃなくて、俺の分も月謝が必要になってくると思うんですけど。どうなるんでしょうか」
誠二の問いを受け、目を上に上げ、少し考えたあと
「そうねえ、誠二君が動かずに、見学してる状態でいられる内容も、あるとは思うけど、体を共有している誠二君たちにとっては、難しいかもしれないわね。基本的に声は、体で鳴らすもの。体が良い状態になっていないと、声も出ない。だから、常に体に対する要求はすると思う。誠二君も気合い入れて参加してくれると助かるわ」
「もちろん、やりますよ、俺は」
「月謝は――一人分より、ちょこっとだけ多めに、いただこうかしら」
と、桜井先生は笑い、将司と誠二は釣られて笑顔になった。