北千住でボイス・トレーニング2
二
北千住駅下車後、徒歩数分ののちに、手を振る景子の姿が見えた。だぼだぼしたピンク色のスウェット・パンツ姿が新鮮に映った。
「こっちこっちー、こっちますー!」
大きな呼び声が他人の目を引いた。けれど景子は、その一切を感じていないようだった。
将司は羨ましく思った。生きる年月が増えるに比例して、少しづつ、他人の視線を意識する割合は減ってきたが、今の景子のようにはいかない。関係なく生きられる日は来るのだろうか。
きっと来ないだろう。そもそも、真似するだけ徒労だ。なんせ、こいつは――駆けてきた景子が将司と誠二の口にドーナツの欠片を突き入れた。
「なにすんだ!」誠二が咽せながら訴える。なんせ、こいつは――変人だから。
「よおく噛まないと、咽せるます」
「走って口に突っ込むほうが咽せるますなんだよ」誠二が正論を吐く。
「ここのドーナツ、今おすすめ、美味しいでしょ」
誠二が執拗に責めたてそうだったので、将司は割って入る。
「ああ、美味しいな。ずいぶんしっとりしてて、好きな歯ごたえだ」
「ほんとますか」
目を星のように輝かせて景子は将司を見た。
「ほんとだよ。店はどこにあるんだ? 今度、一緒に食べに行こうか」
「わあ、デートみたいます」
「ああ、デートだよ。今度、デートしよう」
誠二の舌打ちが聞こえた。
「何を言ってんだ、ばか。建物どこだ。早く行くぞ。トレーニングをして声を改善するのが最優先だろうが」
「分かってるよ。景子、どこ、この建物かな」
「うん、これです。三階、ぴ!」
景子がエレベーターのスイッチを押した。
室内に入ると、中高生らしき女子二人が、先生と思われる四十代の女性とさよならの挨拶を交わしている最中だった。
女子二人が出入り口に佇む、将司たちと景子に気がつく。
「うわっ、めっちゃカッコいい。一緒に写真、撮ってもらっていいですか」
快くOKしようとした将司は、誠二と景子、両方に抓られて
「ごめんね、ちょっと写真は撮らないように決めてるから」
弱々しく断った。
「えー、残念。じゃあ」女子二人は誠二に近寄り「弟さんですよね、写真」
「あー、俺も無理だ。写真を撮られると、勃起しちゃうんだ」
「えーそうなんですか、それ、見たいー!」
予想に反し、全く引き下がらない女子二人に、誠二は「なんだ、こいつら」と苦笑した。
「ちょ、こらこら! さっさと帰るます! しっし! 誠二君のすけべ!」
景子が割って入る。女子たちは子供みたいに抵抗して
「もー、けいちゃんのバカ」
「帰るます!」
怒った母親みたいな口調で、景子は女子二人を出入り口に追いやった。
「分かったよ、帰るよー。また、会えますよね」
しょんぼりした二人の問いかけに、将司は適当に返事をした。
「寄り道しないで帰るんだよー」
「はーい、またねー」
元気良い返事を受け止めた景子が出入り口の扉を閉めた。女子二人が居なくなって、室内は随分と静かになった。
靴を脱いでスリッパに履き替え、室内に入っていく。
ウォーター・サーバーの前に、紙コップで水分補給をする先生の姿がある。黒いセミロングの髪型で、長い前髪は左右に分け揃えられてあった。
見た感じ、身長は、将司とほとんど変わらぬ一六〇センチ前後。下は体にフィットした黒いジーンズを、上は白いTシャツを着ていた。ほどよく脹よかな体型だ。
八畳ほどの室内は、壁紙、ソファーなど白色で統一され、汚れ一つなく真新しさを感じた。ノートパソコンの机、ソファーにテーブル、ウォーター・サーバー以外は、これと言って物がなく、すっきりとした印象を受ける。真正面にもう一部屋、大きな透明ガラスで、中が見える部屋があった。
紙コップをゴミ箱に捨て
「ずいぶん、はしゃいでたわね、あの子たち」
先生が笑いながら、将司たちに近づいてきた。先生の顔を見るうち、初対面に生じる警戒心が、ほぼ消失していった。
「レッスン中は集中力があって、真面目なんだけど」
「家に帰るまでがレッスンます」
「景子ちゃんが話してた、カッコいい高柳兄弟にやっと会えたから、テンション上がっちゃったのね。では、初めまして――」
先生が将司と誠二の顔を交互に見て、お辞儀をした。
「桜井町江と言います。二人のお話は、景子ちゃんから聞いてます。レッスンを受けるのは、えっと」
「高柳将司、僕です。よろしくお願いします」
「よろしくね、将司君」
差し出された手を握ると弾力があり、柔らかで、ふっと安心感に包まれた。
「せっかくだから、誠二君も体験レッスン受けたらどうかしら」
「俺は、見てるだけいいですよ」
誠二は淡々と答えた。
「そう。残念ね。では、レッスンは奥の部屋でやりますので、行きましょう。景子ちゃんも一緒にね」
桜井先生に従いて入った部屋は、防音室になっていた。桜井先生が力一杯ドアノブを閉めると、雑音が消え、耳の奥がつーんと響くような、居心地の悪さが生じた。
四方に置かれた将司の腰まである大きなスピーカーが鳴り始めた。将司の知らないアップテンポなダンス・ナンバーだった。
音楽操作を終えた桜井先生が、機材密集地帯から顔を出し、将司たちが立つ部屋の中央に歩いてきた。
音楽のノリに合わせて、体をゆらゆらと揺らす桜井先生の姿は、最前までの印象から、がらりと変化していた。目つきも鋭く、舌舐めずりさえしそうな、またその姿が似合いそうな変貌ぶりだった。兎が、蛇か虎かライオンか、凶暴な肉食動物に突如として変身した風に見えた。
「さあ、将司君。音楽を良く聞いて、体を動かしてください」
音楽を突き抜けて届いてくる、桜井先生の声量に、将司は感心した。誠二をちらっと見た。
「見学なんて、できやしねえじゃねえか」
誠二は笑いながら協力体勢に入った。
将司の体は、誠二の体でもある。一人きりでは体は動かせない。将司と誠二は、音楽のリズムに合わせて体を動かし始めた。
目前の桜井先生は、まるで水のように滑らかに動く。正面――鏡に映し出される将司たちの姿は、ただただ固く、ぎこちない。
「固いよ固いよ、二人とも。もっと気持ちよくなるように動かないと。動き方、なんて今は気にしないで、どうやったら楽に体が動いて気持ちよくなれるか、それだけを考えて。ごらん、あの子を!」
あの子、どの子だよ。自分の体を動かす意識に全精力を傾けていた将司は、景子の存在を忘れていた。あの子、イコール景子。二秒で解を得、鏡越しにあの子を探した。
「お前もかよ!」
将司は仰天の大声を出した。しかし、悔しいことに、将司の大声は音楽に打ち消され、すぐに消失した。
腰をくねくね動かし、鏡に映る自分自身を挑発するような表情をする景子は、桜井先生同様、野性味に溢れる動物の仲間入りを果たしていた。
視線を捉えた景子が鏡越しに将司を見て、舌舐めずりした。舌打ちが出た。
「誠二おい!」
「んだよ!」
誠二が怒鳴り返す。
「全然、動物になれねえじゃねえかよ、ちゃんとやれよ、お前、もっと、ゆらゆらしろ、この!」
「なんだよ。動物って、わけわかんねえよ、兄貴」
「二人で揃って動物やってんだろうが! 見てわかんねえか」
「動物になれなんて、先生、一言も言ってねえだろうが」
「はい、そこ!」
矢の如く鋭い声圧が将司たちを捉えた。
「私語げんきーん、はい、一緒に」
即座についていけたのは、景子だけだった。景子だけが「私語げんきーんます」とやっていた。
しかし、景子の声も……隣の誠二の声すら聞き取りづらい状況下で、よおく響いて聞こえてくる。将司は驚きを隠せなかった。
「はい、将司君も誠二君も、一緒に」
四人一緒に「私語げんきーん」と声を張り上げた。当然のように将司の声は音楽に掻き消された。最高の位置づけをしていた誠二の発声も、プロの前では霞んで聞こえる。
脳内で繰り返される圧倒的声量で響く、桜井先生と景子の「私語げんきーん」と同時に、残像として繰り返される発声時の二人の姿を思う。笑顔で、悠々声を出していた。
「張り上げた」と表現した将司自身の姿は、どうだったろうか。辛そうで力みまくった姿が容易に想像できた。
「はい、最後、だらっとして!」
桜井先生の声のあと、アップテンポだった音楽は突如、スロー再生をし始めた。スロー再生特有の間の抜けた音色が笑いを誘い、将司は思わず吹き出し、しまった、と唇を噛み締める。
「はい、将司君、悔しそうな顔は、なしよー。笑って、だらっとして」
将司は顔を笑顔に戻そうと試みた――しかし鏡に映ったのは下手糞な作り笑いだけだった。
誠二を見る……なんて見事な笑顔を見せやがる。自然体だ。レッスン前、見てるだけで、と冷めていた状態から一転、もう楽しんでやがる。
景子は――見るまでもなかった。この差をまず埋めたいと、将司は感じた。自然に――笑う! なんだ、それは嘘丸出しだ。
桜井先生がゆったりと近寄ってきた。自然と体に強ばりを覚えた。不出来な点を指摘される予感で、頭と心が一杯に詰まった。
「最初は作り笑いでもいいからね。変な顔でも一切、気にしないで……と言っても、そんな整った顔をしてる君じゃ、どうやったって変にはならないけどね」
「は、はい。分かりました」
変でも、良いのか……よし。すっと肩の荷が降りた心地がした。
音楽は終局に向かい始め……じわじわと元のテンポに戻り始めた。
桜井先生、景子、誠二ともに心地よさそうな笑顔で、テンポアップが生じさせるカタルシスに身を任せていた。
笑え! 嘘っぽい! でも、いいんだ。笑おうと思って自然な笑い顔を生み出せないのが、この高柳将司だ。
ふはは……なんて嘘っぽい顔なんだ。詐欺師かお前は、あはははは。
余韻を残して音楽が終了した頃。鏡越しに将司は、なかなか良い顔をした自身の顔を見た。