北千住でボイス・トレーニング
第二章 北千住でボイストレーニング
一
翌朝七時前、目覚まし時計が鳴るより先に、将司は一人で目を覚ました。隣の誠二は鼾を掻いている。
将司は気遣い、体を起こすのを止めて携帯電話に手を伸ばした。メールの着信、
「誰からだ……全く気づかなかったな」
メールを開くと件名に「ぬぬぬぬににににに」とあり、景子からの着信だと理解した。
「おはようます。あんまりにも太陽がぴかぴか元気だったから嬉しくなっちゃってメールしたよ。これからはメールのやり取りもできるます。あはははは」
カーテンを動かすと、確かに良い天気で、心地の良い陽光が顔を照らした。昨晩に決定した新たな挑戦に向け、お日様が、将司の気持ちを後押ししてくれている思いがした。
携帯を持ったままベッドに寝転がり、返信メールを作る。
景子と違って、顔文字や、動きのある絵文字を使った煌びやかな装飾は一切ない、淡白なメール文が仕上がった。今まさに感じている快の心地をいまいち表現しきれてない気もするが、将司は、装飾の方法が分からなかった。
「ま、いっか。送ー信」
送信後、一分足らずで返信がきて、将司は失笑した。メールを開くと、得体の知れない坊主が数匹、画面上で走り回る姿が確認できた。
「なんだこれ、驚いてる……か?」
装飾の意図を推測しながら、下にスクロールさせていくと、本文が見つかった。
「えー! ボイス・トレーニング始めるんだ、すごーい。絶対、将司君、やらないと思ってたのに、びっくります。教室は決まったのかなー」
返信文を送信する。今度もすぐに返信があり、余計な装飾なしで、本文から始まった。
「決まってないんだ! だったらさ、私が通ってるとこ、お勧めだよ!」
再び返信文を作成している途中で、誠二が起きた。途中を端折り、場所は? とだけ打ち送信し、携帯をしまった。
数時間後――将司と誠二は昨夜と同じく、東武伊勢崎線の電車の中にいた。
時刻は正午過ぎ、他人の目が煩わしいので、将司たちは普段なら滅多に乗らない時間だった。
東武動物公園駅で乗車してから十五分が過ぎ、首と肩が限界の悲鳴を上げ始めた。目的地の北千住駅までは、あと二十分少々……
「なかなか厳しい道程になりそうだな」
小声で、誠二に語りかける。この体の苦しみを共感できる相手は、この世に誠二しかいない。
将司たちは一つの体で二人分の頭部を支えなければならない。首と肩を筆頭に、ただ立っているだけでも相当に筋力が疲労し、くたびれる。その上、電車に揺られるとなると、立ってる状態以上の負荷が体中に掛かり続け……できることなら、今すぐにでも床に寝転がりたい思いであった。
医師の勧めを受けて、頭を支える首や肩、体幹部の柔軟性と筋力を維持するように、トレーニング・メニューを与えられ、精力的にこなしてはいた。だが、それで万事が解決するわけではなかった。
誠二が汗だくの顔を向けた。
「だから、歩いていける場所を探そうって言ったじゃないか」
「でも、景子が勧める場所なんだ。行って損はないと思わないか」
「今日もし、体験レッスンを受けてみて、仮に良いと感じたとしても、空いてる時間帯が電車に座れもしない日中だったら、俺は絶対に反対だ。絶対に動かないからな」
誠二が力を振り絞って、見解を示した。
「分かってる。そりゃそうだ。俺だって、もう限界――」
優先席に座るスーツを着こなす紳士が、パッと立ち上がり、「どうぞ」と将司に声を掛けてきた。将司と誠二、揃って最高の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にして、席に腰を下ろした。
「ふう……ほんとに助かったな」「まったくだ」安堵して間もなく、吊り革に掴まろうとした紳士のポケットから、何かが落ちた。ピンク色の女物の下着だった。紳士は慌てて下着を掬い上げ、その場から消えていった。
呆気に取られた将司は誠二を向き、互いに顔を見合わせた。誠二が先に口を開いた。
「なんだったんだ、あれは」
「パンツだ」
「パンツは分かってる。でも、なんで、ポケットにパンツが入ってたんだ」
「俺らには理解しかねる事情があったんだろう。彼は、俺らに席を譲ってくれた紳士なんだ。きっと、ちゃんとした理由があったに違いない。余計な詮索はするな」
「ああ、そうだな。でも、なんで席を譲ってくれた直後に、パンツを落とさなきゃいけないんだよ。せっかく「ありがたい」と純粋な感謝の気持ちが生まれていたのに……俺らに見えないところまで落とすなよな、紳士よ」
メールを着信した。誠二の言葉に適当に相槌を打ちながら、メール文を読む。
「先生に頼んで、私と一緒にグループでレッスン受けられるようにしてもらったよ。楽しみます。楽しむます」
誠二には嘘をついた。景子が勧めたから行く気になった訳じゃなかった。景子が同じ時間で一緒にレッスン受けようと言ってくれたから、行く気になったのだった。