タカヤナギズー4
五
東武動物公園駅に到着する車内アナウンスを聞いて、将司たちは立ち上がった。
今なお、床に倒れたままでいる中年男を一瞥すると、仰向けで顔や体が痛む様子で唸っていた。
電車から降りて駅員に声を掛けた。「あそこ」と中年男を指差し、その場を離れ、階段を上った。
駅東口に降り、この時間帯、ほとんど人気のない細道を、将司たちは歩いた。しばらく黙っていた誠二が、口を開いた。
「あんなの、芸人じゃないよな。ナイフ男を何の躊躇いもなく一蹴するなんて」
同感だった。芸人に強さは、必要なのか。プラスに働くどころか足を引っ張るんじゃなかろうか。事実、今日以降、ブライトンのネタを見ても笑えないだろう。あの女の……
「誠二、あの女、名前なんだっけ?」
「えっと、RISAだ」
「そうだったRISAだ」
今後、舞台上で、ツッコミとして用いるRISAの蹴りを見る度に、今日の光景を嫌でも思い出すはずだ。限りなく手加減されたツッコミ用の蹴りだが、そのモーションに入るたび、鼻をへし折る殺人キックが脳裏によぎる。冷や汗は出たとしても笑えはしない。
時刻は午前零時過ぎ。家に帰ると親たちは、もう眠っていた。
これから、将司と誠二は、一緒に食事を摂り、一緒に風呂に入り、一緒に着替え、同じベッドで一緒に眠る。成人した一般の男兄弟が聞いたら気色悪く思う行為だが、将司たちにとっては日常の行為だった。
「大変でしょ」とか「不便だよね」と人によく言われるが、それほど辛さや不便さを誠二はどうか知らないが、将司は感じていなかった。生まれたときからずっとこのスタイルだから、別々に行動する感覚がそもそも分からない。
それから、軽く横を向けば、誠二は視界には入らないし、意識を変えて、単独で存在しているような感覚を保持する方法も持ち合わせていた。その方法を体得したのは中学に上がる直前くらいだった。
今も使う意識を変化させる方法が、幼い時点で将司の中に確立されたのは幸運な出来事だった。それ以降、肉体が一つである点と、不必要に注目を受ける以外は、意外にも大変ではなかったのだが、これまた誠二はどうだったのか、将司は知らなかった。
「さて、また来週まで、どう過ごすかね」
風呂の中で将司は、のんびりとした口調で尋ねた。
「あの……武藤さんの友達が言ってた内容はさ、かなり的を射ていたんじゃないかなあ。実際、アンケート用紙にも毎回、同じような内容が書かれてあったしな。だが、どういうわけか、兄貴はそれを素人の意見なんか関係がないと、いつからか無視するようになった」
将司は頭を風呂の壁に押し当てて、大きな伸びをした。
「だってさ、声なんて生まれ持ったものだろう」
「努力すれば変わるだろ」
「お前は努力したのかよ」
「いんや」
「ほら」
誠二が首を振って将司に向いた。
「何が、ほらじゃ。俺が元々よく響く声を持っていたとして、兄貴が努力しても変化がない理由には全然ならないじゃないか。大体「聞き取りづらい」なんてさ、芸人として真っ先に改善しないと駄目な点でしょ。閃いた。こう考えたら、どうだろうか」
「なんだよ。もうそろそろ、のぼせちゃうから、あんまり長々するなよ」
誠二が「平気だから、早く喋らせろ。黙って」と目配せをした。
「兄貴は俺と違って、努力を施して初めて力を発揮する声帯を持っているんだよ。だから現状の音色が悪いだけなんだ。大概、双子は声が似てるだろ。それなのに俺たちは、まるで声が違う。潜在能力としては兄貴も俺と一緒で、よく響く良い声のはずなんだ。間違いない。兄貴の声帯は磨かれるのを待っているぞ、さあ、行こう! やろう!」
テンションの上がった誠二は、浴槽に溜まった湯をバチバチ手で叩き、大声を出し始めた。
「ば、ばか! やめろ、何時だと思っているんだ」
慌てて誠二の口を手を封じ込めながら
「行くって、どこへ? やるって、何を?」
「決まっているだろ、ボイス・トレーニングだよ」
「えーー」
一度やると決めたら絶対に揺るがない。誠二の気迫に満ち満ちた目玉が鬱陶しい。
声に対しては、いつだって前向きになれなかった。最高の楽器が常に隣にいて、将司は酷い。長期に渡って植え付けられた劣等意識が、トレーニングに前向きになれず、放置していた最大の理由だった。やっても、だめだったら?
将司は湯の中に頭を沈めた。