タカヤナギズー2
三
劇場のある建物から外に出ると、空は暗く、小雨が降っていた。未だほとんど収入のない将司と誠二は、埼玉の実家から週一で渋谷の劇場までやってきていた。
渋谷の街は若者が多く、変わっている将司たちを、無遠慮に眺め、気味悪がる連中が多かった。
あまりに無礼な言動を吐き続けた男に、誠二が突っ掛かり、喧嘩になった時もあった。巻き添えを食らい、生まれて初めて顔が大きく腫れ上がった。自分のせいで将司まで暴行を受けた事実に、誠二は強い責任を感じ、何度も謝ってきた。
あの一件以来、どんな無礼を受けようとも誠二は受け流し、できうる限り速やかに、駅へと向かう方針にしていた。
小雨のおかげさまで、通常よりは人通りの少ない横幅のある道を、遠くまで見通せた。
「準備はいいか」
誠二が横で声を掛ける。将司は右手グーにして誠二に差し出した。こつんと拳を当てた誠二は、
「至急かつ速やかに最短距離で、今週も駅まで突き進みましょう……せーの」
周りに聞こえない小ささで誠二が「一」と呟いた。同時に左足を一歩前へ運ぶ。将司は続いて「二」を呟き、同時に右足を動かそうとした瞬間、
「ヘイ!」
女の鋭い声が、将司の二の足を止めた。誠二はバランスが崩れそうになる頭部を左腕でなんとか止めた。
「おい、なんだ、急に止まりやがって。危ねえな。最短距離で突っ込むって言って――」
将司を咎めようとする誠二の声は、中途で止んだ。片目に黒い眼帯をした武藤景子の姿があった。
「久しぶりだね」
養成所を卒業した数年昔と変わらぬ声色で、目前の景子は口を開いた。
黒いミニスカートに、黒いコートを羽織っている。昔は……眼帯は白かったはずだが、今はそれも黒くなっている。相変わらず、黒が好きなようで、急に懐かしい思いに駆られた。
武藤景子は養成所時代の同期だった。誠二はあまり関わりを持たなかったが、将司は相当な時間、景子と会話を交わし、様々な話をした仲だった。養成所で出会った頃から眼帯をつけていて、未だ嘗て、眼帯を外した姿を見ていない。
卒業後間もなく、芸人を辞めると言ったきりだった。
「帰るとこ呼び止めたみたい。ごめんね」
「そうだねえ……」
将司は誠二を覗く。携帯を取り出し、イヤホンを耳に取り付けた。不服そうな顔をしているが、将司の気持ちを尊重して、気を使っているのが分かった。
「どうしてここにいるんだ」
「ちょっとね。用事があって東京に来たから、寄ってみた。見たよ、舞台」
「どうだった。七年目の実力は感じられたか」
武藤景子に問いかけながら、あれ? と将司は不審に感じた。以前の景子と言えば語尾に「です」だったはずだ。
「うん、上手になってたです。昔と違って、ちっとも緊張してなかったねです」
景子の肩を叩く
「おーい、忘れてたんだろ。俺の顔色を見て思い出したんじゃねえのか、それ?」
「な、なにがです。何にも忘れてないですよ」
屈託のない笑顔で誤摩化す景子は、恐ろしく可愛く映った。
「別に今は使ってないなら、無理してやらなくてもいい」
「無理してないます」
「ます! なんだ、それ? どうした武藤景子」
「今はどっちかって言うと、ますを使ってる……ます」
景子の言語感覚には、今も昔も、ちょっとついていけない。
「そ、そっか、ますね。なかなか可愛いじゃないか」
「そうますか……あ」
景子の携帯が鳴った。メールのようだ。将司を気にせずメール文に目を落とした。
「えっとね、さっきまで友達も一緒だったんだけど」
「そうなんだ。先に帰ったんだ」
「うん、バイトあるからって。で、その子から、感想のメールが届いたです」
「ほう、それは興味深いね。なんて書いてあるの」
景子の顔が少し曇った。
「……その子ね、お笑いにうるさいというか、厳しいから、基本的に辛口なの。あまり気にしな……やっぱ見ないことにするます」
景子がささっと携帯を仕舞おうとした。
「おいちょっと! 気になってしようがないだろ。見せろよ。何か書かれてても平気だから。アンケート用紙で、散々酷評されてるから慣れっこよ」
「ほんとますか? 泣かない?」
「泣くかよ」
失笑しながらも将司は怯えていた。会場のお客さんに配られるアンケート用紙で、大概書かれるのは、将司に対しての酷評だったからだ。いつからか、目を通すのを止めていた。
「泣いて地面に踞らないって約束するなら、見せるます」
「約束するますするます」
将司は右手の小指を立てて、景子に差し出した。バッグに入れた携帯を景子は弄る。
「無視かよ」
将司が笑っていると
「読むよ」
将司をじろっと一瞥したあと、景子は冷たい声で告げた。
どうぞと将司はジェスチャーをする。
「特異な体を上手く使ったネタに、仕上がっていた。周りのコンビが、荒削りというか、細部まで考えられてない印象の中、タカヤナギズはきちんと出来上がっていて、レベルの違いを感じました。どうしてまだ、最下層から抜け出せないのか、不思議だね」
将司たちが出演している舞台にはランクが存在した。その数、七。上に行けば行くほど、出演人数は絞られ、ギャランティも高額になっていく。
天辺と二の舞台は、ほとんどテレビで見る有名タレントが犇めいているので、無名なまま割り込むのは至難。無名で上れる天辺は三の舞台だと将司は思っていた。実際、テレビに出ていない同期の芸人が何組か、三の舞台に出演していた。
テレビに出演して名前を売るチャンスと、三の舞台を目指して、将司と誠二は七年間も努力を続けてきたわけだが……。
「なんだよ、脅かしたわりに、良い内容じゃん」
「こっから悪い内容ます」
将司は舌打ちをする。
「泣かな――」
「いいから、早く」
「ツッコミの人の声が聞き取りづらく、ツッコミをする人としては、ちょっと致命的かも。ところどころなんて、言っているのか分からなかった。ボケの人の声はクリアで、声量があるだけに、余計にその点が際立って、気になってしまった。ツッコミの人の声がクリアされれば、もっと笑えるし、どんどん上に行けると思った」
景子が将司を覗き見た。えーん、と嘘泣きすると、景子はヒヒヒと悪い魔女のような、気色悪いが昔から好きだった独特の笑いを浮かべた。
気色悪く笑いながら景子は続ける。
「両方とも顔が格好良過ぎ」
「なんだ、それ? 関係あんのかよ」
「坊主と、さらさらショートにしている意図は、あるんだろうか……だって。以上ます」
将司は顔を歪めて首をポリポリ掻いた。
「やっぱな。俺だ。いつも言われる内容なんだ、それ。養成所でも講師陣にいつも言われてたじゃん。発声をしっかりやれ、ってさ」
「あー、言われてたね。いつも立たされて怒られて、誠二君は関係ないのに、可哀想だったね」
景子がイヒヒと笑う。
「その笑い方、まだ継続中なんだ」
「これはやり方じゃなくて、あたしだから」
「そうなんだ、すごい好き、その笑い方」
景子がビクっと震えて、後ずさった。
「どうした」
「照れるます」
景子は俯き加減で、ぼそっと呟いた。
「あはは、可愛いね。最高」
「もー、バカにしてんのかー」
キンキン耳に響く高い声を出しながら、将司の肩をぽこぽこ叩き始めた。振動でこっちに気づいた誠二がイヤホンをしたまま、口を大きく動かした。
「まだ?」だった。
「じゃあ、そろそろ行こうかな。誠二も、そろそろお怒りだろうし」
景子は目をぱっちり開き、頷いた。誠二の元に行こうとする景子を手で制し、将司は慌てて自分の携帯電話を取り出した。
「連絡先、教えて」
元から大きな、眼帯のない景子の目玉は、二割増ででっかく見開かれた。
結局渋谷駅まで「送るます」と景子は従いてきた。
「バイバーイ」と大声で手を振る景子に失笑しつつ、将司と誠二は景子と別れた。