第八章
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雨が降ると思い出す。
蕭蕭と降る霧雨の中、泣き濡れた少女の声を。
あの日だけは迷わずに行けた薔薇の咲く庭。寂しげな声が呼んでいる気がしたから。
「どうして泣いてるんだ?」
それが誰だか知らずに、自分が誰だかも伝えずにそう尋ねた。
「だって枯れちゃうんだもん」
金属の器に落ちた水滴のような声で少女が答えた。ぐしぐしと鼻をすすり、大きな目から雨より大粒の涙を流して少女が続けた。
「私が触ると……薔薇も、他の花も……可愛い猫も、人も枯れちゃうんだもん」
ざわりと嫌な寒気が背中に走った。ふと足下を見ると、見慣れた藤色の侍女服が見えた。
「ぅわっ!」
腰を抜かすのも当然だ。
藤色の侍女は、枯れ枝のように渇き果てて死んでいた。白く濁った目が、無表情に少女を見上げていた。何千粒か目の雨粒に打たれ、侍女の枯れた体は霧散した。湿った灰が、下生えに散り、雨に打たれては凝った。
「私……私、こんなことしたくないのに……みんな枯れちゃうんだ……」
さめざめと泣く姿は、少女らしさとは無縁の、遠慮がちな泣き声で。あまりにも切なげになくその子を思わず抱きしめたくなった。
「近づいちゃ駄目!」
気配を察知した少女が叫んだ。泣き濡れた緑の瞳は薔薇の葉よりも艶やかで、無意識に手が動いた。
「だいじょうぶだよ」
そっと、その頬に手を触れる。思った通り、柔らかな頬だ。ゆっくり手を放し、今度は本能の叫ぶままに抱きしめてやる。泣いている弟をあやすのによくやる手だ。
「ぼくはかれたりしないんだ」
にっ、と歯を見せて笑う。少女の心配を余所に、白い肌は、銀の髪は、水分を失うことなく生命のみずみずしさに満ちていた。
――その時からだっただろうか。
アスクは雨が降るたびに自問する。
その日は朝からおかしかった。朝日が昇る気配がしないと思ったら、暗い雲が空一面に広がり始めていた。すぐに――つ、ぽつ、と雨粒が落ちだした矢先、滝の如き雨が降り出した。窓硝子をひっきりなしに打ち付ける雨は五月蠅いほど大きく、雷が鳴っていないことの方が奇跡だった。
「こんな日はじっとしておるのが一番だよ」
豌豆の選り分けをしながらラーンが呟いた。
「そうだね……今日は大人しく羊小屋の掃除でもするよ」
「羊たちを宥めてやるのも忘れずにね。外に出られなくてめぇめぇ言っているだろうから」
「うん。……フレンも、羊……やる?」
「…………私はいいわ」
素っ気なく返され、ノルンは仕方なく一人と一匹の犬とで羊の世話に向かった。羊小屋は母屋から然程離れてはいないが、この雨では濡れずに行く方が難しい。雨用の外套を被り、ノルンは急いで羊小屋に避難した。
「はぁぁぁぁ……疲れた」
「空気が重いな」
「雨のせいだけじゃないんだよね……。まったく、何てことしてくれたんだよ、ゼンは」
重い溜息をついた。
フレンが恋に破れてからというもの、家の中が何とも居心地が悪い。どうにかフレンを元気づけようとあの手この手を講じてみたが、どれも不発に終わった。
「あのオリガもどうにもできなかったのを、私がどうこうしようと思う方が間違ってたんだよね。反省」
「天下の〈荊の魔女〉も、恋の病は治せないらしい」
「世間一般ってヤツは難しいね」
「それもまた経験だ」
一人と一匹はふぅぅぅぅぅ、と長い溜息をついた。羊たちだけが呑気にめぇめぇ鳴いていた。
「一体いつまでそうしているつもりだい?」
一方家の中ではラーンが落ち込み続けるフレンに話しかけていた。相変わらず豌豆を選り分けながらの話だが、ラーンの声は穏やかに聞こえた。
「お前がゼンを好いていたことくらい昔から知っていたよ。でもどうして突然告白なんかしたんだい? え?」
「だって……」
糸巻きもせず、ただぼんやりと雨が降るのを眺めている。フレンの言葉は雨音に紛れながらぽつりぽつりと零れ出た。
「最近、落ち着かないの……焦っているのかしら……。オリガも結婚しちゃったし……村で残ってるの、私くらいだし…………。市に行っても糸を納めに行ってもいつ結婚するのー? とか、紹介しようかー? とか……うんざりしていたのかも……」
「それで、言っちゃったのかい?」
「それで、言っちゃったのよ。つい、こう……ぽろっと」
嘘。
本当はいつでも準備はできていた。
ゼンに気持ちを伝える準備。ゼンのお嫁さんになる準備。ゼンの奥さんになる準備。ゼンの子供を産む準備も……。本当は全部、準備していた。
「私……馬鹿ね」
気持ちを伝えたところでそれを受け入れてもらえるかどうかなどゼン次第だったのに。心のどこかできっと大丈夫だと高をくくっていた。ゼンがフレンの手を取ってくれると、勝手に思っていた。
「ホント……馬鹿」
救いようのない馬鹿だ。
「本当に好きだったのに……」
ぱさぱさの金髪も、古びた本に埋もれているところも、日だまりのような笑顔も、何もかもが好きだった。ずっと隣にいたかった。母のラーンのように年老いた老婆になっても二人で軽口を叩いて笑っていたかった。
「なのにあの人……ひとりで生きるだなんて言うの…………。そんなこと言われたらああ、あたし……」
あの時フレンは見てしまった。
ゼンの紅茶色の瞳の奥に隠された孤独の影を。覚悟の光を。
それがどうしようもなくフレンを突き放し、取り付く島も与えなかった。
「あの子は昔からそうだっただろうに……本当にお前は馬鹿だねぇ」
机に突っ伏しているフレンの頭をラーンの固い掌がそっと撫でた。
「西の戦争から逃げてきたあの子たち親子をよく見ていたものねぇ。そりゃお前、情もわくよ。ゼンはいつだって笑っていたし、さしのべられた助けの手を無下にすることなんて一度だってなかった。けどね、お前、気づいていたんだろ? ゼンが中央で酷い目に遭ってきたこと」
最後の言葉にフレンははっとした。
「私が気づかないとでも思っていたのかい? とんだ馬鹿娘だよ、お前は」
白く濁った目が優しく細められた。
「片足のこと、田舎の出だってこと、中央のお偉い人の子にとっちゃあゼンは目障りだって事くらい老いぼれにだって分かるよ。思えば中央から帰ってきた時からだったかねぇ、あの子が妙によそよそしくなったのは」
「……うちにご飯食べに来たって、いつも見えない壁があったわ。誰も寄せ付けないの。誰もゼンの中に入れてくれないの……」
何も変わらぬふりをしていた。ゼンも、フレンもラーンも。互いに気を遣い、触れられたくない部分を隠し、見ないふりをしてきた。
「だから私、もう耐えられなくて……」
昔みたいに戻りたかった。気の置けない二人に戻りたかった。だからあの時口をついて言葉が出てきてしまった。
「私……ゼンが、私となら解り合ってくれるって勝手に思っていたの……!」
溢れる想いは熱い涙に変わり、フレンの頬を流れて落ちた。窓硝子が風で震える。雨が礫のようにぶつかってくる。フレンはいつの間にか声を上げて泣いていた。その声は嵐の音にかき消され、外に洩れることなく内に籠もった。
「けどね、お前。寄る辺のない人間なんてこの世に一人もいないんだよ」
選り分けた豌豆を脇に置き、ラーンは娘の顔を両手で包んだ。まあなんとみすぼらしい顔だろう。これじゃお嫁の貰い手もないわ。普段ならそう悪態つくところだが、今日くらいは止めておこう。歳のせいか小刻みに震える手で、幼い子供にするかのように涙を拭ってやった。
「本当に孤独に生きていく人間なんざいやしないよ。結婚しなくたって、お前、ゼンと生きてやることはできるじゃないか。今までだってそうしてきたんだから。そうだろ?」
「でも……」
「行き遅れがなんだい? 行かず後家がなんだってんだい? 上等だよ。お前、世間様に後ろ指指されるようなことは何一つしていないんだ。胸張って堂々と生きるんだ。こんなところでいつまでもぐじぐじ泣いてるんじゃないよ」
「お母さん……」
年老いた母の胸は頼りないほど柔らかく、昔と変わらぬ匂いがした。石鹸と台所の匂い。何よりも落ち着く自然の匂いがフレンの嗚咽を鎮まらせた。
「お前は、ゼンの寄る辺になっておやり。確かな形がなくても不安がるんじゃないよ。そんなもんで人は生きているんじゃない。大切なのは、心のあり方だよ。分かるね?」
こくり、と黙って頷けば、自然とそんな気がしてきた。
「ありがとう……お母さん」
でも後悔はしていない。ゼンに告白しなければそんな答えにたどり着かなかったから。
フレンは睫毛を涙で濡らしながらも笑った。
「まぁ、花嫁姿が見られないのは残念だけどねぇ」
ラーンも笑った。
嵐の日。束の間の悲恋と覚悟。それがたとえ苦難の道であっても歩いて行ける。フレンはそう思った。
弾丸のように降り注ぐ雨に気を取られている場合ではない。雨と森の木々に遮られた最悪の視界の中、アスクは馬を走らせた。
「アスク様! これ以上は無理です! 馬も疲弊しきってますよ!」
「一刻を争うんだ! 止まっている暇はない!」
「ですが!」
リトがアスクの前に出て馬の足を止めた。息を切らし、真摯な目でアスクを諫める。
「無理は全ての歯車を狂わせます。今は、休息を……」
ふと愛馬に目をやれば、気丈な顔をしているものの、雨でどんどん体温が奪われている。これ以上の移動は、スレイプニールの体に負担をかけすぎる。
「…………分かった」
己の焦燥で馬も、リトも駄目にしてしまうところだった。
「先程休めそうな小屋を見つけました。休ませてもらいましょう」
「……すまない」
「焦る気持ちは分かります。けど、焦ったところでいいことはありませんよ」
「そうだな……」
ビビリのくせにいざというとき頼りがいのある奴だ。アスクは苦笑しながら森の小屋へと向かう。遠くで雷鳴がかすかに轟いた。
その小屋は無人だったが、小さな厩舎もあり、二頭の馬も体を休めることができた。おそらく旅人のための無人宿か何かだろう。乾いた薪と古びたタオルも備え付けてあった。アスクとリトは暖炉の火を熾し、濡れた服を乾かした。持っていた荷物もびしょ濡れだったため、ほとんど下着姿の二人だったが、誰が見ているわけでもない。気にしなかった。
「王子……なぜ西に向かうと城に知らせなかったのですか?」
リトはずっと気になっていたことを尋ねた。暖炉で薪がぱち……と音を立てて爆ぜた。
「それにあの使い魔の白い鳥は一体誰の……」
「それはまだ言えない」
赤々とした火がアスクの白い肌を照らす。深刻な、王子としての顔だ。旅の間は二人だけなので気兼ねなく過ごしていたが、本来城にいる時のアスクの顔は、今のこの顔だった。この国の未来と、責任を負った稀代の王子の顔。リトは寒さのせいだけではない身震いをした。
「ただ言えるのは、今の城内に私が信頼できる人間はただ一人しかいないということだ」
「どういうことですか? ただ一人? その方以外は、皆信用できないとでも?」
――この私ですら?
最後の一言はぐっと飲み込んだ。だが言外の態度に出ていたのだろう。アスクが小さく笑い、
「お前以外にもう一人、ということだ」
と言った。羞恥心で顔を真っ赤にし、いたたまれずにいそいそとお茶を淹れ始めた。
「なぜ、〈荊の魔女〉……いや、ノルンがいなくなったのか、俺はある人物に探らせていた」
温かな湯気を立てる紅茶を受け取り、一口すする。じわりと広がる熱に安堵の息をつきながらアスクはリトを見た。
この男は信用に足る。幼い頃からアスクの全てを見てきた男だ。それでも変わることなく忠誠を誓える稀有な人間だ。アスクは自分がいかに欠落した人間であるかを知っている。いかに強い力を持とうとも、生きていく上で必要な力ではない。道に迷わない術や、ものをこぼさず食べる方法などの方が魔術より余程役に立つ。それらを持たないアスクだと知っても旅に随伴してくれるのだ。
だから、アスクはその信頼に応えよう。
「魔女か王が代替わりをするたびに結ばれてきた〈久遠の誓い〉が、破られたからだ」
「まさか! だってそれは、」
「ああ。王族の誰かが、魔女の命を狙おうとした、ということに他ならない」
一際大きな音を立てて薪が爆ぜた。
紅茶の湯気が不吉な風にあおられて揺らめく。
「〈久遠の誓い〉は大まかに言って二つ。王族はこの国の治政を行うこと。そして、〈荊の魔女〉の身の安全を保証すること。その二つさえ満たせば、彼女は〈永遠の祈り〉、つまりは〈荊の柵〉をもってこの国を護る。そういう契約だ」
王族以外は知り得ない〈久遠の誓い〉と〈永遠の祈り〉の真実。知ってしまえばなんと身も蓋もない契約なのだろう。
「ただ、魔女の身の安全というのは本当に厳しい。〈荊の魔女〉はその強すぎる魔力のために物事を歪めてしまいかねないからな」
「物事を……歪める?」
「ああ。たとえば……そうだな。この紅茶でいい」
アスクは自分のカップをリトの眼前に突きつけた。
「熱い紅茶は時と共に冷え、放っておけば乾いていく。だが、〈荊の魔女〉が紅茶を手に取れば、熱は増していき、最終的には紅茶はカップから泉のように沸き上がる」
「そんな馬鹿な……」
「そんな馬鹿なことが、起こるんだ。それが彼女の真に恐るべき力。急激にではないにせよ、徐々に森羅万象、因果律を狂わせ、秩序の円環を崩壊させる存在。それが〈荊の魔女〉だ」
手の中の紅茶はすでに熱を失いつつある。これが再び熱を持つ? 湧き出る? 信じられない。
「だからこそ、オルディン王は彼女を憐れんだ」
雷光が走る。
逆光のアスクの顔が、見たこともないほどに険しい。
自分は今、この国の秘密を聞いているのだ。
リトはようやくそれを実感した。指先が震える。否、体全体が震えているのだ。奥歯がかちかち鳴り、雨で冷えたはずの体が汗を流す。それでもアスクの話の続きを知りたい。冷えた紅茶をぐっと一息で飲み干し、冬の湖面色のアスクの瞳を見据えた。
「はじまりの魔女の手により国を興したオルディン王は、その力故に行き場をなくした魔女を受け入れた。そして彼女の望み通り、力を抑えるための住まいを建立した」
頭の中には枯れ果てた侍女の死に顔が思い浮かぶ。だが、これは幼き日の、力の暴走だ。話すべきことじゃない。
「それが、〈因果の塔〉……ですね?」
慎重に尋ねるリトに、アスクは頷いた。
「そうだ。〈因果の塔〉に咲き誇る薔薇は呪術。オルディン王が編み出し、初代賢女が受け継いだ呪い。魔女はあの塔で生まれ、塔の薔薇に縛られて生きる。それしか彼女らの生きる道も、我らの生きる道もないからな」
ノルン。限られた場所にしか行けなかった可哀想な少女。オルディン王の加護のある薔薇園で出会ったあの頃には知らなかった過酷な運命。
「だがノルンはその呪いから放たれた」
今日と同じ雷雨の夜。
先代――正確には先々代の〈荊の魔女〉が亡くなった日。おそらくあの日、〈久遠の誓い〉が破られた。
「ノルンは賢い少女だ。〈久遠の誓い〉が破られたことに気づき、身を守るために逃げた。俺は……そう考えている」
ぐ、とカップを持つ手に力がこもる。
今でも覚えている。
雨の夜、眠れず歩いた城の中。案の定道に迷い、これは日の出までに部屋に戻れるかどうか定かではないな、と幼心に途方に暮れていた時。
薔薇園の中で、泣き声が聞こえた。
雨の中で一人、泣き濡れる女の子。
自分よりずっと小さい。弟のシャルヴィと同じくらいか、もう少し下の子。不慮の事故で侍女を殺してしまった少女。死んでしまったお母さんのところに行きたいと泣きじゃくるその子を、一晩中慰めていた。どう言ったのか忘れてしまったが、最後にはふにゃりと笑ってくれたのが嬉しかった。真雪の髪が綺麗だと言ってくれたのも嬉しかった。お月様みたいな目だと覗き込んできた時は恥ずかしかった。けれどもその子が笑ってくれるなら何でもよかった。
「リト」
「はい」
「俺は……ノルンが笑っていればそれでいいんだ」
「……はい」
リトは知っていた。
アスクが幼い頃、夜の寝台を抜け出してはどこに行っているのかを。王子の側近として突き止めてやろうとあとをつけた夜。リトといる時には見たことのなかった幼い笑顔で笑うアスクを見た。人形のように美しい少女と笑うアスクを、リトは連れ戻すことなどできず、まして後日問いただすこともできなかった。
――王子は、恋をしている。
薔薇の香りの恋を。そして王子は、その幼い恋を、忘れてなどいない。
「……俺は正直迷っている」
項垂れたアスクは躊躇いがちにこぼした。
「ノルンは今どこぞで幸せに暮らしているのかもしれないと思うと……見つけるのが正しいことなのかどうか、確信が持てない。ノルンがこの手を取って戻ってくれるかも、自信がない」
がむしゃらに探してきた。道に迷いながら方角を間違えながら。けれどもふと思うのだ。
「俺が道に迷うのは、心が迷っているからではないのか? だからこうして西にいると分かった今でも、無茶をして迷いをなくそうと必死だ……」
「王子」
何が起こったのか分からなかった。
いきなり両頬に衝撃が走り、じんわり痛みと熱が広がってきた。
「リト……」
瞬き三回してようやく分かった。
両頬を叩かれたのだと。
今もリトの手はアスクの頬を挟んで微動だにしない。
「寝言は寝ていってください。何のために私を連れてここまで来たんですか? 〈荊の魔女〉が王子の手を取らない? 知ったこっちゃありませんよ。いいですか? 貴方は王子なんです。王子って奴はですね、多少我が儘言ったって罰は当たらないものなんです」
「どんな理屈なんだ、それ……」
「理屈とかそういうの、どうでもいいんです。私はね、王子。大事なのは、貴方が、何を、どうしたいかってことだと思いますよ」
頬を挟んだままリトの額が額にぶつかった。もとい、頭突きが来た。くゎんくゎんと揺れる頭を抱えて見たリトの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「貴方、自分がどうしたいのか見えてないんですか? 私にだって貴方がどうしたいかくらい見えているのに……」
慧眼の王子も、自分のことには疎い。ただぽかんと口を開けているだけのアスクに、リトは溜息をついた。
「貴方は、自分の意志で、彼女を探しに来たんじゃないんですか? だったら答えは見えているでしょう?」
呆然としていた瞳に徐々に、わずかずつだが光が戻り始めた。
そうだ。
何を迷うことがあるか。
アスクはとうに自分で道を決めていたのに。
「〈因果の塔〉の加護がない今、ノルンの身が心配だから、俺が来たのに……それを忘れるとは、俺も愚か者だな」
「ええ。国一番の愚か者ですよ」
「さすがにそこまでは言ってない」
「あわわわわすみませんでした! 口が過ぎました……っていうかわわわ私王子のことひっぱたいてしまってうわあああああああすみませんすみません!」
「いや、いいんだ。おかげで目が覚めた」
これでもかと謝り倒すリトにアスクは肩を叩いて応えた。
「ノルンの出奔は元を正せば王族の失態からだ。何が何でもノルンを見つける。そして〈久遠の誓い〉を破った者も見つける。それからのことは、それから考えよう」
最後だけ聞けばなんと投げ遣りな楽観視だろうと呆れ果てるが、当座の目的がはっきりしさえすればいい。少なくとも、今のアスクに先程までの薄弱さは感じられなかった。
「ところで王子。城の中で探っている人物とは、誰ですか?」
「名は言えない。そういう約束だからな。ただ言えるのは、そいつはこの国で最も聡明な人間で、且つ史上最悪の黒い腹を持つ人間だと言うことだな」
楽しげに笑うアスクに、リトは「はぁ?」と言うしかなかった。
――琥珀色の記憶。
戦乱の時代、血煙が上がらぬ日はなかった二十数年前。
記憶の中のあの人は、今も変わらず美しい。
「なぜ王は今更セルリリーク族と事を構える!? 常に不干渉の姿勢を取っていたのに……!」
憤慨しているのは誰だ…………ああ、若い頃の私か。鮮やかな翡翠色の目は今も昔も変わらない。
「しかもまた君に……戦乙女などという不名誉な名を背負わせて……!」
若かりし頃の宰相は心底悔しそうに歯軋りをした。握りしめた拳はかすかに血を滲ませていた。
これは記憶の残滓。濾過した記憶の澱の部分だ。
「いいのよ、私は」
椅子に座ったまま彼女は言った。椅子に張られた天鵞絨は深紅。
「お母様から荊の宝冠を譲られたけど……私にはまだ荷が重かったのかしらね……」
彼女――真の先代〈荊の魔女〉は悲しげな笑みを浮かべてそう言った。
戦乙女と称され、アウリール二世の御代に多くの血と勝利をもたらした〈荊の魔女〉ロータ。波打つ黒髪、海のように深い藍の瞳。頬と唇は薄い薔薇色。見るもの全てを陶酔の底に落としてしまう程愛らしいノルンとは違い、少し垂れた目と口元の黒子が魅力的な大人の女性。だがその顔は悲哀と自嘲に満ちていた。
「今回の侵略戦争は、私のせいよ……」
「馬鹿なことを言うな、ロータ!」
冷静沈着が服を着て歩いているようなグリーノの印象とはほど遠い。感情を剥き出しにし、怒りで肩まで伸ばした髪が逆立ちそうなほどだった。
「君のせいなんかじゃないだろう!? ……あれは……事故だったんだ」
五日前。セルリリーク族の放った矢が、ライアドル国内に入ってしまった。不幸なことに、一人の少女に当たって……。
「アウリール二世は何でもいい、戦の理由が欲しかっただけなのよ。領土拡大こそが彼の最大の使命だと思い込んでいるの」
ロータは長い睫毛を伏せ、笑った。
「彼の側にいる賢女もそう。勝利はいつだって血の味がするのに、それを美酒だと思ってしまったら最後……殺戮を繰り返すだけよ」
たおやかな手が震える。その手には開戦の理由になった一本の矢が、握りしめられていた。
「私の〈荊の柵〉が……もっとちゃんとしていたら……! あの日、セルリリーク族の年に一度の狩猟祭があるって知っていたのに! なのに私……東の柵を強化しなかった……」
涙の雫が矢を濡らす。血に濡れた矢尻、矢羽根に落ちて散る涙。悔やんでも悔やみきれない愚かな過去の自分。自分の愚かさが少女の死を招いた。そして今、大勢の命が刈り取られようとしている。
「王を止め、諫めるのも私の仕事なのに……! なのに私が戦の理由を与えてしまった……」
「ロータ、もう自分を責めないで」
頽れそうな肩をそっと包み込む。折れそうなほどに細い体。この体に一体何人の命を背負い込むのだろう。
「私にもっと力があれば……王を失脚させることだってできるのに……!」
戴くべき次の王はすでにいる。彼だって今回の侵略戦争を快くは思っていない。
「いいの、グリーノ」
グリーノの手に触れたロータの手は氷のように冷たかった。
「因果はもう巡ってしまった。ならば私のすることはただ一つ」
藍の瞳が金に変わる。
――ああ、その答えを出さないでくれ。
「戦乙女として、私はこの国を勝利に導くだけ」
気づけばそこは寝台の上。
何日も降り続いた雨も上がった朝。扇のように広がった鳶色の髪、広がる白い天井。ここは青薔薇城の東、宰相の邸。グリーノは朝日に目を細め、独りごちた。
「…………古い夢だ」
無造作に髪をかき上げ、溜息をつく。寝起きの倦怠が張り付いた体を起こし、ふと鏡を見る。
踊り子だった母によく似た顔は、不思議と老いを知らない。皺とも染みとも無縁なその顔。ベルタの嫉妬を一身に受ける容貌は、グリーノの密かな自慢だった。
「君は私を、ちっとも怖がらなかった。そして誰よりも私を知っていてくれた……」
鏡台の上、静かに佇む琥珀を見た。薔薇琥珀だ。小さな紅薔薇が樹液の時間と共に止まっていた。絵姿もない、〈荊の魔女〉の残したただ一つの形見。艶やかなそれを手に取れば、しっとりとした重みが伝わる。
「これを置いて、君は逝ってしまった」
ロータが物言わぬ死体になったのは、ノルンを産んだその直後。彼女が残したのは、ライアドルの血塗られた歴史と、娘とこの薔薇琥珀。
「ロータ……」
亡き人の名は朝日の中に霧散し、ただの寂寞だけがグリーノの心に落ちてきた。
チチ、
小鳥が窓辺で鳴いた。よく磨かれた窓を開け放ち、戯れる二羽の小鳥を招き入れた。片方の鳥の足に目をやれば、手紙が結びつけられているのが分かった。すぐに窓を閉め、手紙を解き始める。小さく折りたたまれた紙片を広げ、ざっと目を通し、
――笑った。
それはいつもの穏やかな笑みではなく、暗く、湿った笑みだった。
もう一羽の小鳥の姿はなく、先程まで遊んでいた場所に一枚の紙片が落ちていた。それを拾い、同じように目を通す。均整のとれた顔は徐々に厳しく、険しく変わる。
「……急がなければ」
一通目の手紙だけを無造作に丸め、躊躇いもなく口に入れた。ごくり、と紙片を飲み込み、
「すぐに支度を」
家人に次々と指示を出し、グリーノは登城の支度を調える。先程の笑みも、不穏当な影の欠片も残さず、翡翠の宰相は鳶色の髪をなびかせて廊下を闊歩した。胸の中に二通目の手紙を携えて。