第七章
7
宵闇が夜の衣を身に纏う頃。
青薔薇城の北に聳える〈因果の塔〉には、朽ちることのない紅薔薇が咲き誇る。
温い風がサツキの葉を揺らす。ざわ、ざざ、葉擦れは不気味な声を立てて夜を謳歌する。
塔の周りに人はいない。
番兵も歩哨も魔女の不在を知っているため、職務を放棄しているらしい。闇の中に、人はいない。
その影は滑るように動き、つるりと塔の中に入り込んだ。
わずかな光源はカンテラの灯。影は足音もなく螺旋階段を上っていく。
石造りの壁はひやりと冷たく、明かりの灯らない部屋部屋をカンテラが照らすばかり。
螺旋の終演の先の一つの部屋。影はノブに手をかけた。錆びた蝶番の悲鳴を無視し、無遠慮なカンテラが室内を仄かに明るくした。
狭い部屋だ。
冷ややかな石に囲まれた部屋には似つかわしくない豪奢なベッド。樫の木製のクローゼットとシェルフは艶やかに光り、見事な彫刻すら施されている。小さなドレッサーの上を照らせば、淡く光る銀と紅の宝冠が置かれていた。
ここは〈荊の魔女〉の部屋。つい何月か前まで少女が住んでいた部屋だった。
影はシェルフの上にカンテラを置いた。ふわりと室内が薄明かりに包まれた。空いた手で影は懐から一枚の紙を探り出した。白い紙だ。両の掌に収まる程度のその紙を、影は徐に破りだした。一つを二つ、二つを四つ。倍に、倍に破り、粉々にする。
次の瞬間、部屋の中に吹雪が舞った。
白い紙切れは部屋中に広がった。床の上にも、ベッドの上にも、あらゆる調度品の上に紙吹雪が散った。
最後のひとひらが落ちた。
影は動かない。
時が切り取られてしまったような夜。影はじっとそこに立ったまま、まるで部屋の一部になってしまったようだった。
――ふ、…………
カンテラの灯が消えた。
無論、窓など開いていない。入り口の扉もしまっている。隙間風など吹かぬ夜。部屋は全くの闇に満たされた。
どれくらいの時が流れたのだろう。
…………――サ、
無音の闇に、何かが動いた。
……………………サ……――――ササ、
葉擦れにも似たその音は、次第に大きく、多くなっていく。
ザザザザザザザザ――――!
床に散らばる紙片が一斉に動き出した。
野鳥の大群が部屋を蹂躙するかのような轟音。目を開けられないほどの突風が渦を巻く。腕で顔を庇いながら、影は紙吹雪の竜巻を見守った。
紙は徐々に勢いを失いながら、部屋の中央に幾何学的な模様を描いて、落ちた。薄ぼんやりとした明かりが戻る。床の模様は円と線と文字。カンテラが照らす部屋の中、紙片が描いた模様が青白い光を放つ。影はそれを黙って見つめる。まるで一言一句網膜に焼き付けるように。脳裏に刻み込むように。
す、と指で空を切る。すると模様となっていた紙片が次々に集まり、二羽の鳥になった。
「お行き」
そう命じると、チチ、とかすかに鳴き声を上げ、紙の鳥はわずかな窓の隙間からするりと抜けだし、夜の空を飛んだ。
漆黒の夜に舞う二羽の小鳥。一羽は北へ、一羽は東へ飛んでいく。影は紙の鳥が星々に紛れるまで、ただ黙ってじっと佇んでいた。
塔唯一の出入り口の木戸はわずかに朽ち、ささくれ立った板が影の暇乞いを見ていた。
それと入れ違いに、一つ。灰色の影がサツキの後ろを歩いてきた。
アウリール三世だ。見事な月に誘われたかのように、ふらり、ふわりと頼りない足取りで夜の城内を歩く。
「……ここは、変わらないな」
そう呟き、〈因果の塔〉を見上げる。紅薔薇巻き付く石の塔。世にも美しい魔女が住まうその塔を、王は飽きるほどに眺めた。
あの日から何もかもが変わってしまった。
自分は王になり、無二の友は宰相となった。王の勤めとして賢女を娶った。
「私は今も、君のオルディンにふさわしいか……ロータ?」
返るはずのない返事を夜空に求めた。一筋の星が、慰めるかのように流れた。
西の星は山際に沈むように動き、月は薄雲のヴェールを纏いながら泉の中心に浮かぶ。
ここは西の果ての地。人も獣も近づかぬ、忘れられた森の中。はじまりの魔女が最初に作った森と伝わる場所。
「…………はぁ………ああああっ!」
ノルンは苦悶の声を上げた。
一糸纏わぬ姿で泉の中心、月の映る場所に立つノルンの体は、眩い光を放っていた。膨らみかけた胸も、華奢な方も、何もかもが光に包まれ、淡くなった。
「このままでは御身が壊れてしまいます」
泉のほとりに佇む白い蛇が言った。直接頭に響くような声だ。少女の体よりも長い蛇は、悠然ととぐろを巻きつつも、その声には確かな心配の色が浮かんでいた。
「御身の幼き体がこれ以上〈因果の奔流〉を受け続ければ……」
「それでも」
切れ切れになる息をかき集め、ノルンは白蛇に告げる。
「私が受けなければ……世界が狂うんだ…………ぅああああぁぁあああっ!」
躰がしなる。骨が軋む。
肌の奥、肺腑の底、腹の果てから飛び出そうとするそれを、ノルンは必死で押さえ込む。
「馬鹿な女だ」
嘲笑うようにヴァンが言う。漆黒の体と夜との境界線が曖昧になり、犬の体は何倍にも大きく感じられた。ただ二つの目だけが獣独特の光を放つ。それは冷ややかにノルンを愚かだと嗤う。
「〈久遠の誓い〉はとうに破られているというのにまだこの国に執着するのか。浅ましいな、〈荊の魔女〉よ」
泉を挟んで白蛇の真向かいに伏せていたヴァンがのそりと立ち上がった。
一歩、一歩。いちいち草を踏みにじるように泉に近づいてくる。
一歩、一歩。踏み出すたびに黒い体毛が薄く、地を這う前足は人の手に変わっていく。
白蛇が鋭い声で威嚇した。しかしヴァンの歩みは止まらない。
一歩、一歩。草踏む足は次第に大きく地を蹴り出し。突き出た鼻面は人の形におさまった。
「浅ましく、そして滑稽だ」
浅黒い肌に、逞しい躰。巨漢となったヴァンは、明瞭な声でそう言った。相変わらず地の底から発せられるような声。だが犬の時とは違い、くっきりと鼓膜を震わせるその声は、ノルンの意地をせせら笑った。
「そんなにあの男を好いているのか?」
節くれ立った指がノルンの顎を強引に掴んだ。ノルンを包んでいた光が、まるで吸い込まれるように黒の男に流れていく。
意地の悪い目だ。
黒曜石の輝きにも似たヴァンの瞳を睨め付け、ノルンは言った。
「私は、この国が好きなんだ」
肥えた月の光は柔らかく、泉に反射して森に束の間の照明を傾ける。その中心の二人は、白く、そして黒い。鮮やかな陰影が織りなす幻想に、森の主である白蛇ですら言葉を失った。
「塔の中で……城の中で暮らしていた時には分からなかった。でも……でも西の果ての村に来て分かったんだ。私が見下ろしていた場所に、確かに命があるって」
孤独だった。
物心ついた時にはすでに母はなく、父は一体誰なのかも分からない。寄る辺は一人、祖母の先代〈荊の魔女〉だけ。その祖母ももういない。身を裂かれるほどの孤独を、ノルンは当然だと思っていた。人は誰もがそうなのだと、思い込もうとしていた。
「あの村は素敵。誰もが家族で、誰もがきょうだい。血縁も、他人も関係ない。みんながどこかでつながっている。私、それが分かったんだ」
どうでもいいと思っていた。
この国を護る〈荊の魔女〉という使命が、運命が、どこか他人行儀で仕方なかったから。
「私……あの時、君の手を取ってよかった」
ヴァンの手に手を絡め、一緒に握る。その手は今まで触れた何よりも残酷なはずなのに、熱い血潮の躍動を誰よりも身近に感じられた。
「〈久遠の誓い〉が破られたと言って……君が私の前に現れた。婆様が亡くなってすぐで……よく考えもせずにあなたの手を取っちゃったけど」
「たいした女だな」
「訳の分からない場所に飛ばされて……フレンに拾われた。吃驚したし、慣れないことばかりで大変だったけど……私、後悔なんてしてない」
ノルンの顔に、もう苦痛はない。ヴァンの躰にもたれかかると、胸と腹の間にノルンの小さな頭がぽすんとおさまった。
確かな鼓動。
しかしそれは刹那の嘘。
「どんな未来が訪れても、私はここに来たことを、塔を出たことを後悔しない」
すぅ、息を吸えば太陽の匂いがする。ヴァンの匂いだ。太陽の匂いも、羊の鳴き声も、作りたての料理の味も、ノルンはここに来て初めて知った。大勢で食べる食事の楽しさも、誰かのお節介も、誰かの恋の話も。ノルンはその身をもって味わい、そして誓った。
「たとえ王族が〈久遠の誓い〉を破ろうとも、私は永遠に祈りを捧げるよ。あいつのためだけじゃない。この国を、護るために」
「…………そうか」
ヴァンは一言、それだけ言うと、ノルンの額に手をかざした。少女の体は糸が切れたように崩れ、ヴァンの腕の中に落ちた。
濡れそぼった体のノルンを抱いたまま、ヴァンは泉から出る。
「御身はどうなさるか」
事の次第を見守っていた白蛇が尋ねた。
「幼き魔女の身を案じるなら早く塔に戻るべきだ」
白蛇はとぐろを解き、ノルンを抱くヴァンの足に巻き付いた。冷たい蛇の鱗がずるりずるりと這い上がり、足から、腹から、胸から、首までに絡まる。ちろちろとよく動く舌はヴァンの耳をかすめながら言葉を吐いた。
「〈荊の魔女〉が何故人の作りし塔に身を隠しているか、はじまりの魔女に仕えた御身が知らぬ訳がない。なのに何故御身が魔女を窮地に追いやる?」
「黙れ蛇が」
一瞥。
たったそれだけで白蛇はヴァンの体から離れた。
それは野性の本能。根源的恐怖が白蛇を突き動かした。
「貴様如きが魔女を語るな」
ヴァンはその目で見てきた。
ノルンを始め、〈荊の魔女〉が持つ高潔な精神を。その高邁な理想を。
「ただ立っているだけで、息をするだけで万物の事象を狂わせる稀代の魔女の孤独が、千歳の孤独の苦しみが、貴様如き下等精霊に分かるというのか? 烏滸がましいにも程がある」
隠そうともしない牙を剥き出し、唸り声を上げる。
はじまりの魔女――オルディン王と共に国を興した魔女に仕え、〈久遠の誓い〉の番をしてきた獣。〈久遠の誓い〉が破られた今、彼にできることは、ただ一つ。
「俺は時が満ちるそのときまで、見守るしかできない。時折〈因果の奔流〉で溺れそうになるのを助けるくらいしかできない……」
抱き寄せた体は細く、冷たい。しかし少女の柔肌は確かな魔力と生命力に輝いている。
色を失った唇に、噛みつくような口づけをする。
小さな体で世界の歪みを抑え続けるノルン。その体に溜まった澱のようなものを吸い出し、代わりに新しい魔力を注ぐ。古いものを、新しく。悪いものを、よいものへ。濾過するかのようにヴァンは深く、長く口づけをした。
頬に赤みが戻り、規則的な呼吸が聞こえる。
――いつまで保つか。
夜空に瞬く夏の星座。
星の河が流れる頃、ノルンは十五になる。
ふとヴァンの目の端に白い花が映った。
「…………待雪草」
初夏に咲くはずのない冬の花。すでに因果が狂い始めている。
「……あと少しだけ、ここにいさせてやってくれ」
そう呟いて待雪草に手をかざす。みるみるうちに可憐な花は朽ち果て、一輪の冬の気配は途絶えた。
季節は初夏。星の河が流れるまで、一月もないのだから。
ライアドル珍道中・with王子。
リトの疲労も頂点に達した頃、連続耐久野宿は終わりを告げた。耐久日数、一月半。すなわち、出発してからほとんど。
「どうして王子って宿と縁がないんでしょう……」
「宿の方が俺を避けているんだな」
「もういいです……それで……」
嗚呼、久しぶりのベッド。君に会いたくて私は野宿をしながらベッドの夢を見たくらいさ。きゃっきゃうふふな邂逅劇を脳内で繰り広げながら、リトは倒れ込むようにベッドに横たわった。
「ああ……会いたかった…………会いたかったよこのもふもふに……」
シーツの海に泳ぎながら笑みを浮かべるリトをアスクは黙ってみていた。
「……それ、楽しいか?」
「楽しいですよ。何日ぶりでしょう……この柔らかさ……しっとりとした手触り……。路傍の石を枕にしていた日々とは決別したいと心に決められますよ」
「じゃ、じゃあ俺も……」
もふん、
「……………………おおおおおお! 確かにこれは草のシーツと決別したくなる!」
王子と従者はそれから判刻ほど、もふもふとしたベッドに興奮していた。その間、宿の女将さんにくすくすどころかげらげら笑われていたことにも気づかずに。
「で、ここでもやるんですか?」
ひとしきりもふもふし終わったところでリトがアスクに尋ねた。
「勿論だ。俺たちの旅は野宿の厳しさを知ったあとに味わうベッドの心地よさを探究するのが目的ではない。ノルンを探すことが、目的だからな」
枕を抱きしめたまま言われても何の威厳もない。だが言っていることに間違いはない。二人は名残惜しげにベッドから降り、部屋を出た。
小さな町の、小さな宿。ライアドル南東に位置するその町は、適度に栄え、適度に寂れている。郷愁を覚える一世代前の調度品、看板、品揃え。最新のものはないが、古いものを長く愛用している、温かみがある。
「あの、伺いたいことがあるのですが」
帳簿をつけていた女将にリトが申し訳なさそうな声で尋ねた。
「ああ、二階の……。どうされました?」
四十半ば、少しふくよかな女将は人の良さそうな笑みを浮かべた。先程まで二階の二人のやりとりを聞いて大爆笑していたことなどおくびにも出さずに応対する。接客業の鑑だ。
「実は……」
少し声を落とし、耳元で囁くように話す。
「私はさる御方の家に仕える者なのですが、その家のお嬢様が先頃……家出をなさいまして……」
「ありゃあ……そうなのかい?」
「ええ。そのお嬢様というのがまあ御転婆な方で……内密にお探ししておりますが一向に見つかる気配がないのです」
「そりゃ大変だねぇ。で、そっちのお兄さんも家来さんなのかい?」
「いえ、この御方はそのお嬢様の……」
「兄だ」
「ああ、そりゃ過保護が災いしたんだよ。兄妹ってヤツは塩梅が難しいんだよ、塩梅が」
田舎のおばさんというのは得てしてこういう、ざっくばらんな人が多い。旅で学んだことの一つだ。アスクは気にせず続けた。
「気を揉みすぎて倒れてしまった母に妹が無事だと、元気だと安心させたいのです。父も日々心配して頭髪も貧しくなるばかり……。世間知らずな妹が今頃どうしているか……体を壊していやしないか、男に騙されていないか、まま……まさか春をひさいでやいないかと兄としても心配でならないのです」
アスクの嘘八百に、気のいい女将はすでに涙目だ。よくもまあこんなに嘘が並べられるものだ。行く先々で同じ話をしては同情を買い、情報を得ては来たが、未だに有力な情報は得られていない。内心溜息をつきながらも、リトは懸命にお嬢様を案ずる従者の役に徹した。元々従者なのだから、然程演技力はいらないのだが。
「このあたりで黒髪、緑の目の十四・五の少女を見ませんでしたか? それが私の妹なんです」
さすがに無理があるこの設定も、アスクの迫真の演技の前では真実のように響くらしい。長年宿を切り盛りする女将として、どうにか力になれないかと必死で記憶を辿っていたが、ついに女将から有力な情報を得ることはできなかった。
「悪いねぇ。でも、他のお客さんにも聞いてあげるから、ね、あんまり気を落とすんじゃないよ。ほらアンタ! 町中に聞いておいで! 黒髪で、緑の目の女の子だってよ!」
裏で鶏を絞めていた旦那は女将の声に吃驚して鉈を落としてしまった。こけこけ鳴き声を上げる鶏たちの羽舞い散る中、女将さんは取り繕うように笑顔を作った。
「今日はさ、疲れただろう? よぉくお休みよ。うちでよければ何泊だってして構わないからね」
「恩に着ます、女将さん」
ぷっくりふくれた手を取り、感謝の言葉を述べれば女将の顔はみるみるうちに真っ赤になった。
(あの顔でお礼言われたら、そうなるよな……)
ライアドル屈指の美貌を持つ第一王子・アスク。たとえ正体を隠していようともその顔面だけはどうにもならない。うっとりしている女将を放って置いて、二人は部屋に戻った。
「それにしても、本当によくあんなにでまかせが言えるもんですね」
「でまかせというか何というか……ノルンの正体も、我々の身分も明かせぬ今、嘘も止むなしというか……ああいう話が昔読んだ本にあったと思って使ってみたら意外と受け入れられてしまって……」
確か詩人スノール・エーダのすでに絶版になった小説にそんなような設定があった気がする。王子の記憶力にリトは舌を巻いた。
「旅も長くしていると、知識の使いどころというものが分かる気がする。初めて俺の呼んできた本が役に立ったと思っているよ」
「知識は役立ってなんぼですからね」
差し込む夕日にアスクの白銀の髪が染まる。燃えるような赤に照らされる王子を、リトは胸が締め付けられるような思いで見た。
雪の彫像のように美しいアスクは城の外をあまり知らない。第一王子として、オルディン王の再来の子として育ったアスクは、必要以上に護られて生きてきた。こうして旅に出ることも、このような非常事態がなければ一生体験することもなかっただろう。安寧の人生、用意された玉座。少年のように稚い王が、果たして国を治めることができただろうか。
「リト、」
窓の外を覗き込みながらアスクは手招きをした。
「人が倒れている」
「ええ?」
その部屋からは隣のパン屋の裏口がよく見えたはずだ。そっと見下ろしてみると、確かに青年が倒れているではないか。
(あの髪の色……)
リトは瞬時に記憶を辿った。
「お、パン屋から人が出てきた」
乱暴に開け放たれた木戸からは筋肉質なパン屋の主人が現れた。
「この恩知らずめがっ!」
激しい怒鳴り声と共に麺棒が青年に打ち下ろされた。肉と骨にぶつかる鈍い音が何度も何度も響き、わずかに血飛沫が飛んだ。
「何を……!」
「アスク様!」
窓を開け、猛然と抗議しようとしたアスクをリトが止めた。振り返ったアスクの氷の美貌は憤怒に満ちていたが、リトは黙って首を振った。
「事情も分からない人間が人を批難することほど愚かなことはありませんよ!」
「では抵抗もしていない人間を一方的に殴りつけるのは正義なのか?!」
「それを判断するために今は静観することこそ正しい道です!」
リトにも分かっている。アスクの言い分が正しいことなど。だが自分の言い分も間違ってはいないと、リトは自分に言い聞かせた。
(私の記憶が正しければ……彼はおそらく……)
今にも飛び出しそうなアスクの体を押さえながらも、リトは自分自身も抑えていた。
「貴様など雇った俺が馬鹿だった! この薄汚い泥棒が!」
「すみませんっ、すみません!」
謝り続ける青年に店主は容赦なく麺棒を振り下ろした。干し草によく似た髪をひっつかみ、何度も、何度も執拗に殴りつけた。
ようやく店主が手を下ろした時、すでに青年の顔には殴る所など少しも残っていなかった。赤く腫れ上がり、砂埃の舞う通りに歯が二本、恨めしげに転がっていた。
「二度と来るんじゃねぇ!」
青年の顎を蹴り飛ばし、店主は来た時よりも激しく扉を閉め、重い閂を差した。裏通りには青年一人しかおらず、その騒ぎを聞いていたのはアスクとリトだけだった。アスクはリトの制止を振り払い、窓を開け、青年に声をかけた。
「大丈夫か!? 今そっちに降りて――」
「だ、大丈夫ですから……!」
素っ気ない返事を残して青年はふらつく足取りでパン屋から離れていった。
一体何だったのだろう。アスクの目の前で嵐のように過ぎ去った出来事は、今までに見たことがないほど理不尽な暴力だった。
「……なぜ、彼は何も言わず、抵抗もせず殴られ続けたんだ?」
「…………それは私にも分かりかねますが……、おそらく彼の出自によるところが大きいのでしょう」
古い椅子に腰を下ろしながら、アスクはリトを横目で見た。いつになく陰鬱な表情で立ち尽くす従者にアスクは椅子を勧め、無言で話を促した。
「彼の頭髪――干し草色の髪は、セルリリーク族の色です」
「セルリリーク族……最後の侵略戦争の、」
「ええ、おそらく彼はセルリリーク族の者でしょう。ちらっとですが、肩に刺青がありました」
「刺青?」
「はい。鹿の角を模した刺青はセルリリーク族の有力な家に生まれた男子の証です。彼も、かつては族長、あるいはそれに並ぶ家の跡継ぎだったのかもしれませんね……」
リトは唇を噛みしめた。
「やけに詳しいな…………そうか、お前、確か……」
思い出した。
「ええ、私自身に恨みなんて毛ほどもありませんけどね……やはり、気にしてしまうんですよ」
リトは戦争孤児だった。
どこで生まれたのかも分からない。戦争で乱れた極東の町・ミエルの瓦礫の中で泣いているのを、戦後視察に来ていた侍従長――当時は監察官だったスラーインに助けられた。まだ赤子だったリトを庇うようにして母親が覆い被さったまま、死んでいたという。セルリリーク族に攻められ、滅びた町・ミエル。その生き残りはこのあたりの町に多くいる。
「推測ですけど、あの店主も戦争には苦い思い出があるのでしょう。直接関わっていないにせよ、セルリリーク族が憎いと思う国民は多くいるのではないでしょうか」
「……お前はどうなんだ?」
「私は……」
言い淀んだ。
答えは決まっているのに、それを口に、言葉にしてしまえば薄っぺらで。胸にしまっておけば嘘のようで。リトの喉に引っかかったままの言葉を、アスクは待っている。その銀色の目で。白い肌で。真雪の髪で。
昔からそうだった。答えをせかすことをせず、ただずっと、じっと待つ。リトはこの王子の、この時間が嫌いだった。しかし何よりも嫌いだったのは、王子を待たせている自分自身。
「私は、憎んでなどいません」
開いた口は自然とそう言った。それが隠すことも恥じることもないリトの本心だった。
「確かに親はセルリリーク族の攻撃で死にました。けれど、それを参戦していない若い世代にぶつけることもできません。戦争に行ったセルリリーク族は死滅したと聞きます。ならば尚更、憎むことなどできません」
両親を殺した直接の敵はもういない。いるのはその子供たちばかり。そして彼らもまた、リトと同じく親兄弟を亡くした人間。
リトはさっきの青年を思う。「泥棒」と呼ばれた彼は、何かを盗んだとしてもあれほどまでに撲たれるべき罪を犯したのだろうか。もし侵略戦争でライアドルが負けていたら、あの青年はリトだったのかもしれない。
「彼らに救いの手をさしのべるのも、俺たちの役目だ」
蜜柑色の空はすでに夜の顔に変わり始めた。濃くなる影に、銀の王子は佇みながらも友に言葉を贈る。
「誰もが求める安寧の地。それこそがライアドル建国以来の目標だ。オルディン王の崇高な志を、受け継ぎ、実現せねばな」
安寧の地。
争いも、諍いもなく。武器は花に、知略は知恵に。
――それができればどんなに安らかなんだろう。
リトはそっと左腕を見た。
左腕には小さな弓銃が仕込んである。いつ何時でもアスクの身を守れるようにと、出立から肌身離さず装備している。冷たく、重い武器を、そっと右手で撫でる。いずれこれも必要なくなる時代が来るのだろうか。
――きっと来る。
そのときはきっと、この真雪の王子が世界を統べる。リトは漠然とそう思っていた。一歩城を出れば頼りなく、まだ若いこの第一王子を、リトは心から尊敬している。
「アスク様」
跪き、左腕の弓銃を掲げた。
武人の最敬礼。
「私は生涯、貴方様を主とし、忠誠を誓います。いずれこの国を、世界を統べる貴方様を、私は身命を賭してお守りいたします」
突然のことでアスクは驚いたが、何も言わずリトの肩に手を置いた。
「俺はお前のような人間が側にいることを、誇りに思う。最愛の友であり、臣であるお前を、心から信頼しているよ」
そして心に決めた。
ノルン――〈荊の魔女〉を見つけ次第すぐに王宮へ帰り、提案をしよう。侵略戦争でライアドル国民となったかつての少数民族のための策を。
「これから忙しくなるな」
「……はい。まずは、魔女捜しですけどね」
「そうなんだよな……それが問題だ」
地道に探していてもまったく見つかる気配がしない。魔力を辿ろうにも徹底して痕跡を消している。
「おそらく〈荊の柵〉がきちんと機能しているかを〈目〉で視ているはずなのだが……それも辿れない」
「あの……今更ですけど、その……〈目〉を使っていると、どうして辿れるのですか? そしてなぜ今、辿れないのですか?」
少し躊躇いがちにリトが尋ねた。
魔法の知識を持たないものが魔法の理論を理解できないのは当然だ。アスクは完全にそれを失念していたらしい。ふむ、と少し考えながら
「ノルンの……〈荊の魔女〉の力で最も顕著な者が、現在・過去・未来を視る〈目〉だと言うことは、知っているな?」
と言った。リトはこくこくと頷く。これはアスク出立前の緊急議で宰相・グリーノが言っていた。
「そのうち過去を見る〈ウルドの目〉、未来を垣間見る〈スクルドの目〉は、莫大な魔力を消費するため、おそらくノルンは出奔して以来使っていない。だが、時間軸を行き来する二つの目に対して、距離を無視してあらゆる場所の現在を見ることのできる〈ヴェルザンディの目〉は、柵を間近で観測し、綻びを見つけるために使っているはずなんだ」
「は……はあ……」
どうにかこうにか理解はしている。理解はしているが、いまいち実感が乏しい。魔力がないものにとって魔法を理解することは相当難しいことのようだ。リトは錆び付いた脳細胞を必死で働かせながらアスクの話を聞いた。
「だが〈ヴェルザンディの目〉は他の二つよりも魔力の消費が格段に少ない。たとえ使ったとしても、見つからないように防護結界を張っているだろうから、その中で使われたら俺もお手上げ。どんな魔導師も見つけられない」
両手を挙げ、冗談めかしてはいるものの、本当にお手上げ状態なのだ。足取りはつかめない。魔力を辿ることもできない。
「まぁ、慰み程度に占いくらいはできるが……」
背嚢の中からアスクは銀の皿を取り出した。底には雪の結晶にも似た幾何学模様が描かれている。アスクの魔法陣だ。
部屋に飾られていた花瓶から花を抜き、水を皿に満たす。徐に小刀を抜き、ス、と右の親指に走らせた。
ぽ、ポツ、血が何滴か水に落ち、じわりと広がった。
何度見ても慣れない。この不思議な光景をリトは幼い頃から何度も見ているが、いつもそわそわと落ち着きをなくす。
「蒼穹に弓を、地平に剣を。雪に零るる一縷の涙。月よ欠けよ、潮よ引け。真澄の底に我映る……卜占の八十二番〈水底の糸〉」
唱え終わった詩が水面に反響する。固唾を飲んで見守れば、アスクの冬の湖面の如き目が皿に讃えた水に吸い込まれるように魅入られていた。
「……出ましたか?」
「………………ああ」
覗き込んだ水底に、アスクの垂らした血の色が昔の文字を形作っていた。
「鳥の知らせ……? 何のことですか?」
「これはおそらく……」
かつん、
窓硝子に何かがぶつかった。
「うぇえぇええええぇぇええっ! ああああアスク様、こここれ!!」
窓の方を向いて座っていたリトが素っ頓狂な声を上げた。
振り返ってみると、窓の外に白い鳥が一羽、愛らしく首を傾げているではないか。
「いいい今まで梨の礫だった占いが初めて実のある答えを!」
「五月蠅い少し黙れ」
通りすがりにリトの頭を叩きつつアスクは窓を開けた。白い小鳥はちょんちょんと跳ねながらアスクの差しだした指に止まった。
「解けろ」
小鳥は宙を一回りし、はらはらと床に落ちた。
「……紙……ですか?」
小鳥は姿を消し、掌ほどの大きさの紙が残った。何の躊躇いもなくそれを拾ったアスクは、密かに眉をひそめたあと、小さく笑った。
「リト、」
――道は開けた。
「西へ向かうぞ」
「へ?」
リトの困惑を余所に、アスクは確信を得た。
「ノルンは西にいる」
手の中の紙がくしゃりと小さく音を立てた。