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第六章





 木漏れ日の午後。駆け回る子供たちの声。いつもその背中を見ていた。

 どんなに頑張っても追いつけなくて、何度も何度も転んだ。倒れ込んだ時の草の匂い、土の冷たさと情けなさに涙がこみ上げる。

 そんなとき、いつも視界を黒い影が遮った。陽光を背に受けて、決まって差し出されるのは、柔らかくて小さな、手。

 それに自分の手を伸ばせば、ぐっと引き上げられ、再び足が地に着いた。

 二人を呼ぶ声がする。

 それに応えてまた足を出す。

 一歩。

 一歩と着実に。

 小さな手はしっかりつながれたまま。

 あの時からかもしれない。

 二人の時間が確かに重なり合ったのは。









 真南から日が西へ傾き出せば、子供たちはゼンに別れを告げる。家に帰って畑を手伝うもの、パンの配達や卸した品物の集金をするもの、様々いる。まだ幼い子たちはきょうだいについてまわるか、彼らだけで遊び回る。

 賑やかな声が村に響くのが、好きだ。一つ、伸びをすると背中が嫌な音を立てた。どうしても姿勢が傾いてしまって、そのツケが右足やら腰やら背中やらあらゆる場所に来る。石を摺り合わせるような音を肩から出しながら、ゼンは紙を広げた。

 開け放した窓からは風が撫でるように流れ込み、遠くの丘で羊の鳴き声もする。窓辺にこぼしておいたパン屑に、いつの間にか小鳥が三羽、集まってきた。陽光のぼやけた午後。全てが遠くにある、居心地の良い孤独感。身震いがするほど飽きない時間だ。

「フレン、用があるなら入って来いよ」

 窓の横で揺れる赤毛の正体に声をかけた。ばつの悪そうな顔をして、フレンが窓から顔を出した。

「…………いいの?」

「ああ。ちょうど終わったところだから」

 走り書きを引き出しにしまい、フレンを招き入れた。

 燃えるような赤毛を馬の尻尾のように束ねたフレンは大きな籠を持っていた。

「うちで紡いだ糸を納めてきたところなの。そのついでにちょっと顔見に来たのよ」

「そういえば最近そっちに顔出してなかったな」

 指折り数えてみるとかれこれ十日ほど村長の家に行っていない。本を借りたり夕食をご馳走になったりと頻繁に行き来していたのに、これほど間を開けたのは初めてかもしれない。

「どっか具合でも悪いのかってノルンが心配してたけど……馬鹿は風邪ひかないわって言っておいたから安心して」

「なんだそりゃ。俺だって風邪ひく時はひくぞ?」

「あら、そうなの? 私、ゼンが風邪ひいたところなんて見たことないもの」

「…………そういえば、そうか」

 互いの顔を見合ってぷっ、と吹き出した。

「じゃあこれ、いらないわね」

 籠の中からフレンが取りだしたのは蜂蜜だった。他にも薄紫色の毛糸で編んだショールや湯たんぽ、生姜などがごろごろ出てきた。

「……お前、糸を納めに行ったんじゃないのかよ」

 どこに納めるほどの糸を入れていたのか分からないほど大量の、いわゆる「風邪にいいもの」がテーブルに所狭しと並べられた。

「ノルンが心配して仕方ないから、持ってきただけよ。あの子は羊の世話があるから……」

「そうかい。ありがとな」

 まったくこの女は素直じゃない。

 口を尖らせてそっぽを向く時は大抵意地を張っているか照れくさい時だ。ゼンは長年の経験則でフレンを分析する。素直じゃないくせに嘘も下手。壊滅的で支離滅裂なフレンの言い訳をそれでも受け入れるのは、彼女がノルンのせいにした「心配」をしてくれていたから。人の好意を無下にしてはいけない。

「これはありがたくもらっておくよ。風邪予防に使えそうだしな」

「そ、そうして頂戴。ノルンも喜ぶわ」

「はいはい」

 それにしても蜂蜜三瓶は多すぎる。二つはこっそりフレンの籠に戻し、あとのものは全て受け取った。

「茶でも淹れるよ。せっかくもらったんだし、蜂蜜でも入れて」

「あ、私やるよ」

「いいよいいよ。一応フレンでも客は客だからな」

「ひっどーい! 何が一応ー、でもーなのよ!」

 ふん! と拗ねるフレンを放って置いて、ゼンはいそいそと茶を淹れ始めた。

 義足の左足を軸にくるくると踊るように作業するゼンを、フレンはただじっと見つめていた。フレンにはない広い背中、逞しい腕。しっかりと地面を踏みしめる右足は、村の誰よりも頼りがいがある気がする。

「さぁお嬢さん。お熱いうちにどうぞ」

 ふわりと湯気を立てた紅茶に一匙蜂蜜を入れる。甘い香りが立ち上り、二人の鼻腔をくすぐる。一口含めば、蜂蜜の濃い甘みが柔らかく広がった。

「いい蜂蜜だな」

「オリガが分けてくれたのよ。鳥撃ちのお礼に貰ったそうだけど、多すぎたんだって」

「旦那にやればいいのに」

「そうね。滋養にいいものね。薬代わりに使えば良かったのに」

「ま、それを惜しげもなく友人に分けるのも、オリガのいいところだな」

「ね」

 深い香りを楽しみながら、二人はオリガに感謝した。フレンよりも一つか二つ年下のオリガ。村唯一の医師であるヤンと結婚したばかりの新妻は、フレンの無二の親友だった。狩人だった父親の後を継いだ娘は、男勝りだが気の利く人だ。この蜂蜜も実は「いいから持ってけ」と無理矢理持たされたものだったりする。おまけにゼンが来るのを待っているだけだったフレンの重い尻を蹴っ飛ばして髪を引っ張ってここまで連れてきた、何とも逞しい女性だ。

(でも強引すぎるよ……)

 親友のごり押しに負けてのこのこやって来たフレンは世間話をしつつも緊張していた。

 今日こそは、言う。

 いつも憎まれ口を叩いては呆れられたり、心にもないことばかり言って困らせたりするけれど。

 待っているだけでは何も変わらない。

 オリガのように猟銃背負って血の滴る雉鳩五羽抱えて交際を申し込むなんてことはできないけれど。

 ――私だって……

「ね、ねぇゼン……?」

 横の後れ毛を指先で弄びながら切り出した。どうして人はこういうときに笑ってしまうのだろう。きっと今、自分は気持ち悪いくらいへらへらしている。鏡なくて良かった。

「あ……あ、あのね……」

「何だ? 急に改まって……」

 紅茶色の目を見ると言葉が出なくなる。干し草色の髪をかき上げる仕草すらフレンの声を喉の奥に押しやってしまう。

 遠くで猟銃の音が響く。オリガが叱咤しているようだ。二回目の銃声が聞こえた時、フレンは意を決した。

「私と結婚して!」

 ――……言えた!

 たったその一言を言うだけに、どれほどの時間がかかったのだろう。横隔膜のあたりからほおぉ、と安堵の息を吐いた。

 突然の一足飛びの告白に、ゼンはただぽかんと口を開けるしかなかった。

「…………え、ええ?」

 まさか蜂蜜手土産に求婚されるとは思ってもいなかったゼンは、カップの中身を全部ひっくり返した。

「わわわわわごめん」

「あああああ大丈夫?」

 わちゃわちゃとこぼれた紅茶を二人で拭いていると、ばっと目が合った。みるみるうちに二人の顔が赤くなっていく。血が沸騰しそうで顔が爆発しそうだった。目と鼻の先に互いの顔がある。今まで幾度もあった近すぎる距離なのに、急に恥ずかしくなってしまう。

「うわわわわわわ私だってもういい歳だし!」

 まともに顔を見ていられないフレンはゼンに背を向けてしまった。それでも何とか言葉は続いた。

「ゼ……ゼンだって、いつまでも一人じゃ…………。わ、わたし……行き遅れだけど!いい奥さんになるよ! だから……」

「ありがとな、フレン」

 フレンの肩に、手が置かれた。大きな手。繊細な薔薇琥珀を作る手だ。子供たちを撫でる手だ。でもその手はフレンの肩に止まったまま、撫でることも抱きしめることもない。

「俺はお前を貰ってやることは、できないよ」

 優しい声は残酷だった。崩れそうになる体を必死で抱き寄せ、フレンは一人で立っていた。ゼンはフレンを向き合わせることはない。それでもフレンに語りかける。

「俺は誰とも添い遂げる気はないんだ。一人で生きて、一人で死ぬ。そう、決めているんだよ」

「ひとりで……?」

 声が震えるのを必死で抑えたフレン。悲しいかな、その声はすでに涙の色を帯びていた。

「何でそんな寂しいこと言うの? ひとりだなんて……」

「そう決めていたんだ。それに、俺には左足がない」

 かすかにフレンが俯いた。

「そんなの……わたし、わたし……!」

「フレンが気にしなくても俺が気にするんだ」

 勢いよく振り返ったフレンの顔は、今まで見たことがないほど涙で濡れていた。か細い肩は小刻みに震え、厚い唇は吐き出す言葉を失ったまま暗く開いていた。ゼンの深い茶色の目は、いつも見ている幼なじみとはどこか違う、女の顔をしたフレンを真摯に見つめ続ける。

 考えている。フレンを傷つけない最良の言葉を。真綿のような嘘をつくことだってできる。だがゼンはそれを選ばない。フレンの想いに報いるための、一番の言葉を探している。

「フレンの気持ちは素直に嬉しい。本当に、嬉しい。でも、俺は……フレンを幸せにしてやれないよ」

 それは漠然たる不安ではなく、確信。

「私、幸せにして欲しいわけじゃない! 私……ずっとゼンのことが」

「それ以上言わないでくれ!」

 ゼンが言葉を遮った。あまりの大声に窓硝子が身を震わせた。フレンの告白すら押しとどめたゼンの叫びは、わんわんと反響してから、そっと消えた。

「…………ごめん。でも俺の気持ちは、変わらない」

「……………………そ」

 小さく呟いて、フレンは家を飛び出した。

「フレン!」

 どうすることもできないのに、なぜか呼び止めてしまう。フレンは赤毛を振り乱しながら遠く、遠く。ゼンの足が及ばぬ処まで走っていってしまった。揺れる尻尾のような髪だけが、いつまでもゼンの目の前にちらついているようで。

 伸ばした手の行き場は、どこにもない。

 ゼンはやり場のない右手で空を掴み、かすかに呻いた。温かな蜂蜜紅茶は、甘ったるい芳香を放ちながら静かに冷めていく。

「くそっ!」

 動かない足を引きずりながら、時すでに遅しと思いつつ、ゼンはフレンの後を追った。







 雲のような羊の背を眺めながら、ノルンは薬草を摘んでいた。年寄りの多い村だから、しょっちゅう腰やら膝やらを痛めた人に出くわす。そんなときにちょっとでも役に立てれば、と羊飼いを始めた頃から続けていた習慣だ。今では毒消しや切り傷に効く薬草まで集めている。羊を連れてくる場所に良く生えているからついでのようなものだ。

「よく続くもんだな」

 馬鹿にしたようにヴァンが欠伸をした。

「まぁね。嫌いじゃないってのもあるよ」

 何より、野山を駆けるのが新鮮だった。行ける場所が限られていたノルンにとって、今いる世界は、まるで別世界。彼方に引かれた地平線、覆い茂る草花。土の匂い。全てが初めてのものだった。

「あ、もうゼンの教室は終わったんだ」

 きゃあきゃあと笑いながら子供たちが駆けてきた。草の上をまろび、木々に登り、歌を歌う。

「ガキは無駄に元気だな」

「無駄じゃないよ。あれが、生命の原型なんだろうよ」

「小難しいな」

「そうかな?」

 城の中、塔の中では間接的に視るだけだった景色が広がっている。ノルンとヴァンは小さな声で会話をしながら子供たちを見ていた。

「きゃあっ!」

 色の違う悲鳴が上がった。反射的に子供たちに目をこらせば、一人の幼女が倒れているのが見えた。

「どうした!?」

「へ、へび……!」

 羊をヴァンに任せ、ノルンが駆けつけると、足下をしゅるりと長いものが逃げていった。

「咬まれたのか!」

 倒れた女の子を囲んで、子供たちは蒼白な顔をしたまま頷いた。よく見れば倒れた子の足に小さな二つの赤い点がある。ビクッ、と体を痙攣させながら喘ぎ始めている。一目で重症だと分かる。

「こ、こんなとこにいるなんて……」

「しらなかったんだよ!」

「うん、そうだね」

 泣きじゃくる子供たちを不安にさせないよう、ノルンは穏やかな声で言った。

「男の子たちは足が速いから、ちょっと遠いけどお医者のヤン先生を呼んでおいで。女の子たちは、この子の両親を呼んでくるんだ。できるね? 私がこの子を見ててあげるから、いいね?」

 こくこくと頷き、子供たちは一目散に走っていった。

 小さな背中が見えなくなると、ノルンは真っ先に毒を吸い出した。逃げていった蛇が何の種類かは分からなかったが、毒の回りが早い。

「ヴァン!」

 呼ぶより早く、ヴァンが摘んだ薬草を入れた籠を咥えてきた。乱暴に手を突っ込み、毒消しの葉を噛んで磨り潰す。気休め程度にしかならないが、やらないよりマシだ。

「それじゃあ間に合わないぞ」

「……ヴァン。側には、誰も、いないね?」

「おい、まさか……」

 ヴァンの返答を待たず、ノルンは人差し指と中指を立て、そっと唇に当てた。

「骨の仮面よ。群がる舌を噛みちぎれ。屍肉に集る亡者の指よ。汝に掴めるものはない。治癒の二十八番〈終結の黒血〉」

 早口で唱えたあと、二本の指を傷口に這わせる。腫れ上がった足が、びくりと跳ねた。

「散れ」

 黒い何かが、ぱっと爆ぜた。すると喘ぎ苦しんでいた幼女の呼吸が徐々に整い始めた。

「……よかった」

「こんなところで魔法を使うなんて……正気の沙汰じゃないぞ」

 周りを警戒するヴァンを余所に、ノルンは安堵の溜息をついた。

「生命あり。言葉あり。そして詩あり。スノール・エーダも、魔法を発動させる詩の前に生命があると説いたよ。命がなきゃ、魔法なんて使えても意味がないんだ」

 幼女の目が虚ろに開きだした頃、医者と両親が血相を変えて走ってきた。ノルンは状況を説明するのに手間取ってしまい、目の端をかすめた赤に気づくことはなかった。







 どれくらい走ったのだろう。他の人にしてみればたいしたことのない距離だとしてもゼンにはかなりの距離だった。薔薇の木もない東の方の平野。小高い丘の上に大きな犬を従えた少女が佇んでいた。

「おう……ノルン……か……」

 ぜぇぜぇ息を切らして、もうだめだーと言わんばかりのゼンは顔から草に突っ込んで倒れた。つい数刻前までここで行われていたことをまったく知らないゼンは幼女が倒れ込んだ場所にごろりと寝返りを打った。

「…………大丈夫?」

 喉の奥から血の味がこみ上げてくる。それでも何とかゼンはノルンに親指を立てて見せた。どうやら無事らしい。

 見かねたノルンは自分の水筒を肩掛け鞄から取り出した。

「…………くれるのか?」

 こくりと頷き、ゼンに水筒を差し出す。蛇の毒を吸い出した口を濯いだけど……、と言うより早く、ゼンはそれを頭からかぶった。飲まないならいいか。ノルンは蛇の一件は黙っておくことにした。それでなくとも魔法を使ってしまったのだから、できれば言いたくはない。ヤン医師に説明するのだって骨が折れたのだ。これ以上疲れたくはない。

「そんなに血相変えて……どうしたの? 体鍛えることに目覚めたの?」

「ん……ああ、まぁ…………なぁ、フレン見なかったか?」

「えぇ? フレン……通ったかなぁ? ちょっと忙しかったから、見てないよ」

 解毒に必死すぎて周りを見る余裕なんてなかった。

「けどどうして?」

「う……ん…………ちょっと、な」

 煮え切らない態度に、ただならぬものを感じた。これは二人に何かあったに違いない。もしかしたら仲違いでもしたのだろうか? ノルンは心底心配した声を出した。

「……ね、何があったの?」

 ゼンの横に腰を下ろし、ノルンが尋ねた。大人びた少女の顔は、なぜか今、子供の心配をする母のような顔に見えた。懐かしい表情。もう何年も前に亡くした母親を思い出す。そのせいだろうか。ゼンの口は自然と言葉を紡ぎ始めた。

「俺の故郷はさ、ここじゃなくてもっとずぅぅぅっと東なんだ」

 突然の話にノルンは目を剥いたが、そう、とだけ相槌をした。

「稲作中心で、でも年に一回狩猟大会とか開かれたりして……それなりに楽しい日々だったよ。……親父がいなくなるまでは」

 身を起こし、ゼンは遙か東を見遣る。

「もう二十年近く前になるかな。東で大きな戦争があったのは……」

「ミエル・セルリリーク侵略戦争……?」

「……よく知ってるな、そんな戦争の名前。お前その時期、生まれてたか?」

「ば、ばあちゃん家の本で最近見たんだよ」

「そうか。まぁ、あの家にはたくさん本があるからな」

 危ない危ない。たいして疑いを抱いていない様子のゼンを見て、ノルンはほっと胸を撫で下ろした。ただでさえ身元の分からない風を演じているというのに、思わず知的な発言をしてしまった。先程魔法を使ったことで気が緩んでいるのだろうか。横でじろりと睨みつけるヴァンを無視して、ノルンはゼンの話を聞くことに徹底し始めた。

「ライアドル極東の地・ミエルを拠点とし、その国境沿いに集落を置くセルリリーク族に侵攻していった戦争だ。ライアドルの歴史は常に血塗られていたが、こと先王アウリール二世の御代は酷かった。その頃国の護りを固めていた〈荊の魔女〉様でさえ戦乙女の異名をつけられたほどだ」

 ――戦乙女。

 ノルンは足下の草を抜いた。ささやかな動揺はゼンに伝わることなく、下生えにぶつけられて、霧散した。

「酷い戦争だった」

 紅茶色の瞳は空を仰ぐ。

 いつも変わらぬ空。そこにある魔女の護りの〈荊の柵〉。目には見えないそれは、あの時、ゼンの父親を護ってはくれなかった。

「親父は戦争に行ったまま帰ってこなかった。おふくろは俺を連れてとにかく戦地から離れた。逃げ遅れた人もいたよ。でも構っちゃいられなかった。逃げ遅れたら火に飲まれるだけだ。だから俺もおふくろも、必死で走って走って走って…………ようやく逃げ落ちたのが、ここだったんだ」

 ノルンは戦争を知らない。ミエル・セルリリーク侵略戦争の時、ノルンはまだこの世にいなかった。そしてそれ以降、この国は戦争をしていない。侵略戦争後、すぐに王宮内の反乱が発生し、アウリール二世は失脚、そして現在の国王・アウリール三世が立ったのだ。平和の時に生まれ、平和の下で育ったノルンにとって、ゼンの話はにわかには信じがたかった。

「そんでそのとき、俺は左足をなくした」

「え……」

 ゼンの左足。

 ヴァンの耳がぴくりと動いた。

「銃で撃たれた傷が化膿して……西の果てに逃げ落ちるまでに母親に切られたんだよ。命あっての物種っていうだろ? 足が片方なくても生きてりゃいいことあるって……強引な母親だろ?」

「でも生きている」

 ノルンのささやきは、確かな強さを持ってゼンの心の届いた。

 ――生きている。

 ノルンはそっとゼンの手を取った。

 無骨な男の手。所々切り傷もあったり、あかぎれもある。その手を包むノルンの手は白い。柔らかな少女の手は優しくゼンと体温を分かち合う。

「そうだな、生きている」

 南からの風が吹く。羊たちが草を食む。鼻をくすぐる草の匂いは青く、夏の足音さえ聞こえそうだ。

 当たり前の営みを、当たり前に享受できる。

 生きている。

 ゼンはそれを噛みしめた。

「生きてりゃいいことあるって……本当だな」

「いいこと、あった?」

「あったさ。片足なくても勉強はできた。中央城下に住んで王立大学にも行けた。むこうで仕事はなかったけどこっちにゃ可愛い子供たちがいる。毎日あいつらの笑顔を見ているだけでも幸せだよ。それに……」

 思い出すのは幼い日のこと。

 戦火を逃げ惑う隣人たちの残像に怯える毎日。炎の赤を憎み続ける中、唯一ゼンに優しかった赤色。

「……ねぇゼン。フレンのことが、好き?」

 ノルンの問いに、答えるだけの言葉はない。

 ゼンは黙ってノルンを見た。

 その顔を見て、ノルンは笑う。

「意地っ張りだなぁ、二人とも」

「そう言ってくれるなよ。大人は大変なんだ」

「ずるいよ。すぐにそうやって逃げる」

「それも、大人だからな」

 苦笑いをしながらはにかむゼンは、ゆっくり腰を上げた。

「さて、そろそろ帰るよ」

「フレンの居場所、分かるの?」

「いいや。でも今はフレンに会わないよ。余計惨めにさせるだけだからな」

「ゼンがそれでいいならいいや」

 尻についた草を払い、とっとと、とっとと、と独特の歩調でゼンは丘を降りた。右に傾きがちな背中が小さくなるまでノルンはじっと見送っていた。

「やけに感傷的で干渉的だな」

 嫌みな低音が呟いた。

「そうでもないよ。ただ、私は世話になっている村の人たち……特にあの二人には幸せになってもらいたいだけだ」

「それが感傷的なんだよ」

 大きな体を伸ばし、ヴァンがノルンの足下にすり寄った。

「お前、なぜ過去を視ない?」

 見上げる犬の目はわずかに光り、忌々しげにノルンを睨んだ。

「お前のその目で……過去を視る〈ウルドの目〉を使えばあの男の片足の理由なんてすぐに分かっただろう。何を遠慮していたんだ?」

「遠慮じゃないよ」

 そっと左目を押さえる。

 ノルンの目は〈荊の魔女〉が代々受け継ぐ魔女の力の根源たるもの。若草色の目は一瞬ちらりと燦めき、すぐにその光を消した。

「婆様が言っていた。魔女の力で最も忌避すべき力は、未来を視る〈スクルドの目〉ではなく過去を視る〈ウルドの目〉だって」

 優しかった婆様。

 慈愛に満ちたあの瞳を、ノルンは今でも忘れられない。

「未来を視れば因果が捩れる。過去を視ればその人を見る心が捩れる。だから余程のことがない限り、ウルドとスクルドに頼ってはいけないと、婆様から言われている。だから、私は過去を視ないの」

 ノルンの視線は羊から空へ移る。

 何とか維持し続けている〈荊の柵〉は今日も天を覆い尽くす。規則的な荊の編み目をじ、と見つめる。

「それに、〈ウルドの目〉で過去を視るのは結構力がいるんだ。そんな強い力を使ったら……」

「見つかるな」

「だろう?」

「おそらく予想だけどね、密偵を大量に使わせるのはしないよ。三世様は無駄が嫌いだし、それで私が見つかるなんて毛ほども思っていない」

 ノルンは顎に手を当てながら話し続けた。

「計略の宰相殿の助言もあるだろうし……私を追ってくるのは九分九厘、あいつだ」

「……第一王子か」

 一人と一匹の脳裏に雪色の王子が浮かぶ。

 初代国王・オルディンの再来、魔力を持つ王族として絶大なる支持を得ている第一王子・アスク。

「魔力を辿られないよう結界は何重にも張ってるけど、過去視をするとなるとそれを外さないとできない。そんなことをしたらあいつに気づいてくださいと言わんばかりだ」

「感情的な教えよりも余程論理的な言い訳だ」

「どちらも本音だよ」

 軽口を叩きながらも、ノルンの顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。軽く上がった口角とは裏腹の、険しい目で遠くを見た。その方角、遙か東。ノルンの目は王都を見据えた。

「…………必死だな」

「必死だよ、そりゃ」

 ぱんっ、

 思い切り頬を叩いて、一気に息を吐く。

「私はあいつのためにここに来たんだ。絶対に見つかるものか……!」

 甦る朱い悪夢。垣間見た未来の扉の隙間。

 代替わりの宝冠……血に濡れた剣……燃えさかる焔……倒れた色は――。

 全てを小さな胸の内に秘め、ノルンは羊飼いの仕事に戻る。めぇめぇ羊を追いかけて、母親の乳を食いっぱぐれた子羊を抱き上げた。

「まず、見つからないだろうけどね」

「なぜそんなことが言える?」

 ヴァンの疑問にノルンは溜息混じりで答えた。

「だってあいつ、方向音痴だもん」







 びゃっくしょーい!

 けたたましいクシャミが闇夜に響いた。

 盛大に鼻水と唾を飛ばした人こそ、ライアドルが誇る麗しの王子だとは……。旅に出てからもう数えるのも止めた溜息を負けず劣らず盛大についたリトは頭を抱えた。

「アスク様……クシャミの時は是非とも口を覆ってくださいませ。被害が甚大です」

 主に私の。

 顔面に王子のいろいろな液体をくらったリトは乱暴に外套の裾で顔を拭った。

「……誰かが噂をしている」

「ああそうですか。私の忠告は無視ですか」

「くそ……ノルンだ。あいつが俺が絶対に見つけられないと笑っているんだ……」

 あながち間違いではない推測をしていることに誰も気づかず、リトもはいはいと話半分に流していた。魔力のせいか、意外と直感力に優れた男・アスク。今日も果てしなく方角を間違え、南に向かっていたはずなのにいつの間にか北端のアイラグラウ山脈の麓に来てしまった。初夏だというのに冷たい風が肌に突き刺さる。

 王子と従者の二人は、連続耐久野宿・二十日目に突入した。




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