第五章
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宰相・グリーノの身分は決して卑しくはない。
現王アウリール三世が父・先王アウリール二世の三男を父に持ち、古の王族の子女が降嫁し作り上げた三公爵家の一つ・三の公爵家の人間である。
だが母親の身分は高貴ではない。
好色だった父が気まぐれに手を出した街の踊り子。それがグリーノの生母だった。
父は女にだらしなかったが、慎重だった。たとえ公爵家に出されたとはいえ、生まれは王族。彼のオルディン王の血を引くものという自負がある。三の公爵家を継いだ後も妻の他に五人の妾を囲っていたが、いずれも身分の高い女性ばかりで、おいそれと外に胤を残すほど愚かではなかった。
だがグリーノの母は違う。
たぐいまれなる美貌の持ち主には往々にして野心が宿る。踊り子に身をやつしていたが、下級騎士の家の娘だった母・パメラ。食い扶持を減らすためにと父親に売られなければそこそこの相手と結婚できた、そう信じて止まない人だった。
三の公爵が声をかけてきた時、パメラは千載一遇の好機をつかんだのだ。
女の計画は男の理解と理性を易々と越え、公爵との子を身籠もった。パメラの人生は初めての悪阻を境に激変したのだった。
全ては自分の落ち度だと猛省した三の公爵は、パメラを彼の屋敷に呼び、全ての面倒を見ることにした。二頭立ての上等な馬車に乗り込む、夢のような一歩を、パメラは死ぬまで覚えており、幼いグリーノの寝物語によく語っていた。
だが、パメラの生涯は思わぬところで幕引きを迎える。
下賤の踊り子を妾とはいえ妻に迎え、あまつさえ生まれたのは男児。子宝に恵まれなかった第三婦人の謀略により、パメラは命を落とした。
その後グリーノも幾度となく殺されかけたが、幼い頃より慧眼と謳われたグリーノにとって、浅はかな女の嫉妬による計略など全て看破できて当然のことだった。だが、三の公爵家の居心地が悪いのはどうしようもない。
多くの腹違いのきょうだいがいたが、そろって自分より劣っていたから毒にも薬にもならない。増して彼らを出し抜いて三の公爵の座を継ごうなどという野心を、グリーノは持ち合わせていなかった。くだらない。権力闘争など彼にとっては部屋の隅の埃程度のどうでもよさだった。
父もそれを分かっていたのか、グリーノを早々に宮仕えに出してくれた。退屈な三の公爵家を出たことで、グリーノは生涯忠誠を誓うことのできる現王・アウリール三世に出会えたことが、何よりもの幸福だった。
「宰相殿」
無粋なノックがグリーノを現在へと戻した。
過去にたゆたうのはグリーノの癖だった。過ぎ去りし思い出は時を経るほどに美しく輝き、余計な醜さが濾過されていく。溜まった澱など片隅に追いやって、透明な過去に身を浸す。激務に追われる宰相の、唯一心休まる時間だった。
扉を開けると珍しい顔が待っていた。
「……これはこれは。私のような卑しいものの部屋にお一人で来られるとは……、如何されましたか?」
「白々しい口を閉じなさい」
紺碧の衣装に身を包んだ王妃・ベルタは目も合わさず言った。扇で隠した口元は見なくても歪んでいると分かる。グリーノはいつもと変わらぬ柔和な笑みを絶やすことなく慇懃に挨拶をする。
「これは失礼いたしました」
「本当に無駄によく回る口。災いのもとです」
「肝に銘じておきましょう。それで、ご用件は?」
ベルタはす、と廊下に目を配った。
――誰もいない。
静かに足を運び、執務室へと入り、後ろ手で扉を閉めた。
「大胆なお方だ。王に誤解されますよ?」
「下種の勘繰りをするような方ではありません。貴方と違って」
「辛辣ですね」
「私は貴方が嫌いです」
取り付く島もなくベルタは吐き捨てた。
何でも見透かしたようなあの翡翠の目が嫌いだ。グリーノの前に立つと自分がいかに浅ましい人間であるか、ずらずらと罪状を並べ立てられて子供に噛み砕くように教え諭される。そんな錯覚に陥る。賢女と讃えられ、王に嫁いだその日も、この男は媚びなかった。それどころか粘着質で、どこか爬虫類の冷たさを帯びた目でじっとベルタを見ていた。
「昔から、嫌いです」
「そうでしょうね。一国の宰相とはいえ、私は元は踊り子の息子。馬が合わなくて当然です」
「そうやって心にもないことをべらべら喋るところも嫌いです」
「おや、私は真実しか口にしませんよ?」
「舌先三寸で戦場を渡り歩いた人間の言うことなど信用できません」
「これは手厳しい。昔のことを出されては、私も反論できませんね」
わずかに苦笑し、王妃に椅子を勧めた。執務室の調度品はどれも質素で、その身一つで栄華を極めた宰相の部屋だとは思えない。
グリーノは慣れた手つきで薔薇茶を淹れた。ふわりと格調高い香りが部屋中に広がる。差し出された琥珀色の液体に満ちた白磁の茶器も、申し分のない一級品。簡素な部屋の中で異彩を放つそれは、グリーノのとっておきだった。たまにふらりとやって来ては茶を飲んでいく王が「こういうものはケチケチするな」と置いていったものだ。さすがのベルタも文句のつけようがなかったのか、黙って一口、薔薇茶を飲んだ。
「それにしても〈荊の魔女〉様は何処におわすのでしょうね」
「……………………さぁ」
昼下がりの茶会の話題は自然とそうなった。
重臣たちの目下の懸念は、未だ行方知れずの〈荊の魔女〉。宰相と王妃が雁首を揃えれば自ずとそちらに矛先は向く。
「王妃を凌ぎ、先代さえも上回る力をお持ちだそうだが、如何せんまだ十四の少女。土台無理な話だったのでしょうかね?」
「…………」
ベルタはグリーノの疑問に答えるだけの言葉を持たなかった。
なぜ、〈荊の魔女〉が出奔したのか。
それを一番聞きたいのはベルタだった。
先代〈荊の魔女〉が急死して以来、陰日向なく慈しんできた少女。十五の成人を前に、なぜ急にいなくなったのか。
波打つ艶やかな黒髪、輝く緑の瞳。存在そのものが紅薔薇の如く気高く、紅の宝冠を戴く魔女にふさわしい娘が、今どこでどうしているのか。ベルタは気を揉んでいた。
「じきにアスクが見つけるでしょう」
「そうだとよいのですが……」
薄い唇が静かに薔薇茶をすする。
そこで会話が途切れた。
なんと居心地の悪い沈黙だろう。規則的に水滴を音す水時計の音だけが執務室に響いている。外の鳥の鳴き声すら遮る硝子窓に、ベルタの青い顔が映っていた。
「…………どういうつもりでしたの?」
重苦しい空気を切り裂いたのは、ベルタだった。
白い手袋をはめた手が、かすかに震えている。カチャカチャと耳障りな音を立ててカップを戻せば、すぐにグリーノと目が合った。
「……何が、ですか?」
真正面に座するこの男。
ベルタは昔から嫌い――否、苦手だった。
互いに公爵家という王族に連なる一族であるために幼い頃から何度も顔を合わせてはいるが、ついぞこのグリーノという男の底を、見たことはない。いつでも難しい本を片手に飄々と大人たちの間を歩いていた。三の公爵家では、武芸に励む異母兄に気取られぬよう短刀を投げつけ驚かせたり、勉学に勤しむ異母弟の隣で次々法文を暗誦したとか。時折一の公爵家を訪れれば、賢女として生まれ、血の滲むような魔術の研鑽を重ねているベルタもまだ知らぬ魔術の理を尋ねてくる。しかもたちの悪いことに、この男は答えを知っていたのだ。幼心になんて傲慢な男だと憤慨したこともある。
そしてそれは、何十年経った今でも払拭されない、暗い過去の残像となってベルタに付きまとっている。
「先日の、アスクの謁見の際のことです」
かといって一臣下に怯んでばかりはいられない。
アスク王子が旅立って七日。それはベルタがグリーノと相対することを決意するまでにかかった時間だった。言わねばならないことだと分かっていたが、この男と話すとなると心が揺れた。
深く、息を吸い、腹に力を入れた。
「私が、魔女を探しに行けない理由を、何だと言うつもりだったのですか?」
王とフィアラルの剣によって遮られた「たとえば」のあと。ベルタはそれを聞かずにはいられなかった。一点の曇りなき王妃として、賢女としてこの国に君臨するために、それは確かめねばならないことだった。
「……お心当たりがおありのようで」
優雅に茶を飲む仕草ですら皮肉に思える。グリーノの穏やかな声は、まるで針のように突き刺さる。
「〈荊の魔女〉が不在の今、この国の護りは賢女たる私がやらねばならない仕事。たとえ〈荊の柵〉が万全であろうとも、それは変わりません。貴方だって馬鹿ではないのですから、それくらい分かるものでしょう?」
「ええ、確かにその通りです」
「ならばあの時、何を言おうとしたのです?」
「…………」
再び気味の悪い沈黙が流れた。
ベルタの大きく開いた背中から、汗が噴き出るのが分かる。じっとりとした、嫌な汗だ。戴く蒼玉の宝冠が締め付けるような痛みを頭に留めたまま、ベルタは潤しても渇きを訴える喉に薔薇茶を流し込んだ。
「私に、他にどんな理由があって、探索に向かえないと、貴方は言うの?」
「それは御自身の胸に聞いてみてはいかがですか?」
翡翠の瞳が突き刺さる。
猛禽のように鋭い光が、一瞬明滅した。心臓を鷲掴みにされたような不快感がベルタの全身を支配した。
「貴方の腹が、探られても痛くないはずがない」
さらりと流れる鳶色の髪。悠然と立ち上がる宰相の顔は、背筋が凍るほど美しい。ベルタが目の端の烏の足跡を気にして止まないのに、この男は昔と一つも変わらない。端正な顔が、蝦蟇のように脂汗を流すベルタの横で囁いた。
「私は先代〈荊の魔女〉の死に疑問を持っています」
「、っ!」
「些か不審な点が多すぎまして……。あれほど元気だった御方が、たった数日で弱り果ててしまわれた……なぜでしょうね?」
「そ、それは……あの方も、長く心臓を患っていましたし、お年も召していらっしゃったから……」
「そして現〈荊の魔女〉の失踪」
息がかかるほど近く、翡翠の宰相はベルタの動揺を見逃さない。
「まだ成人していない彼女が逃げ出すには、誰かの手引きがあったのではないですか?」
「それが私だとでも……!?」
「違うのですか?」
「ち、違う……! 私が、私にそんなこと、できるわけがありません!」
そう。
できるわけがない。
グリーノの推理など全て的外れ。憶測の虚構に過ぎない。
――なのに。
なのにベルタの心中は穏やかではない。荒波に揺れる小舟のように、賢女の心は脆く崩れ去りそうだった。
「本当に?」
鼓動が高鳴る。
全身が心臓になってしまったかのような、耳障りな鼓動はぐらぐらとベルタの体を傾かせている。ついに顎を伝って汗が白いテーブルクロスを汚した。
「〈因果の塔〉を取り巻くあの紅薔薇の意味を知らぬ私ではありませんよ?」
「!!」
立ち上がったベルタの椅子が倒れた。薔薇茶が茶器ごとひっくり返り、白のクロスを琥珀色に染めた。
「おや、まさかあれを知っているのは自分と陛下だけだとでもお思いでしたか?」
血の気が引くとはこのことだ。ベルタは真っ青になった。指先が冷たくなる。唇が震える。
「美しい塔ですね」
ふ、と窓の外を眺めるグリーノの目には、城内の北端、この国で最も高い建造物〈因果の塔〉が映っていた。〈荊の魔女〉が住まう塔。季節を問わず咲き乱れる紅薔薇が、蔦のように絡まる塔は、白と青を基調としたこの青薔薇城より荘厳だ。
「咲き誇る紅薔薇は、魔女の強すぎる魔力を抑えるためのもの。あの紅薔薇がある限り、魔女は外へは出られない。……それが、代々賢女がかけてきた呪縛だから」
ベルタは声にならない叫びを上げた。じわり、じわ、とこぼれた薔薇茶の染みが不吉に広がる。まるで自分が汚されているかのような錯覚。ベルタの世界は傾き始めていた。
「私を誰だと? この国の宰相ですよ? この国に関わることなら、たとえ機密事項であっても、貴女様よりも知っているのは当然のこと。……ああ、陛下から伺ったのではありませんよ。情報源は、秘密です」
グリーノの軽口はベルタの耳に届かなかった。彼女の心を支配していたのは、言いようのない焦燥感と、この男に対する、恐怖心だった。
逃げようと思えば逃げられる。
しかしベルタの足は床に縫い付けられたかのようにびくともしなかった。がくがくと膝が震えるのに、崩れることもできず、王妃はただただ立ち尽くすばかりだった。
「その呪いをかけるも解くも、貴方次第。だとすれば、〈荊の魔女〉が自ら出て行けるよう、あの紅薔薇を閉ざすこともできる……」
「そんなことできるわけないでしょう!」
だんっ!
白い手が机を思い切り叩いた。その勢いで茶器が割れたが、ベルタは構うことなく声を張り上げた。
「あの呪いは! オルディン王が御自ら施し、彼に嫁いだ初代賢女様から脈々と受け継がれてきた、賢女の……王妃の最初で最後の大魔法なのです! 森羅万象を狂わすほどの力を持った〈荊の魔女〉を、人たらしめるために何百年とかけられてきた魔法。それを私が、私一人が、どうこうできるような代物ではありません!」
根源的な恐怖心を抑えたのは、誇りだった。
生まれた時から背負った賢女の業。それはベルタの身に、精神に深く刻み込まれている。数多くの賢女たちがそれを受け継ぎ、つないできた。長き時を経た魔法は徐々にその力を増していく。今、あの〈因果の塔〉に纏わり付く紅薔薇を解除するだけの魔力など、ベルタにはない。維持するだけで精一杯なのが、現実だ。
だがそれだけではない。
何人もの女たちが積み上げた歴史そのものであるあの紅薔薇を枯らすことなど、たとえ一時であろうともベルタにはできなかった。それこそがベルタの誇りであり、賢女としての譲れぬ一歩であった。
それをこの男――!
あらん限りの恨みを込めて、ベルタは涼しげな翡翠の瞳を睨みつけた。
「…………そうですよね」
ふ、とグリーノが笑った。
張り詰めていた空気が一瞬にして和らぐのを肌で感じた。そ、と春の花が綻ぶかのような笑顔。
「王妃ベルタ様に限ってそのような愚行に及ぶわけがありませんよね。私がどうかしておりました。このところ激務が続いておりまして……などは、言い訳にもなりませんね」
何が起こったのかよく分からなかった。ただ、ベルタの怒りはもはやこの男には届かない。それだけは分かった。
「数々の非礼な言動、誠に申し訳ございません」
膝をつき、深々と頭を下げる宰相に、ベルタは何を言えばよかったのだろう。ただ間抜けな声で、ええ、とだけ答えた。
その後、グリーノがいつものようによく動く舌でぺらぺら言っていた気がするが、ベルタは覚えていない。気づけば自室でぼんやり座って刺繍をしていた。
「つ、」
針が刺さる痛みで初めて我に返った。
ふつり、盛り上がる赤い血は、紅薔薇が咲いたかのように絹に染みた。錆びた色の赤はじわ、と広がり、瑠璃色の刺繍糸を浸食する。
「…………不吉ね」
王家の青を塗りつぶす魔女の深紅。
滲む血液に囚われそうになった心を、遠慮がちなノックが引き戻した。
「母上? 大丈夫ですか?」
「シャルヴィ……」
顔を覗かせたのは第二王子・シャルヴィだった。ベルタによく似た亜麻色の癖毛と垂れ目の王子は、心配そうに顔を歪めながらもじもじと母親の部屋に足を踏み入れた。
「ああ、シャルヴィ。もっとこっちに来て母様に顔をよく見せて頂戴?」
ほとほとと頼りなさそうな足音を立てて寄ってくる次男を、ベルタはそっと抱き寄せた。
「シャルヴィ……私の愛しい息子…………」
丸い、柔らかな頬を手で包み、そっと口づけをする。
ベルタはこの第二王子が愛しくて仕方がない。
若き日のベルタに生き写しの王子。王に似たのは瞳の緑だけ。あとは全てベルタに似ている。
――そう、全て。
目が眩むほど眩しい存在に隠れてしまう、日陰の身。その境遇までもがまるで双子のように似ている。
ベルタにとっての〈荊の魔女〉は、シャルヴィにとってのアスクだ。
魔女がいる限り、ベルタは王妃という身分でありながらも二番目の女。この国においての価値は、実質三番目……いや、それ以下かもしれない。童歌では王の次に偉い王妃であり賢女であっても、所詮は魔女の代用品。しかも魔女より使えない。
「貴方だけ……貴方だけは私を見捨てないでおくれ…………ね?」
「……母上。僕はいつだって母上の側にいますよ」
嬉しいことを言ってくれるこの孝行息子を、ベルタは幼子がぬいぐるみを抱くかのように抱きしめた。
アスクという類い稀なる存在が眩しすぎて、影に立つこの子を誰も見ようとしない。名ばかりの第二王子を、ベルタは溺愛していた。目に入れても痛くない。誰よりも自分に似ているこの息子を、王よりも愛していた。
「さあ、こっちに来てお菓子をお食べ。私の話相手になっておくれ」
「はい!」
裁縫道具を片付け、陶器の菓子鉢を開ければ、一口で収まりそうな野苺のパイが顔を出す。ベルタの好物であり、シャルヴィの好物だ。向かい合うよりもわずかにずれた隣に座らせ、侍女にホットミルクを用意させた。
湯気を立てる甘い牛乳を一口。ほ、と安堵の息をつく。先程のグリーノとのやりとりが嘘のように感じられる、穏やかな時間だった。
「よかった。母上がいらっしゃって」
「あら、どうしたのです? 突然」
「あ、いえ……先刻母上とお話でもと思ってお部屋を尋ねたらお留守だったので……今度はいらっしゃってよかったという意味です」
シャルヴィは顔を赤らめながら言った。十五の成人を過ぎて久しいというのに未だ母親離れできていないと思われるのが恥ずかしいのだろう。いつもなら愛い奴め、と撫でくりまわしたところだが、ベルタの頭は完全に凍結した。
――この子にだけは、知られたくない。
「少々……グリーノとお話があっただけよ。ごめんなさいね、待たせてしまったのね」
母の笑みをぎこちなく湛えながら、ベルタは冷や汗をかいた。
嘘は言っていない。肝心なことを言っていないだけで。言い足りないことは罪ではない。
「宰相と話していたのなら、難しい話だね。きっと僕には分からないことだ」
悲しげに眉をひそめた笑顔が、薔薇の棘のように胸に刺さる。
シャルヴィもグリーノが苦手なのか、彼の名を出すとこうやっていつも逃げてくれる。次男の人の良さにつけ込んだ、浅ましい回答。しかしベルタに悔いはない。シャルヴィにだけは、知られたくない。知らせてはいけない。その一心でベルタは話を変えた。
「そうだわシャルヴィ、馬には慣れましたか? 少し前に生まれた馬を陛下からいただいたのでしょう?」
少し苦しかったかもしれないが、これが一番だ。
「はい! とても可愛らしいんですよ。今日だって僕の手から人参を食べてくれて……」
ふにゃりと笑う顔はどこかまだあどけなかったが、シャルヴィは気にもせず嬉しそうに馬の話をし始めた。本と動物をこよなく愛する第二王子。魔法と武芸を好むアスクとは対局の温室の王子。生まれた時から乳母に育てられてきたアスクと違い、手ずから手塩にかけて育てた次男を慈愛の瞳で見つめながら聞き役に徹した。
「毛並みがいいんですよ。月毛なんですけどね、白めの毛並みが本当につやつやしてて、首も太いし、馬丁のニナイも褒めてくれてね……」
「そうなの。良い馬をもらいましたね」
「はい! 僕、どうしてもその仔馬が欲しくて……父上に我が儘を言ってしまいました」
「あらあら、陛下に我が儘だなんて。いけない子ね」
言葉では窘めていても声が甘やかしている。シャルヴィ王子が歳より幼く思えるのは、ひとえに王妃のこの甘やかしが原因である。だが、言いたいやつには言わせておけばいい、とベルタは思っている。おそらくこのシャルヴィに玉座が回ってくることは、ない。……それこそアスクに何かない限り。
不意に暗い光がベルタの目に宿った。
「母上、だってあの仔馬は兄上の愛馬と兄弟なんですよ! だから僕、初めて父上に本気でお願いしました」
母の顔が固まった。
「兄上のスレイプニールは、兄上の髪のような雪色なんですけどね、僕の仔馬だって綺麗なんですよ。……母上? お顔の色が悪いですよ? どこか痛いんですか?」
「……い、いいえ? 大丈夫よ。そう……アスクの馬と……」
嬉しそうに破顔する息子の頭を撫でながらも、ベルタの心中は複雑だった。
シャルヴィはベルタの偏った愛情に気づいていない。母は平等に二人を愛し、慈しんでくれていると信じて疑わない。
だがベルタはアスクが、怖かった。
ライアドルの初代国王・オルディンに生き写しの長男。それ以外の誰とも似ていない息子。王にもベルタにも似ず、初代の面差しとベルタと拮抗する魔力を持って生まれたアスクが、自分の子だとは信じられなかった。あの冷たい冬の月のような瞳も、雪原の燦めきを宿した髪も、目の形も鼻の形もベルタと違う。ただそれだけでなぜか避けてきてしまった長男を、次男が慕っている。嫉妬にも似たどす黒い感情が渦巻き始めたのをベルタは感じた。
「母上……今頃兄上はどのあたりにいらっしゃるのでしょうね?」
心底心配そうに尋ねるシャルヴィが、それでも愛おしい。ベルタはふ、と窓の外を見た。空は落陽が裳裾を引くように紫がかり、向こう岸の夜と顔を合わせまいと急ぎ下がるところ。これから風が吹く。冷たい、冬の名残の風が。
「まずは北に行ってぐるりと国を回ると仰っていたけど、兄上……大丈夫かな?」
ふぅ、と温かなミルクを吹いては波紋を立たせてシャルヴィが呟いた。
「……………………どういうことだ」
「…………どういうことでしょうねぇ」
運河の発達した都市・ギャラルブルー。煉瓦造りの町並みと、行き交うゴンドラが有名な、ライアドル南西の街。白馬に跨がったアスクは頭を抱えてリトに尋ねた。
「おかしい……俺は確かに北に向かっていたのに…………なぜギャラルブルーにいるのだ? 妖怪か? 妖怪にだまされたのか? それともこれはあいつの妨害魔法か何かなのか?」
「アスク様の方向音痴のせいです!」
ついにリトが噴火した。
「確かに私たち、北に向かってましたよ? 北上してましたよ? なのになぜ! ギャラルブルーに来てしまったのです? アスク様がやたらめったら曲がったり寄り道したりするからでしょうが!」
「だ、だってお前……平原は真っ直ぐ進んでいるか分からなくなるし……ま、街で名物だって薦められたら試食せずにはいられないだろうが」
「試食は断っても構わないんです! あの人たちはそれも商売なんですからね!」
頭が痛くなってきた。
リトはあの時ノリで随伴を受け入れてしまったことを心の底から後悔した。愛馬と同じ栗色の髪をかきむしりながらリトは説教を始めた。
「まったく……御自分の方向音痴っぷりを自覚してポケットに方位磁針を入れていたのは良策でした。けどどうして落として踏んでしまったんです? 何で馬から下りる時に足下見ないんですか? 馬鹿なんですか? あれが壊れてなければもうちょっとマシな方向に進んでいたと思いますよ?」
「そ、それは反省している。だから俺もこう、野生の勘的な何かを働かせてだな、……北だから…………寒そうな方向に進んでだな」
「なんでそこで野生の勘を働かせちゃったんですか! 貴方、王宮からあんまり出ないんですから野生の勘なんてあるわけないでしょ!」
「……………………おお!」
「何今気づいたみたいな顔してるんですか! もっと早く気づきなさいよ!」
「それはそうとリト、口調が変わってきている気がする……そして俺はだんだん蔑ろにされている気がしてならん」
「最近軍の方にばかり詰めていたので貴方様の扱い方を忘れていただけです。元々私はこういう感じだったと思いますけど?」
「……い、言われてみればそうだった。お前は昔から遠慮のない奴だった。そして俺は結構けちょんけちょんに言われてきた……」
この世の終わりのように項垂れるアスクに愛馬のスレイプニールもうんざりして不機嫌な声を上げた。
幼い頃、養父・スラーイン侍従長に命じられ、アスクの「御学友」になったリト。最初は優秀で類い稀なる才を持っていると評判の第一王子の近習に選ばれたことを名誉なことだと幼心に思っていた。
眉目秀麗、明眸皓歯と名高い王子は確かに立派だった。頭脳明晰、品行方正。あらゆる褒め言葉を総なめにしていた第一王子。こんな素晴らしい人に仕えられるなんて……! と夜も眠れなかったのは最初の三日くらい。
大人たちの目がなくなると、アスクの駄目っぷりはすぐに露見した。お茶を飲もうとすればなぜかカップではなくソーサーを持ち上げて中身をひっくり返してしまうわ、未だに靴紐を結べば十中八九縦結びになるわ。一歩王宮の外に出ればこのようにすぐに道に迷い始めるわ、一人で放っておけば野良犬野良猫その他野良動物に持っている食料を追い剥ぎ……もとい分け与えるわ……。しかしそれに誰も気づかず、常に周りから畏敬の念を持たれている。恐ろしいことだ。ビビリ人間のリトですら毒舌を震わざるを得ないというのに……。ついてきたことを後悔すれども、一人で行かせなくて良かったとも思う。もしもこれが王子の一人旅だったら、出発から数歩で路銀がなくなっていた。
(だって明らかに追い剥ぎ風体の老人に全財産渡そうとしてたしな……)
「まぁ、アスク様に頼ってしまった私も悪いんです。すみません、お馬鹿な主を詰れないほどの馬鹿な従者で……」
「馬鹿って言うな馬鹿って……俺だってめり込むぞ」
「めり込まないでください。せめて落ち込んでください」
項垂れすぎて今にも落馬しそうな勢いだが、なぜか絶妙な均衡を保っている王子が怖い。煉瓦敷きの街道を蹄鉄が軽やかに踏みならす。さわさわと流れる穏やかな運河さえも、この終わりが見えないどころかはじまりすら行方不明の旅を嘲笑っているようだった。
「前途多難だな……」
そりゃこっちの台詞です。
リトはその一言を飲み込み、深い溜息に代えた。